2009年1月27日火曜日

あとがき

皆様、長い間、つたないブログをご愛読くださり、ありがとうございました。お蔭さまで地球人は、2008年春、無事に社会人となり、私の多言語教育指導(成人してからは、維持向上へのアドヴァイス)もすべての役目を終えましたので、このブログもこのあとがきで、一旦終了させていただきたいと思います。

このブログで、すでに大人になってからの、地球人の多言語常用と、維持の努力について触れたり、又、旅の色々な思い出に触れたのも、言葉の壁を、ある程度乗り越えると、多くの、「未知への挑戦」への勇気が、自然と広がることをお伝えしたかったからです。地球人は世界中を、ただ観光レベルだけではなく、一般の現地庶民生活レベルの目線で楽しんでおり、そんな地球人の様子を、少し、ご紹介したかったからです。

多くの人が多言語習得に挑戦しますが、私自身も含め、なかなか言葉は固定しにくく、子供時代、外国生活を経験し、大いに使っていた人々も、その後の不注意から、残念ながら固定せず、忘れてしまう人も多く見られます。

それほど、言葉を高いレベルにまで引き上げ、固定させることは難しく、長い常用期間を維持してこそ、終生忘れえぬ言葉となることを、これまでの地球人の維持強化の努力や旅の体験も含め、ご紹介することによって、「多言語習得は、親子で果たす、長期プロジェクトである」と、強調したかったからです。

子供さんが、適切な環境で、言葉の導入を果たしたら、親御さんも、維持、強化、固定への環境設定や支援を、ぜひ、考えてあげてほしいのです。子供は覚えるのも早いかわりに、忘れるのも、とても早いのですから、、、。勿論、大人なら、なお更、、、、。

実質的には、地球人の中学校の選定、フランス語の導入、そしてその後、英語の維持強化のため、学寮生活を実現させた時点で、私の積極的な多言語訓練の努力は終了しており、後は地球人本人が、語学訓練に欠かせぬ、環境、導入、常用、固定を繰り返し、今日に至っております。ポスドクの地を日本で過ごした地球人の日本語も、かなり高いレベルに到達し、母国日本の企業に就職までできて、今、親として、この上ない喜びを感じています。

勿論、日本に来た強い動機は、素晴らしい、専門分野の研究環境があったればこそですが、、、、。何度も言うように、多くの言葉を、終生忘れぬ言葉として、高いレベルに固定してゆくには、気の遠くなるような忍耐力を持って環境を作り、言葉の学習継続と、常用頻度を、バランスよく保つ努力を続けなければなりません。

そう書くと、「ああ、とても無理!!無理!!私とは別世界のお話!!」と簡単に諦めてしまう親御さんも居るかもしれません。しかし、そんな方は、ぜひ、地球人自身のブログに入って、「テツ流言語習得法の4」を読まれ、立ち止まってほしいのです。

そして、彼の言う、「子供の立場から、親へのお願い」というところを読み、子供さんの為に、ぜひ、真面目に、考えてあげてほしいのです。

地球人は、自分自身の感想として、子供時代の言語パワーが、如何に素晴らしいものかを、書いています。そして、どんな子供でも持ち合わせている、この言語パワーを、「大人の常識で、過小評価しないでほしい!!」と、述べています。

そして、「多くの言葉を同時進行して学んでも、混乱はない!!」と、断言しています。だから、皆さんも本当に真面目に、この問題に、向かい合ってみては如何でしょう!!お金や物を残して上げるより、貴重な活きた財産を、子供さんの未来の為に、残して上げたいと願う方は、、、、、。

多くの言語学者も、「多言語による音の刺激が、スポーツ、知力、芸術感性、音感などの、潜在能力の開発に与える効果に、注目すべきだ!!」と述べています。人間の脳は、まだまだ未知の、解明できない神秘的な部分が多く、無限の可能性を秘めており、信じて試してみる価値は、おおありだと思うのですが、、、、、、。

地球人の後の、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語などの導入が、比較的短時間で、簡単に、正確な発音がとれ、日常会話レベルにまで、学習できたのも、それらはすでに、幼少時に耳が開かれた音域内の言葉であり、多言語学習に対する、彼なりの自信や、ノウハウが生まれていたからです。

だから、やり方はどうあれ、子供の耳の鋭敏な11歳ぐらいまでに、皆さんは皆さんのやり方で、諦めずに多言語訓練を続けてあげたら、将来、きっと、子供さんの身を助け、可能性を大きく開いてあげられるのでは、、、、と考え、このブログで少し、体験談をお話して見ました。

