アメリカの航空会社に4年ほど勤めた後、私は別の航空会社に栄転(??)した。確かに給料は3~40%ぐらいアップ。ボーナスはほぼ倍増したのだから栄転と言えよう。
ここはある東南アジアの航空会社だった。前のアメリカの航空会社は、当時別名、「トレーニングスクール」と業界では呼ばれていた。とにかく人使いが荒く、鍛え上げることで有名だった。
即戦力がほしく、のんびりと社員をトレーニングなんかしていられない、時間もお金も惜しんだ多くの航空会社は、このアメリカの航空会社で鍛え上げられた社員に的を絞り、よく引き抜きをした。
従って当時は、いたるところにこのアメリカの航空会社出身のツワモノがウヨウヨウヨウヨ。私が移った次の会社も、ほとんどがアメリカの航空会社出身の顔見知り。最初から超居心地のいい職場だった。
なにしろ給料は高く、客はそれ程多くなく、オフィスは超豪華ときちゃあ申し分ない。その上、前にも増して豪快なボス。今度は女性だったが、まあその肝っ玉のデカイことデカイこと。時間はたっぷり、おやつもたっぷり。貢いでくれるファンも大勢。
「ねえ、これだけ聞いてもため息がでるでしょう???」偶にしか全員オールスターキャストで最前線に居る必要がない、ゆとりある勤め。大抵奥の部屋で、たわいもないことを言っては、ワイワイワイワイ。
ドアが開いてカモ到来!!となれば皆、鍛え上げられたツワモノ戦士。「客だ!!ちょいと軽くハッタオシテクル!!」と物騒なセリフを残して、ニコヤカに応接間に登場!!優雅にお上品に、それはそれは行き届いた対応。至れり尽くせりの極上のサーヴィスは、当時内外ともに有名だった。(まあ自画自賛!!)
場所は日比谷の一等地。某財閥所有のビルの一階。エリート銀行とヨーロッパの超人気航空会社に挟まれて、落ち着いたインテリアが高級感を漂わす、超上品でエレガントなオフィス。そこでの物騒な会話だから楽しいでしょう??
我々は暇を見ては交代で、高級ブティック、アーケードショップを荒らしまわり優雅にお買い物。なんせ歩いて2分が帝国ホテルだ。高級店には事欠かない。(勤務時間中に何たることを!!とそんなお固いこと言わない言わない。もうとっくの昔に月給ドロボウは時効だ~!!)
ここでの極めつけのエピソードは、毎日交代でのあるお仕事。朝10時を少しまわるころ。その日の当番が超財閥ビルのトイレに出没。なにやらあやしいものをとり出して、周りをキョロキョロキョロキョロ。そして、おもむろにシャカシャカシャカシャカ!!
「何やってるんだ!!」って?!驚くなかれ諸君!!楽しい楽しい昼食の準備なのじゃ。このシャカシャカシャカシャカは勿論、ササニシキをとぐ音。。へへへ、、、。
おそれ多くもかしこくも、天下の財閥ビルの中。真面目な顔してシャカシャカシャカシャカ。誰が想像できる???別の当番は当然のごとく、「ねえ、今日、何が食べたい??」と皆様にお伺いを立て、近くのテパチカへお惣菜を調達に、、、。
その上品で優雅なオフィスに、昼時ともなりゃあ、ご飯の炊ける匂いがプ~~~ン。さしみだ、うなぎだ、てんぷらだ、と贅沢三昧のランチタ~~~イム。
秘密にしてもどこからか漏れる。本社から総務部長やお偉いさんが来ても、そこはそれ!!なんたって簡単には首にできない金のお宝軍団。
「あ~~らいらっしゃい!!ご一緒に如何??」なんてこのボスに、優雅に声を掛けられちゃ、「そんじゃお茶でも、、、、」と瞬く内にとりこになり、客はそこそこだったが、そのサロンに引かれて集まる業界関係者で、いつも商売繁盛。勿論、貢物も一杯。
しかし、しかし、たった一度だけ、さすがの我々も顔から火がでた。なんとアホウなお米屋が、こともあろうに、ハイソなお隣のヨーロッパの超人気航空会社に、「あのう~~!!お米お届けに上がりましたあ!!」と入って行ってしまったのだ。
勿論、唖然としたお隣の淑女に冷たくあしらわれ、住所を確認。「すみません、お隣でしたあ~!」とトンでもないミス。我々も一瞬ちょいと反省したが、すぐ豪快に笑い飛ばした。全員、そんなことでめげるような、スモールホールじゃないっちゅうの!!
