2008年8月29日金曜日

教授から授かった人生哲学

東京オリンピックも無事終了し、尾瀬での教授の頼もしい言葉をうけて、私も親を説き伏せる前に多少の軍資金を貯めなければ、、、と、卒業後すぐ、アルバイト的な仕事についた。本当に就きたい仕事は、教授にも話したとおり、英語を使って、多少国際的な仕事を、、、と願っていた私は、まず、とりあえず渡米への軍資金の一部を自分の努力で貯めて、私の夢の実行に対する決意の固さを親にアピールするつもりだった。

しかし、当時の航空運賃は高く、生活費もふくめるとかなりの資金がいる。この軍資金を短時間ですべて自分で稼ぎだすことは不可能に近かった。そこである日私は意を決して、何事においてもいつも私の一番の理解者である肝っ玉母さんに恐る恐る夢を打ち明けた。勿論、初めて聞いた母が、にべもなく一蹴したことは言うまでもない。

母の心配ももっともな時代だった。「誰も知り合いのいない、未知の大国へおまえ一人で???危険すぎる!!」とけんもほろろの対応だった。それに、母が工面して、そこそこのお金を持たせたくとも、当時の日本は、観光旅行や親族訪問の場合は500ドルまでしか持ち出せない時代でもあった。これも母の反対の大きな理由であった。「もし、万一、病気でもしたらどうするの?簡単に助けにいってやれないところなんだよ!」とさすがの肝っ玉母さんも大反対だった。 一番の理解者である母ですらこの反応。

私の説得が早くも暗礁に乗り上げそうな様子を知った教授は、こんなちっぽけな私との約束にも本当に誠実に、真剣に、取り組んでくださった。教授は間もなく、ある秘策をもって、母に会いにきてくださった。そして、母にこう語りかけた。

「お母さん、若いうちに外国を知り、異文化を知るということは、本当に貴重な体験ですよ。お嬢さん一人で心配なら、私が滞在先をお世話しましょう。実は、近いうちに、私の研究室で研修したいという女性の地質学者が居て、彼女のお父さんは日本人移民、お母さんはアメリカ人。彼女は英語しか話せないけど、来日研修のプランもあり、私から話したら喜んでお嬢さんのお世話をしてくれますよ。今、オハイオ州の大学で教鞭をとっている地質学者ですが、独身ですから、、、」と。

少ない所持金への心配にも、こうおっしゃった。

「彼女の家にホームステイして、彼女が日本に来たら、お宅でお世話されたら如何ですか? もしお金が足りなくなったら、しばし彼女に用立ててもらって、日本でお返しになったら?お嬢さんが他のところに一人で旅行中に、万一お金の問題や、困った問題に直面したら、すぐ私に連絡してください。アメリカには至るところに知人が居ますから、助けてくれるよう、私から付近の知人に連絡しますから。心配いりませんよ。行かせて上げたら如何ですか、、、、」と。

そしてこうも続けた。

「お母さん、実は私は仕事柄、学会で世界中を飛び回っているんですが、特にアメリカへは頻繁に行き、その中でもニューヨークが一番よく行くところなんですよ。だからニューヨークの町を散策するのは東京の町を散策するより道にも詳しいし、楽なんです。自国だって、慣れない場所を歩くのは難しいし不安です。アメリカだって、別に少しも怖いところじゃありませんよ、、、」と。

この教授にも、緊張に包まれてはじめて外国を訪れた、若き日があったに違いない。一歩踏み出す勇気を持つことがどれだけ大切か、そして体験を積み重ねることがどれほど自信を生みだすことに繋がるかということを私はこの教授の一言から学んだ。簡単そうで、一番難しい、一歩踏み出す勇気を私はこの教授からいただいた。そして教授のあたたかい提案に正に天にも昇る心地だった。

余談だが、この時の教授とのやりとりが、その後の私の揺るぎない人生哲学となり、子供の頃から息子にも事あるごとに「まず一歩踏み出す勇気が大切!!やってみれば!!」と伝え続けている。その結果、息子も私と同じく、これまでかなり恥多き失敗を重ね、ときには落ち込んでいた。でもそのつど、私は「よかったねえ~~!勇気を出してやったじゃない!!立派だよ!次は必ず上手く行くさ!!」と励まし続けてきた。