又、私自身の体験も振り返り、子供達が、外国生活を健全に続けるためには、言葉もさることながら、体力、精神力、判断力、生活力(金銭管理能力)を、事前に磨くことの重要性にも、ぜひ、目を向けてほしいと願って、かなり多言語訓練とは離れた、独立訓練にも触れました。

なぜならば、多言語環境作りには、外国との交流が、すぐに、頭に浮かぶからです。将来は、子供さん一人で、外国への冒険や、挑戦をさせたい、と願っている親御さんも、沢山いらっしゃる事でしょうから、、、、。

子育ては本当に、時間を巻き戻すことができない、貴重な時間の連続です。だからこそ、色々なことを大人が想定して、子供と十分話し合い、励ましあいながら、計画的に挑戦することが、大切ではないでしょうか。そうすれば、多言語習得も、きっと、いつかは叶う夢だと思います。

郊外型の家に関する記述は、安全な環境を選び、更に厳しい訓練を体験させ、留学を間近に控えた地球人との、親子共同作業(動植物の世話など)も消化しつつ、体力、気力、精神力を鍛え上げ、独立訓練の完成を目指す為、便利さとは逆行する生き方を選んだ、体験談です。

自分で体験してみた結果、私は周りの皆さんの、「時間も、お金も無駄なのでは、、、、」というご心配に反し、地球人の精神的な強さと、頼もしさと、思いやりの心を磨け、本当に、ここでの生活は、有意義な時間の連続だったと、今でも心から思っています。お金では買えぬ、貴重な体験を地球人にさせられる、絶好の環境でしたから、、、、、。

勇気を出して、一歩踏み出し、積極的に行動してみれば、何かが変わるかもしれないと、試行錯誤しながら、色々と模索した日々が、今ではとても懐かしく感じます。

ブログ前半の、私自身のエピソードのご紹介は、時期を逸してからの言語習得と、維持向上が、いかに困難であるかを、改めて皆さんとともに、考えて見たくて、体験談を書いてみたものです。きっと、多くの皆さんが、同じような経験と、感想を持っておられることでしょう。言葉の壁の高さと、維持の難しさを、、、、、。

そして、こんな私自身の不甲斐ない体験こそ、地球人への多言語訓練と、その維持強化プランを生み出す、強い動機となったのです。長い将来を見据え、生まれてすぐから行わなければならぬ、「国際人養成の為の、必要不可欠な努力」として、、、、。

日本人の母国語、日本語という、低音域の言葉の特異性に注目し、聴覚などの問題点を考え、多言語習得を子供さんに期待している多くのご両親には、ぜひ、母国語である日本語に、11歳ぐらいまでで耳が固定されてしまう前に、広い音域を確保する為、早めに多言語訓練を開始されることを、改めてお勧めし、長いブログの筆を、おかせていただきます。

この体験ブログが、現在子育て中のご両親や、将来の子育て予備軍の皆様に、幾分なりともお役に立つことを心から願いつつ、遥かカナダの地より、ご健闘をお祈りしております。                                           2009年春、テツママ  (完)

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お知らせ:
皆様方とは、又、引き続き、不定期ブログ、テツママの「独り言」でお会いしたいと思います。それまで、御機嫌よう、さようなら!!
       

2009年1月25日日曜日

新たなる夢への飛翔!!

さて、研究室では論文の作成のための実験、MBAでは沢山のレポートや試験に追われ、悲鳴を上げる毎日が続いた地球人は、MBA開始後一年が過ぎた2007年の夏、カナダのモントリオールの本校で、夏休み3週間の集中講義を受けることになった。日本のキャンパスからは13人の学生が参加した。

地球人は半年ぶりに我が家に戻り、一週間ぐらい休んで、(といっても、相変わらず、何やら分からぬ論文集のようなものを一杯抱えていたが、、、、)その後、モントリオールのアパートに移り住んだ。友人達とシェアして借りた3週間のアパート暮らしだ。このアパートは大学まで歩いて5分ぐらいの便利なところにあった。

昔、地球人はこの大学で科学を専攻し、4年生まで通った。歴史の古いこの大学は、モントリオールの街のど真ん中にあり、どこに行くにも地下鉄で行け、便利なところだ。地球人は週末に、友人数人と泊りがけで、我が家に戻ってきた。 夏の我が家のベランダは、色とりどりの花々に囲まれ、緑のゴルフ場とスキー場が目の前で、清清しい。私は、食事もベランダに準備し、解放的な食事で、もてなした。

昔もよく、友人を連れて、週末戻ってきたものだ。今は、日本をベースにして、MBAの夏休みだけの集中講義に参加している。本当に不思議な感じがした。地球人は日曜日の午後、又、モントリオールに戻って行った。週日の昼間は、びっしりと講義が詰まっており、夜は友人達との飲み会など、充実した日々を過ごしているようだった。