少なくとも、私が在籍していた間は続いていた、この楽しい楽しいランチタイムは、私の思い出の中で、今も色あせることなく、燦然と輝いている。「ア~~~ア!!今の航空会社の人達に、このブログを見られたら、殺されちゃいそう!!」
今じゃほとんどの仕事がコンピューターに取って代わられ、航空券も格安で、社員のお給料もまあまあの水準。それほどいい職場とはいえなくなってしまった航空業界。
あの時代、あの面々とだったからできたこと。。まさに古き良き時代の、忘れられないお話でした。当時の仲間は文字通り、同じ釜の飯を食った仲。いまでも映画だ、食事だ、温泉だ、とお遊びの腐れ縁が続いていることは、言うまでもない。
2008年9月30日火曜日
2008年9月28日日曜日
肝っ玉母さんへの恩返し???
いただける特権は、すべて有効利用させていただいた私は、早速、タダ切符、特割切符、ホテル、観光リムジンなど、度々手配して、家族全員を楽しませた。特に父と大喧嘩の末、啖呵を切ってまで、私に世界を開いてくれた肝っ玉母さんには、恩返しのつもりで、世界のあちこちへ連れて行った。確か、最初の訪問地は、シンガポールだったと記憶している。あまりにも多くのところへ連れて行ったので、ちょっと記憶が混乱しているが、、、。
肝っ玉母さんは、外国でも健在だった。シンガポールでは、暑さに辟易として、ホテルで休んでいる私を置いて、「ちょっと出かけてくる!!」と、早速行動開始。。。この旅行に出かける前に、ようやく、英語のサインだけを、練習したばかりの母がですよ、、、、。「スゲエ!!いや失礼!凄い!!」と思った。その時、もうすでに老婦。シャカシャカとお化粧して、帽子をかぶり、サッサと出かけて行った。「降参!!」とすぐその迫力に、白旗を揚げた。
シカゴでは、更に、度肝を抜かれる大物ぶりを発揮した。これは、航空会社時代の話ではなく、次の年に地球人が留学する予定の中学校(モントリオール郊外)を下見しに行く私に、ついてきた時のこと。私は当時、大学講師だったが、肝っ玉母さんの世界武勇伝として、ご紹介するそのエピソードとは:
我々は、シカゴの某有名ホテルに泊まっていた。明後日には、地球人の留学先、モントリオールに向かうというその日。私は、宿泊ホテルの一階アーケードにある、靴屋にいた。肝っ玉母さんも勿論一緒。悠然と、その靴屋の真ん中辺にある、ソファに座ってタバコ吸っていた。何しろ一流ホテルのアーケード。最新の素敵な靴が並んでいて、私はしばし見とれていた。
何気なく、ヒョイと振り向くと、なにやら慌しい一団が、ドアから出てゆくところだった。店のオーナー(?)らしい人が、「ア~~~ッ!!」と叫ぶ声がした。私は「ナンだろう?!」とソファに戻って、ヒョイと母の足元を見た。 「ない~~~~!!有るべきはずの肝っ玉母さんの大きなハンドバッグが~~~!!」。。。「やられた~~~!!」。。。サ~ッと全身の血が引いてゆくような気がした。
でも、もしかしたら、、、と淡い期待を抱いて、「ねえ、お母さん!!ハンドバッグは??」と確認すると、おっとりと足元を覗いて、「あれ~~??ないねえ~~!!」と来たもんだ。すでにスリの一団は、店からスタコラサッサとトンズラ(息子よ許せ!!興奮すると地球人の面子を考えて優雅に喋ってなんかいられネエ、、、、)。バッグの中には、ほぼ母の全財産が入ってる。「そうだ!!切符とパスポートは私が保管中だ!!」と、とっさに思いだして、ちょっぴりホッ!!