失敗しても成功しても、親が一生運命共同体として心を寄り添わせることは同じ。たとえ失敗しても夢をやらずに諦めるよりよっぽど誇らしい事だと思っている。何事も体験をして自分を強くすることは誰の為でもなく、自分自身の未来を開くためなのだから、、、、、、。

前にも述べたとおり、我が家の全員が大ファンとなった、この穏やかで、謙虚で、礼儀正しい、偉大な教授の強力なサポートは、母の気持ちを大いに前向きにし、私のアメリカ行きの夢はイッキに現実味を帯びてきたのである。

2008年8月28日木曜日

危機と難題の行方やいかに

ザーザーという画面の揺れと騒音が収まった瞬間、皆の目に飛び込んできたのは、、、「ケネディ大統領狙撃さる」というショッキングで生々しいニュース。

わいわい言いながらはしゃいでいた私も家族も、あまりの驚きに声を失った。そして、一時間もたたないうちに「ケネディ大統領死去」という悲しい悲しいニュースの発表。世界中の人々を深い悲しみのどん底へ突き落とし、言い知れぬ恐怖に怯えさせた。

皮肉にもこれが、人工衛星を経由して世界に発信された、同時中継の幕開けのニュースだったとは。本当にショックで、ショックで、今思い出しても胸が震える。

この時代、日本は国民にまだ外国への観光旅行を積極的には勧めていなかった。勿論両親も兄弟も日本を離れたことなどなかった。多分親戚中の誰も。そしてケネディ暗殺後のアメリカの治安の悪化。とても若い独身女性が一人でアメリカへ行くことなど、考えられない社会情勢であった。

航空券購入費以外にも生活費もかかる。そのお金は?滞在先は?何から手を付けたらいいの?当時の私にはあまりにも難題が多すぎて、この夢を肝っ玉母さんにすら相談できずにいた。

そんな時にこの温厚な教授は私に、まるで隣町にでも行くように、「行けばいいじゃないですか。近い内にアメリカへ。応援しますよ!!」と、いつもと変わらぬ穏やかな口調でおっしゃったのだ。ニッコウキスゲは私の忘れられない花となった。

2008年8月26日火曜日

夢を開いたニッコウキスゲ

この教授のお気に入りは尾瀬の散策。ニッコウキスゲが満開に咲く頃にはほぼ毎年、地質学者としての足慣らしも兼ね、尾瀬に行っておられたそうだ。素晴らしい尾瀬の自然と綺麗なニッコウキスゲについてはよく話しておられた。そんなある日、教授は、 「今年は娘と一緒にいくのですが、ご一緒にいかがですか?」となんとこの私を誘ってくださったのだ。

体も弱く、山登りなどしたことがなかった私は、足手まといになると思い、「あの~~!ご迷惑では?」と一度はお断りした。でも、教授は、「大丈夫、大丈夫、ハイキングコースですから、、、」と私の心配を一笑した。

定かな日時は覚えていないが、この日の尾瀬は天気晴朗、まばゆいばかりの黄金のニッコウキスゲがまるで絨毯のように敷き詰められており、予想以上の綺麗さに心から感動した。この日の感動は教授の穏やかな微笑とともに昨日のことのように覚えている。

ハイキング日より、そして私と同じ年頃のお嬢さんも一緒。のんびりした時間の流れの中、教授も日頃の激務から開放され、リラックスしておられた。私もこの大自然に、身も心も開放され、とりとめもないお喋りをし、日頃の悩みや、将来の夢なども教授やお嬢さんに聞いていただいた。

私の当時の悩みとは、勉強しても勉強してもなかなか英語が上達しないこと。そして、将来の夢はまず、アメリカへいって、英会話の能力を磨き、その語学力を生かせる職業につきたいことなどなど、、、、。教授は聞き終わると即座にこうおっしゃった。

「行けばいいじゃないですか。アメリカへ!」といとも簡単に。

時代はすでにお話したとおり、米ソ冷戦の真っ只中。そのころ日本はというと、戦後の順調な復興を象徴するように1964年、戦後日本で初めて開かれる東京オリンピックを目前にし、日本国中が大騒ぎをしている頃だった。