地球人がMBAの夏の集中講義を受ける為、モントリオールに戻ってきたのには、訳があった。それは、日本での普通の2週末の授業だけでは、2年間で自分の勉強したい、全ての学科を取りきれず、2年半ぐらいかかってしまう恐れがあったからだ。

この頃、地球人には、新たな夢があった。それは、科学の知識と経営学の知識を基に、多言語が駆使できる科学者として、日本企業に就職し、社会人として挑戦をして見たい、という夢だった。自分より優秀な科学者が、世界中に沢山居ることは言うまでもない。

しかし、「もし、自分のこれまでの知識と、経験と、語学力のすべてを発揮できるような仕事に就けたら、素晴らしいのではないだろうか?!」というのが、その頃の地球人の、大きな夢となっていた。「そのためには、なるべく早く、MBAの勉強を済ませておきたい!!」

そう願った地球人は、夏の集中講義の間も、本当に真剣に、勉強していた。そして、2年目の彼は、MBAコースの会長を務め、クラスのまとめ役にもなっていた。

二度のバイオキャンプへの参加、科学雑誌への論文発表、MBAの資格取得への努力、多言語の維持強化など、着々と、自分の夢と目標に向かって進んでいく地球人に、もはや、悩みや迷いはなかった。

そして、地球人のこの夢の実現に向け、研究室の指導教授も、本当に、深いご理解を示してくださり、応援してくださった。夏のMBA集中講義を終えて、日本に戻った地球人は、新たな目標に向かって、具体的に動き始めた。

すでに、入りたいと希望している企業も決まっていた地球人の行動は、素早かった。試験と4回の面接を経て、2007年の年末には、希望していた企業への、「2008年4月入社」の内定も得ることができた。そして、地球人は、研究生活の最後の仕上げと、MBAの授業に、益々力を入れていった。

2008年3月末、地球人は、4年8ヶ月に及ぶ、ポスドク生活に別れをつげ、4月1日から始まる、社会人としての生活をスタートさせる為、住み慣れた研究室の側のアパートから、都心のアパートに、転居した。まだ、MBAの授業は5月末まであり、この頃が、地球人にとっては、一番、精神的に大変で、疲れたようだった。

その後、地球人は、5月末に、予定通りMBAの単位を取得し、無事、働きながら卒業した。一時は「死にそう!!」とまで、ねを上げていたMBAの授業だったが、終わった後は、「MBAを勉強すると決めて、本当によかった。すごく為になる授業だった。これは、これまでに、自分自身で下した決断の中で、最高のものだった!!」とまで言って、心から満足そうだった。

自分の一番望んでいた形で、希望の就職先に入れた地球人は、本当に、強運の持ち主だと思う。これまでにも、何度か、地球人の強運を感じることがあったが、今回の就職も、まさにそう感じた。

しかしながら一方、運は自分で呼び込むもの、、、、というのが、私が地球人の人生を見ていて、心から感じる事だ。運も確かにあったかもしれないが、その前に、やはり、常に自分にも厳しいハードルを課し、自らを高めることに努力し、行動し続けた姿を目の当たりにして、我が子ながら、「凄い!!逞しいなあ!!」と思ったことが、何度もある。(これも親ばかかな、、、、)

こうして地球人は、2008年4月、多くの先生方のご指導の下、先輩、友人、家族らに見守られつつ、努力の末に築き上げた、自身の3本柱、科学、経営学、多言語を引っさげ、新たな職場で、社会人としてのスタートを切った。研究室のサヨナラパーティーの席上で、指導教授から、餞に贈られた言葉、「大志」を胸に、、、、、。

「さあ!!これからは、世界の人々の健康の為に、そして、自分自身の幸せな未来の為に、いつまでも、日本と、世界の架け橋として、大きく、伸び伸びと、羽ばたき続けてね!!改めて、就職おめでとう!!地球人!!」

2009年1月23日金曜日

ポスドクの継続とMBA開始

研究生活、音楽活動(バンドに参加)、多言語の維持、スポーツクラブへの参加(卓球やローラーホッケークラブ)など、相変わらず、猛烈に忙しい毎日を送っていた地球人の、日本でのポスドク生活は、あっという間に、最初の奨学金給付期間の2年が過ぎようとしていた。

地球人は、最初の奨学金の期限が切れる前に、もう2~3年、この日本の研究室で、研究生活を続けたいと連絡してきた。彼自身の大人の決断。私にはさっぱり分からない遺伝子分野の研究に没頭している地球人の意志を尊重した。日本の奨学金は延長ができないとの事で、地球人は早速、カナダの厚生省の奨学金を申請した。

幸い、程なく、カナダの厚生省から奨学金授与が発表され、地球人は、日本での研究生活を続けることになった。そして、その間、相変わらず、音楽もスポーツも楽しみながら、日本の生活にすっかり馴染んでいた。スペイン語クラブの人たちとも、定期的に集まりを持ち、相変わらず、地球人の多言語維持の努力は続いていた。

英語は勿論、論文や海外での学会で始終使っているし、フランス語も、博士課程までの長期に渡って常用してきた言葉だから、忘れようがない。北京語も、幸い研究室に居る中国からの留学生と、常用する機会も続いており、すでに、固定された言葉になっている。

2度にわたる日本語検定試験への参加で、日本語の書き取りにも、大いに、自信が生まれたことだろう。こうして、地球人にとっては、多言語習得は、かけがえのない財産となりつつあった。

しかし、この頃から、「多言語が駆使できる、という才能が、地球人に逆に、迷いを与えたのではないか??」と、私は勝手に想像している。もし、科学の研究のみに的を絞らなければならない状態だったら、彼はもっとシンプルに、科学研究のみに、自分を追い込んで、のめり込んで行けたのかもしれない。勿論、才能があったかどうかは、別の問題として、、。

素晴らしい指導教授にも恵まれ、同じ研究室には、本当に優れた科学者が多く、地球人は常にそれらの人々を尊敬して、私にもよく話しを聞かせてくれた。彼もいつかは、優れた科学者と呼ばれ、成功したい、と望んでいたことは、間違いない。

しかし、カナダの奨学金を申請する頃から彼は、「もっと、自分の才能を出来る限り生かした、新たな科学者の道があるのでは、、、、」と考え始めるようになっていった。

そして、ポスドクの生活も2年半が過ぎる頃、彼は新たな挑戦の目標を、偶然ネットで発見した。それは、もう、勉強が嫌いになる程、苦しみぬいた大学生活を送ったモントリオールの母校が、日本で開いている「MBA (経営学修士)JAPAN」のホームページだった。

このコースは毎月の2週末、最短2年間で、クレジットを取得できれば卒業できる、というものだったが、勿論、超厳しい事で知られるこの大学。卒業はそう簡単ではない。

あんなに出るのが難しく、地球人を人間不信に陥らせるほど、勉強の虫のような排他的な学生が多いと評していた、モントリオールの母校への再挑戦。今度は経営学修士を目指して、、、、。若いときに、本当に自分から、勉強したくてたまらないものに出会えた地球人は、幸運な人だと言えよう。

私は、ただ、どうなることかと見守っていただけだが、地球人は早速、日本キャンパスの主任にアポイントを取り、出かけていった。履歴書を見た主任は、「とにかく試験を受けてもらい、その成績次第だが、貴方のような経歴の人には、是非、経営学修士の資格をとってほしいから、モントリオールの本校に早速連絡をとって見ましょう、、、試験の日は追って知らせます。」という返事だったそうだ。

その後、地球人は大学から通知された日に、試験を受けに行った。程なく、試験に合格し、研究生活と両立させながら、希望に燃えて、地球人の新たなMBA挑戦が始まった。しかし、私の予想どおり、この大学の厳しさは、経営学においても変わらなかった。

大学時代、科学を専攻中、あれ程痛めつけられたのだから、予想できたと思うが、半年ほどすると、「大変だあ!!厳しい!!死にそう!!」という、哀れな悲鳴が出始めた。

さもありなん!!地球人は、山と積まれた英語の経済新聞と、レポートや資料の山に埋まっていた。やっぱりこの大学は、そう簡単には、卒業させてはくれない。だからこそ、多くの事が学べ、卒業できれば価値があるんじゃないかな、、、、、、と私は思った。

地球人には、研究室での大切な研究生活がある。その上、論文も書かなければならない。そして、自ら望んで始めたこととはいえ、この厳しいMBA学習の道程。

しかし、自分からやりたいと言って始めたことは、地球人はこれまで、大抵やり遂げてきた。だから、「今度も、本当に大変そうだけど、多分、なんとかやり遂げるんじゃないかな?!」、、そう、希望的観測をしつつ、信じるしかない、凄まじく厳しい状況に、地球人は喘いでいた。

2009年1月21日水曜日

日本での研究生活開始

プラハへの家族旅行から戻り4日後、地球人と私は日本に向かった。取りあえず、研究室のそばにアパートを借り、当座の生活用品を準備する為だ。勿論、地球人一人で問題なかったが、なにしろ地球人はカナダ国籍。一応、外国人だ。