東京オリンピックを翌年に控えた1963年11月23日(現地時間11月22日)。その日は少し前に購入した白黒のポンコツテレビの前に家族全員が集まり、これから始まる人工衛星を介した初の世界同時中継という歴史的な瞬間を今か今かと固唾を呑んで見守っていた。

2008年8月24日日曜日

運命の出会い

我が家の玄関に静かに立ったその品のよい、学者風の男性は、おだやかな微笑を浮かべて、こう話し始めた。

「いつも私の研究室にくる外国人の研究者がお宅に泊めていただいて、お世話になっております。実は今日は私自身が夜、家に戻ると慌しいので、泊めていただきたいのですが」と。

時は、正に、ケネディとフルシチョフの核対立、つまり、米、ソ(解体前のソ連邦)冷戦の真っ只中。(おいおい、ついに、この変なブログはそこまで話をでかくするのかい???とお怒りの皆様、、、、申し訳ない。しかし、関係があるのだ。この国家的対立が、、、。)

両国は、国家の威信をかけて、核戦争に突入寸前。あのキューバ危機が勃発したころである。あわやというところでこの危機は回避されたが、両国は又、国の最先端科学技術を世界と自国民に誇示しつつ、「有人月面着陸」をどちらの国が先に成し遂げ、人類の偉大な第一歩を印すかという宇宙開発競争のまっ只中であり、世界中の人々がその行方を固唾をのんで見守ってもいた。

アメリカはアポロ計画を発表し、ソ連はアメリカよりはやく無人探査機の月面着陸に成功し、月への有人宇宙飛行もあと一歩のところまできていた。

そんな時に我が家を訪れたこの温厚な紳士こそ、当時世界の地質学会で、その名を轟かせていた岩石学の権威で、アポロが月面着陸に成功し、人類が月に降り立つことができたら、アメリカはこの教授の研究室に、ある重大なミッションをお願いすることにしていたのである。(勿論当時の私には知る由もなかったが、、、)

この教授の穏やかで、偉ぶらず、礼儀正しい人柄に我が家の全員が、すぐ大ファンになった。そして、この教授も又我が家を気に入って下さり、それから、たびたび、宿泊してくださるようになった。当然、彼を慕い、訪れる、外国からの研究者には、宿泊先として我が家を推薦し続けてくださった。

そこで、私のブロークンイングリッシュも多少は役立ち(と思っていただけかも)、我が家は当時、外国人を受け入れる数すくない本郷の旅館として、定着していった。

2008年8月23日土曜日

This is a pen.それから???

この旅館は本郷の東大正門前にあった関係で、東京大学の色々な研究室を訪れる 学者も又、宿泊するように成った。その中には、時に外国人の研究者(主にアメリカ人)も居た。

いくら大胆な母でも、英語はからっきしダメ。兄は?引っ込み思案でダメ。姉は?勿論、何をばかな!!そこで、お節介、かつ、大胆でおっちょこちょいな私の出番。でも、でもである。

This is a pen. から習い始めて、ほんのわずか。ねえ、何が喋れる????無理、無理、無理だあ~~~!!

しかし、もし私にちょっとばかりいいところがあるとすれば、それはつまり、めげない、あきらめない、何とかするまで粘る。

辞書と、紙と、ペンを持ち出し、絵を書いたり、辞書を広げ、指をさしあったりして、何とか、家族とのコミュニケーションの仲立ちをした。

こんな、生きた勉強の仕方が面白く、勉強嫌いな私だったが、英語の勉強だけは、好きだった。

しかし、あまり体が丈夫ではなかった私は、中学から高校にかけて、大病で3回入院した。それも高校3年の時は卒業の為の出席日数も危ないぐらいの長期病欠を。

なんとか出席日数ぎりぎりの状態で、高校を卒業。滑り込みセーフでその年の大学の入試に間に合った私の唯一の希望と可能性は英文科だけ。準備不足にもかかわらず、悪運強く、浪人もせず、某大学の英文科に引っかかることが出来た。