アパートなどを借りるとき、外国人だとなにかと厄介なので、私は友人との再会も兼ね、同行した。案の定、アパートを借りるとき、私が居て、かなり手間が省けた。部屋が決まり、すぐに簡単な家財道具を買い込んだ。

簡単なといっても、テレビ、ベッド、冷蔵庫その他、数えればキリがないほど揃える物は多い。アパートは駅から5分。周りにスーパーなどが多く、とても便利なところで、地球人の一人暮らしには申し分ない。

とにかく、住まいの確保と生活の準備の手伝いを済ませた私は、間もなく又、日本と台北への出張を控えていたが、ひとまずカナダの我が家に戻った。地球人は、その後、研究室の指導教授にご挨拶に伺い、程なくポスドクとして、日本での研究生活に入って行った。

1ヶ月後、次の出張の途中に、地球人のアパートに立ち寄った私は、驚いた。地球人は新にスクーターを買い込み、毎日、20分ぐらいスクーターに乗って、研究室に通っていた。「安定感のない、スクーターじゃ危ないでしょ?!なんで電車で通わないの??」という私の素朴な質問に、地球人はこう答えた。

「だって、電車は夜12時半が最終だから、、、、」と、、。 「エッ!!夜の12時半まであれば十分でしょう??どういう意味??」と訊いた私に、地球人は笑って、「だって、殆どの人がその時間にはまだ研究室に残っているんだよ。僕はペーペーだもん、、、、」とのこと。

地球人のホームページにその感想が載っているが、確かに日本の研究者は真面目で、夜中まで研究している人も多く、カナダの研究室とはエライ違いらしい。

従って、それからの私は、日本に行っても、ほとんど地球人と顔をあわせる時間はなかった。しかし、毎晩、夜中の2時ごろ、コトコトコトと鳴るスクーターのエンジン音が止み、部屋に入ってくる鍵の音がすると、本当に安心したものだ。小雨の日などは特に、、、、。スクーターのタイヤはスリップしやすいから、、、、、。

こうして、日本での地球人の、猛烈研究生活が始まった。ポスドクの間、基本的に一年に2回、カナダの自宅に戻る予定にしていた地球人だったが、1回しか戻れない年もあった。

しかし、幸い私は、ずっとコンサルタントの仕事を続けているので、年に平均5回ぐらいの出張があり、台北、大阪、東京などに出かける。その合間に地球人の様子を覗く時間もあり、あまり離れている実感はなく、ケベックシティに居たころと変わらない感じだ。

地球人は日本の研究室で、教授や本当に優れた先輩、同僚に囲まれ、良い刺激を受けたらしく、何度も、「この研究室で研究ができて、すごく良かった、、、。」と自分の幸運を喜んでいた。日本政府の奨学金の給付期間は2年だったが、入ってすぐから、もう少し長く研究したいと漏らしていた。

少し日本の研究生活のリズムにも慣れると、心に余裕ができたのか、地球人は又、音楽仲間を探して趣味を楽しんだり、大学の学生とローラーホッケーに興じたり、ケベック協会のメンバーやスペイン語同好会のメンバーになったりして、多言語の維持にも努めていた。日本語の読み書きの強化の為には、日本語検定試験に果敢に挑戦して、実力を高めていった。

もともと、日本語を書くのは苦手な筈の地球人が、最初の試験から、かなりよい成績をあげていたので不思議に思い、「どうやって書いたの???」ときいたら、「へへへ、平仮名書きまくったら、ちょっと減点されちゃったあ、、、、」と笑っていた。

幸い、今はパソコンという便利なものがあり、私ですら、手書きをすると、たまに漢字の書き方を忘れてしまう時代。発音はかなり正確な地球人は、パソコンを駆使すれば、不自由なく書けるらしい。まあ、時代が時代。これもありかな、、、、と思う。

ともあれ、研究の合間にも、日本でも意識的に多言語維持の環境づくりに努め、常用機会を積極的に探しながら、色々な活動に参加している地球人を目の当たりにして、「そう!!そう!!その調子!!」と私は大いに心の中で応援していた。

2009年1月19日月曜日

プラハ家族旅行

さて、めでたくポスドク開始の準備も整った地球人は、日本に向かう前に、家族旅行をしようと提案した。自分も博士号をとり、一段落してホッとし、約16年間住み慣れたカナダ東部の町を離れるに当って、家族と、のんびりした旅行がしたくなったらしい。

というより、無事に、博士課程を卒業できた、「親孝行、感謝旅行」とでもツアー名をつけようか、、、、。ブスッと無愛想な言い方だったが、「これまでの感謝の印に、パパとママに、飛行機の切符を買って上げるよ!!だから、行きたいところを決めて!!」というのだ。大学院時代に、奨学金やアルバイトの語学教師などで、貯めたお金で、思い出旅行をプレゼントしてくれるというのだ。ヤッター!!

勿論、ホテルの手配などは、相変わらず、私の役目。相談の末、この旅行の目的地はプラハに決まった。私は前から、チャンスがあったら是非、旧神聖ローマ帝国の首都であり、かつてはヨーロッパ最大の都市として「黄金のプラハ」と呼ばれたこの地を訪れ、ハプスブルグ家の栄華の跡を訪ねて見たかったのだ。

15世紀には、芸術、科学の都として、その繁栄は内外に知れわたっていた、この歴史の町、プラハへ、、、、、。 地球人の申し出は、又とないチャンス!!喜んで出かけることにした。

プラハについた私達は、レンタカーで、早速手配しておいたホテルに向かった。すでに街の様子は、かつての繁栄の跡は虚しいほどなく、17世紀から続いた、数々の戦争の傷跡が、そこここに残っている。宗教、文化、人種の弾圧を受け、1993年には、チェコとスロバキアが分断された、悲しい歴史の国、チェコ。

しかし、14世紀に建造された、モルダウ川に架かる、カレル橋(前プラハ橋)から眺めるプラハ城の美しい佇まいは圧巻で、さすが、「黄金のプラハ」と呼ばれただけある、と感動した。

ちなみに、このカレル橋は、英文名でCharles Bridgeと呼ばれ、ヨーロッパに現存する、最古の石橋だそうだ。その橋げたに並べられた彫刻が水面に写り、独特の美しさを見せていた。

モーツアルトが、交響曲38番を初演したコンサートホールや、天文時計台など、古い町並みによく映える美しい建物も多く、楽しい町の反面、ナチスドイツに占領され、5万人が虐殺された、悲惨な過去を感じさせる建造物も多く、人間の栄枯盛衰と業のようなものを目の当たりにし、考えさせられた。

一方、地球人はというと、あまり建物や歴史には興味がないらしく、もっぱら、街の中を走る電車や乗り物に乗りまくり、地元の人たちの集まりそうな場所を探し、現在の、ありのままのプラハを知ることに、大きな興味を抱いていた。勿論、プラハ城の美しさにも感動していたけれど、、、、、。

我々は、モルダウ川を走る観光船の中で、音楽付きのディナーを食べながら、川の上から、プラハ城や川沿いの景色を眺めることにした。船上から眺めたプラハ城は、丁度、夕陽に照らされていて、神々しいほどの美しさだった。

地球人はすでに、付近の探索も済ませており、「地元の人が集まる、街中のデパートに出かけよう!!」と、夫と私を誘った。プラハのデパートは、なんだか古い、日本のデパートのような感じだった。

物価は地球人によると、かなり安いとのこと。チェコのお金は、私にはすぐに換算できなかったので、いつも地球人にきいた。私は足が痛かったので、安いならこれ幸いとばかりに、夏のサンダル靴を2足買った。そして、案外素敵なスタイルのTシャツがあったので、これから日本に旅立つ地球人用に、何枚も買い込んだ。

食べ物は、付近のレストランで食べた記憶があるが、あまり印象にない。キッチン付のホテルだったので、自分でも簡単なものを作って食べた記憶がある。チェコを代表するお土産と言えば、ボヘミアングラスとガーネット。

ワイングラスなどのコレクションが好きな私は、以前から、チェコクリスタルはかなり集めていたので、この旅行では遠慮して、ガーネットを記念にいくつか買い込んだ。

これらの買い物の税金は、あとから空港で申し込むと返金されるとか、、、、、。面白がってやって見たら、一年後ぐらいの忘れた頃に、スズメの涙ほど戻ってきた。

ちなみに、それまでチェコというと、地球人の頭にすぐ浮かぶのは、自分が熱狂していたアイスホッケーの、NHLの名ゴールキーパー。長野オリンピックで優勝した、チェコの英雄、ドミニクハシェック選手の名前ぐらいだったらしい。彼の憧れの、名ゴールキーパーの一人だ。

ともあれ、地球人と一緒の旅は、単なる観光旅行と違い、すぐに現地の人々の中に飛び込む、面白いもの。この旅行も、日本に向かう前のひと時を、家族で面白おかしく、楽しく過ごした。地球人の心ばかりの親孝行旅行で訪れたプラハは、プラハ城の素晴らしい佇まいとともに、私にとって、是非もう一度出かけてみたい、思い出深い町となった。

2009年1月17日土曜日

ポスドクの地、決定

さて、博士課程も、無事修了が見えてきた地球人の、次なる目標はポスドクで、それをどこでするかという問題に、直面していた。同じ研究室出身の仲間が、ポスドクをしているボストンの大学。