そして、そして、そろそろ次の進路(つまり就職)でも、考えなくちゃと、少しばかりプレッシャーを感じ始めたある日のこと。我が家の旅館の玄関に、一人の初老の見るからに知的でハンサムで、立派な学者風の男性が静かに入って来たのである。

2008年8月19日火曜日

天才とか怪物への道程

さて、先回はこの地球人の生誕の地を香港に定める決意までをお話ししたよね。このブログのタイトルを見て、アクセスしてくださった人からは、前置きが長いね~~~。もうわき道にそれず、早く子供に多言語を訓練するノウハウだけを手短に語ってよ、、、、、。忙しいんだから~~~~!!とお叱りを受けるかもしれない。しかし、しかしである。Just ちょと待て Moment!!

天才とか、怪物とか、マルチタレントと言われる人々をよく調べてみると、必ずやその人々の成功に大きくかかわりを持つ出来事や、人々や、環境や、又それらが複合的にまざりあった、なるほどね、、、だからか、、、、と思える原因がある。

従って、又、少し回り道をして、この決意に至るまでの私のヨロヨロ人生もちょっとだけ語らせてもらわなければならないだろう。

私は小学校の卒業式の日、式が終わったその足で、タマとミミという二匹の猫を抱え、卒業証書と晴れ着を身にまとったまま中央区両国の自宅から、文京区本郷の自宅に引越しをした。この新居は正に東京大学の正門前に位置しており、両親は、この家を自宅として購入した。

部屋は多いけど、場所が場所だから、苦しきゃ下宿人を置いてもローンぐらい払えるさと、肝っ玉母さんが借金をして買ったものだ。(母名義)

しかし、なんとこの家への引越しは家族の誰にも予測できない新たな生活の幕開けを我が家にもたらしたのである。この家のおまけとして付いていた出版会社と旅館のライセンスによって。

勿論、小さいとはいえ、旅館をしていたぐらいだから、こちょこちょした部屋は多かった。そして、引越しをしてまもなくから、思いがけず、オーナーが替わったことを知らないお客さんが色々なところから訪れるようになったのだ。

私から見た母は、お節介かつ天性のビジネスウーマン(というほどスマートじゃなかったけど)で大胆。

旅館のノウハウも知らず、満足な料理も出せないのに、宿無しで困っている人を見ると、放ってはおけないたち。後先考えず、「さあさあ、どうぞ、お上がりを!!」と部屋に通し、あり合せの家庭料理で持て成した。時には、我が家族と同じ料理で食卓を囲ませられた人もいる。

しかし、そんなはちゃめちゃな持て成しが、逆に家族的で温かくていいと、なんとリピーターが増えてしまったのである。ついにお遊びでは済まなくなり、我が家は入り口のガラスに名前をいれ、看板を上げ、正式に旅館業を始めたのである。ズブの素人から。

正に私が小学校を卒業し、中学一年生になった初夏のことであった。そして、この肝っ玉母さんのお節介開業が、後の私の運命を大きく狂わす原因となるのである。

2008年8月18日月曜日

出産する国って大切??

さて、地球人の彼が生まれたのは、当時まだ中国に返還前のイギリス領、香港。政府経営の英国式病院として名高い、クイーンエリザベス病院だった。

従って、彼は生まれながらにして英国人と台湾人の二重国籍をもった。このときから、彼は、台湾人の父を持ち、日本人の母を持ち、英国領で生まれ、パスポートは英国のパスポート。つまり、好むと好まざるに拘わらず、我が家はインターナショナルファミリーとなってしまったのである。

当時の法令で国籍を持たない赤ん坊は日本女性のパスポートの中には入れられず、赤ん坊の時から、自分のパスポートを持たなければ、私とともに海外に行けない運命を持って生まれてきたのだ。

しかし、この地、この病院を出産の地に選んだのは、将来の地球人養成という明確な意志と希望と期待を込めて、私自身が選択した結論なのである。

妊娠中、まず普通一般の妊婦なら、どこの国で産むべきかなどという問題にはあまり直面しない。 しかし当時の私の選択肢には:

1.日本ーー勿論、家族がいる日本は一番安心

2.台湾ーー主人の両親、親族とも健在で、初の内孫を楽しみにしており、勿論出産OK。おまけに主人の両親は若い頃日本教育をうけており、日本語ぺらぺら。言葉には何の心配もない。

3.香港ーー言葉も分からず、頼れるのは夫のみ。出産のみを考えれば一番苦労しそうなことは目に見えている。

以上の選択肢の中で考えに考えて私が出した結論は、、、もうすでに皆様ご存知の、そう、香港。

生まれながらに混血で、それぞれ国籍が違う両親を持ち、大した財産もなく、これからの一生を自分自身の頭と、体と、精神力で、ダイナミックに切り開いて行かねば成らぬ運命をもった子供の出産の候補地としては、香港が最適。

狭い日本や台湾で小さくまとめてしまうより、大きな可能性を秘めた、国際人を養成しよう!!世界の何処の国に行っても、堂々と生きられるような。それにはイギリスパスポートは大きな可能性を秘める。

21世紀は必ずや世界中の国々がそれぞれの門戸を開き、グローバル化を加速する時代となっているに違いないと、1973年この未来の地球人をミゴモッタ時、確信とともに出産の地を香港にすることを決意したのである。

2008年8月16日土曜日

地球人誕生

さて、何から書こうかな!!くそ真面目なブログじゃ面白くないから、まずは「地球人誕生」について触れてみることにしよう。

この地球人と呼ぶ我が息子がこのブログの仕掛人。愛称はテツゴロウ、最近は新入社員となったのでテツペー太郎。この息子がいきなり、私のむか~~~し昔の写真を引っ張り出し、偉そうなタイトルまでつけ、このブログを立ち上げてしまった張本人。

この小さな親切大きなお世話息子。でも仕方がない、まったくぐうの音もでないほど、我がお節介DNAを継承してしまった。

さあ、前置きはさておき、なぜこの8ヶ国語を喋るというか8ヶ国語を読み、書き、話す地球人息子が誕生したかですよね。今回のテーマは。

それは、私の若気の至りというか、おっちょこちょいというか無謀な愛の始まりから端を発しているのだ。

その愛の始まりの場は???そう香港。あの「慕情」という名作を生み出したイルミネーションの国際都市、香港。(今の若い人はこの映画なんてしらないね)

その香港でもロマンチックな名所として有名な、ツインピークに案内してくれた、若きハンサムな(暗がりだとそう見えた)男にカーッと後先考えず燃え上がってしまったのが、この地球人誕生の大原因。そう、そのガイドこそ、後に我が一生をガイドすることとなった夫。(でも今回はこの地球人ペー太郎が主人公なので、我が恥多き青春の秘話はこの辺でカット)

ナニがナニすりゃナンと成る。勿論原因があって、結果がある。お決まりのコースをたどり、気がついたときには、このお節介ペー太郎はすでに我が体内にどっしりとやどり、暴れ放題。まだ親指ほどの存在から、我がまま放題、やり放題。

お陰で、つわりが始まってからというもの。受け付けるものはすべて果物だけ。それもりんごが食べたいと思うと、りんご、りんご、りんご、、、、、、、。頭の中はりんごばかり。そしていきなりああ!!みかんが食べたいと思い始めたら、みかん、みかん、みかん。

ともかく、体内に居る時から、頑固、自己主張、お騒がせな個性の強い赤ん坊をミゴモッタ私は「これは大変なことになった」と、ガクゼン。毎日、果物しかのどを通らぬ哀れな妊婦の私は、早々と、子供を産むということの大変さに、オロオロ。

もしかしたら、子供を持つということは大変な、大変なことなんだ!!と、もともと、一のことは百ぐらいに大げさに考える私の不安症がむくむくと頭を持ち上げ、「この子の一生は私が守らないで誰が守るんだ!!!」と日日ない知恵を絞り、考える毎日が始まった。

そして、運命の日、1974年2月11日。陣痛開始から3日も産道で眠り続け、あわや帝王切開で分娩か、と思われたこの日。

この未来の地球人はのんびりと生まれてきたのである。奇しくも日本では建国記念日の目出度い祝日。でもこの日が、私にとっては「子育て悪戦苦闘」の日日の始まりであった。