指導教授のおられた、アメリカ西海岸の大学などが、当時、地球人の目標になっていた。しかし、2001年に起きた911は全米のみならず、世界を震え上がらせ、当時、私は、アメリカの東海岸は要注意の場所に思えた。

そんな頃、地球人は、指導教授の推薦で、日本の某国立大学の、研究室の教授をご紹介いただいた。地球人は真剣に私の母国、日本での研究継続開始を模索し始めた。

私は、日本での研究継続開始には、二つの理由で大いに賛成だった。勿論、第一は、すばらしい遺伝子研究の教授をご紹介いただけたこと。そして、もう一つは、地球人の日本語能力の強化と、日本文化の更なる習得の為だった。

なにしろ、今まで地球人は、幼少時代、夏休みの短期訪問以外に、腰を据えて、日本という国に住んだ事がない。勿論、当然、留学経験もない。従って、地球人の日本語は、話したり聞いたりすることには問題がなかったが、読んだり書いたりする能力は、私から見て、まだまだ足りなかった。今の若さなら、言葉の吸収も早く、日本語をほぼ完璧にする、最初で最後の、絶好のチャンスではないか?!と私には思えた。

勿論、決めるのは地球人であり、彼の一生を左右することなので、彼の意志に任せていた。地球人は熟考の結果、自分でも、日本が最適と決断した。そして着々と、日本の教授に連絡をとり、多くのサポートをいただいた。ポスドクとして研究室に受け入れていただくばかりか、日本学術振興会からの奨学金や、教授の肩書きで、ビザもいただけるよう、手配していただいた。

2003年、幸い、日本学術振興会からの奨学金も無事おり、カナダ政府の手続きなど、面倒な作業も全て終え、正式に地球人の日本での研究続行が決まったのは、春も終わりに近い頃だった。

初夏を迎える頃、地球人へのサヨナラパーティが、大学病院の研究室仲間によって、開かれた。研究仲間の何人かは、我が家にも、何度も泊りがけで遊びに来て、顔見知りだったし、指導教授にも、これまでのご指導に対し、改めて、感謝とお礼を直接述べたくて、私はケベックシティ郊外の、この大学病院に向かった。

ケベックシティはこれまでの5年間に、何度も訪れた地だったが、これからは、そう度々訪れることはないだろうと、周りの景色を車の中から、これまでとはちがった、感傷的な気分で、眺めていた。

温かい送別の夕食会が終わり、私は指導教授に、心からのお礼と、今後の変わらぬご指導をお願いし、何度か訪れた、思い出深い地を後にした。これから又、地球人は、新たな出発に向け、旅立ってゆくが、自分の祖国、日本に向かうというだけで、私には何だか安心感があり、あまり心配はなかった。

地球人のポスドクのスタートは、日本の横浜にある、某国立大学の、生命フロンティアー研究所に決まり、カナダの大学院で始めた、「遺伝子発現及び修復のメカニズムの研究」を続行することとなった。こうして地球人は、少年時代とはまったく違った、新たな目標を胸に、日本に飛び立とうとしていた。

2009年1月15日木曜日

テツママ生涯最高の日

さて、大学院での研究、スポーツ、音楽活動、スペイン語強化(中南米からの学生との交流)などに、忙しい毎日を送っていた地球人も、すでに博士課程に入り、残すところケベックでの大学院生活もあと僅かとなってきた。しかし、あと僅かかどうかは、博士論文審査に通るかどうかということが、大きな鍵を握っていた。

そのころには、担当教授のお蔭様で、多少論文も手がけていた地球人は、いよいよ最後の仕上げの博士論文作成準備に入っていった。勿論、論文を書き始めるには、地道な実験の繰り返しで、結果を得てからでなければ書けない。

このころ用事で研究室に電話しても、なかなか話してもらえる時間がなかった。「今、実験中!!あとで電話する。」というのが、この頃の地球人の決まり文句になった。

地球人が博士課程に入った頃、夫は我が家の前庭に、新しい飾り門を創った。それは、すべて手づくりで、天辺の両端が斜めに天に向かって上がるように削られていて、門の中心には、家族繁栄の意味の漢詩を、自分で彫って、入れていた。

夫曰く、「今の我が家の入り口の方位より、この飾り門の方位の方が、テツの運勢をさらに強くすると、昔、香港の有名な占い師に言われたことを思い出したから、飾り門を創って、方位を変えてみた、、、。この家はテツの名義だし、、、、、、。」とのこと。飾り門の完成を記念して、珍しく、家族3人プラス愛犬で、写真を撮った。

2002年の秋。地球人の博士論文作成は、追い込み段階に入っていた。博士課程の3年目の冬、地球人は、ついに、卒業論文を完成し、学内、学外の教授の審査を受け始めていた。2003年2月7日、まだ雪深く、寒い一日、地球人は私に、研究室がある病院の講堂で行われる、博士論文の公開審査会場に来るよう、誘いがあった。

カナダの大学院の博士論文最終審査は、一般の人々にも公開して行われることすら知らなかった私は、どんなことが行われるのか、皆目、見当がつかなかった。生憎、丁度何かの用事が重なっていた夫の代わりに、地球人の親友達とともに、遥遥250キロ離れた病院へと向かい、午後2時から始まる予定の、地球人の博士論文公開審査会場に入った。

講堂の正面には大きなスクリーンがあり、向かって左端にスピーチ用の演壇。地球人の論文公開審査が始まる午後2時頃には、会場は知らない顔の聴衆で、一杯になっていた。主に、病院関係者と大学の関係者らしい。段々、不安感が込み上げ、地球人より、私の方が興奮してきた。

ケベック省、癌研究センターから、審査を担当する教授が一人、他の医大から審査を依頼された教授が一人、学内から審査を依頼された教授二人が静かに審査員席に着席するころには、満員の聴衆に囲まれ、私は本当に胸がドキドキしてきた。 すでに、昨年末には、論文パスの内定は知らされていたそうだが、いよいよ、正式な最終審査が始まるのだ。

地球人は落ち着いていた。(少なくとも私よりは、、、。そう見えた。)軽い挨拶から、すぐに論文の要点をパソコンから大きなスクリーンに映し出し、実験結果や研究結果を、淡々と英語で報告してゆく。約30分程のプレゼンは、チンプンカンプンで、さっぱり私には分からなかった。

プレゼンが終わって、続いて審査の先生方との、論文内容に関する、質疑応答が始まった。地球人はこの質疑応答に、英語とフランス語で対応していた。ある教授は、フランス語の方が英語より話しやすかったらしい。

約20分程の質疑応答が終わると、4人の審査教授がおもむろに立ち上がり、全員で結果を審議するため、別室に消えた。戻ってくるまでの10分ほどは、本当に長く感じられた。他の教授を従え、戻ってきた主任審査教授は、笑顔で地球人の方に手を伸ばし、「おめでとう!!貴方の論文は、審査教授、全員一致でパスしました。」と、握手を求めた。

握手をすませ、お礼を述べた地球人は、又、プレゼン用のスクリーンに、映像を映し始めた。これまでお世話になった指導教授、関係者、研究室仲間への感謝の言葉とお礼。この審査を担当してくださった、すべての教授へのお礼の言葉も、映し出された。

そして、最後の最後に、スクリーンに映し出された映像は??、、そう!!あの、自分の為に、父親が手づくりで創ってくれた、我が家の前庭の、飾り門の前で、並んで撮った家族写真。

映像が写ると、堂々と私の方を見つめ、「実は今日、この会場に母が来ています。家族のサポートなしでは、決して、この論文は生まれませんでした。心から感謝したいと思います。」と、英語で、私にもお礼を述べた。最後に、「かあちゃん!!ありがとう!!」という、日本語での、いつもどおりの地球人の、おどけた挨拶も添えて、、、、。

会場の前の方に座っていた人々は、ワザワザ、中ほどに座っていた私の方を振り向き、笑顔で拍手を送ってくれ、すぐ後ろのほうに座っていた人々は、私の肩を叩いて、祝ってくれた。会場は割れるような拍手に包まれた。

こんなに、深く感動する日が、この私の身に、訪れるなんて、、、、。泣き虫の私は、深い感動に堪え切れず、思わず大粒の涙をこぼし、すべてがボ~~ッと霞んで見えた。その後、私は会場から去る前にワザワザ、「おめでとう、おめでとう!!」と温かい声を掛けながら近づいてくる、多くの見知らぬ人々から、握手を求められた。その後、地球人の博士論文パスを祝って、病院内の別の会場で、研究室仲間による、手作りのパーティーが開かれた。

私はこのパーティに参加してくださった指導教授に、これまでの、5年間に渡るご指導を、心から感謝し、お礼を述べた。研究室仲間とも歓談でき、この日は、私の生涯で最高の、忘れえぬ、感動と感謝の一日となった。

それから2ヶ月ほどして、立派な表紙で、審査教授のコメントも添えられた、地球人の博士論文が出版された。フランス語のタイトルと、英語の前書きが書いてあり、論文が始まる最初のページは白紙で、右上に、「この論文を両親に捧ぐ!!」と、印刷されていた。またまた、新たな感動!!この本は、その日から我が家の、最高の宝物となった。