しかし、一瞬のオタオタが過ぎると、どういうわけか、例の、追い詰められた時の馬鹿力、じゃないクソ知恵が、フツフツと湧いてきて、スーッと冷静な判断と、今取るべき行動の段取りが、次々と頭に浮かんできた。そしてまず、その叫んだオーナーらしき男性に、「今、母がバッグを盗まれたのを見ていましたよね?!」と質問。
「YES!!」という頼もしい返事を聞くやいなや、「では、すぐこのホテルの警備室を通じて、この地区のポリスをよんでください!!」とお願い。続いて、「あとで、警察の調書ができたら、そこにこの事件の目撃証人として、サインしてください!」と又お願い。彼は勿論OK。すぐに警備室から警察に連絡がとられ、ポリスはほどなくやって来た。
実は母は、心臓が悪く、この旅にでる前の年ぐらいに、ペースメーカーを埋め込む手術を受けたばかり。私の何よりの心配は、ショックで母が倒れでもしたら、、、、ということだった。母には、「心配ないよ!!出発前に盗難保険にも入っているから、帰国したら取り戻して上げるから、、、」と、とりあえず慰めた。
しかし、あとで分かるが、そんな心配は、この規格はずれの肝っ玉かあさんには、不要だった。「部屋で休む??」と気遣う私に、平然と笑いかけ、肝っ玉母さんは警備室までついてきた。そこで、ポリスによる事情聴取が始まった。私はいきさつを話した。すると、「盗られたバッグの中身を書く必要があるから、全部言ってください!!」とのこと。やっぱり母は、ついて来て正解!!
しかし、中身を訊き始めて私は、「エエッ!!」と絶句した。出るわ出るわ、、、、。まず現金(米ドル、日本円結構多額)、トラベラーズチェック、クレジットカード、化粧品(こんなもんどうでもいい、、、)それに、止しゃあいいのに、モントリオールで、夫の妹夫婦に会うからと、見栄張っちゃって、ほぼ当時所有していた、すべての貴金属を持ってきた。
その数たるや、、、、唖然!!(あ~あ!!と嘆いても、すべてバイバイ!!)貴金属は大体どのぐらいの価値の物か、ひとつひとつ自己申告。でも、この肝っ玉母さんが覚えているはずがない。従ってすべてabout。ポリスは黙々と調書をつくっていった。
静か~~~なオフィスに、突然、ケタタマシイ笑い声が響いた。「肝っ玉母さんだ!!」 謹厳実直そうなポリスは、ジロリと母を見て、「どうしたんだ!!何があったんだ!!」と私に質問。私も何が何だかわからない。一瞬、「あまりのショックに、さすがの肝っ玉母さんも、壊れちゃったのか?!」と思った。しかし、しかしである。肝っ玉母さんは、そんなヤワな女じゃなかった。あきれたことに、涙を流して大笑いしている。
「ねえ!!あたし~~、カナダに着く前に、ぜ~~~んぶ盗られちゃったあ!!ワハハハハ、、、!!今、全財産はこれだけ~~!!」と、握っていた手を開いて見せた。
その手には、タバコのヤニとり用のパイポだけが残っていた。笑い続ける肝っ玉母さんの理由を、いくら説明しても、このポリスが理解するのは不可能だった。真面目な顔をして理由を聞き終わった彼は、不愉快そうな顔をして、調書を書き続けた。これも多分、私の語学力不足のなせる業かも、、、、、。
「無理だよ!!この、規格はずれの肝っ玉母さんの大笑いの理由を、ポリスに理解させるのは~~~~。とにかく、本気で笑っているんだからあ~~」と、私は説明を諦めた。きっとポリスは、「可哀相な日本人旅行者が、盗難にあって、ついに、気がふれちゃった。気味悪いから、サッサと調書を終えて、早く帰ろう!!」と思っていたに違いない。
次の日、私はハンドバッグ、財布(いくらか小遣いをいれて)、煙草入れ、化粧品などを買い揃え、母に渡し、この件は、一旦落着。帰国後、保険は一週間位でほぼ全額下りた。そのお金を貰った途端、母は、「ラッキー!!」と、すべて無駄遣いしたことは、言うまでもない。母曰く、「どうせ、一度は無くしたお金だもん!!」だってさ。「どこまで行くんだ、このノーテンキは?!」と、わが母ながら、呆れた。
その後、兄夫婦とのニュージーランド旅行中も、大金を入れた胴巻きを、枕の下におき忘れ、車で出発後、2~3時間して気がついた。早速ホテルに連絡したが、「お調べしましたが、そういう忘れ物はございませんでした!!」と、冷たくあしらわれ、すべてパー!!「シカゴじゃ全部戻ってきたのに、、、、」と不服そうに、兄に八つ当たりして、顰蹙をかった。
何度、「貴重品は、ホテルのセーフティボックスに預けなさい!!」と言っても、「いいよ!!いいよ!!」と、持ち歩いていた肝っ玉母さんは、こうして、かなり国内外のドロちゃんを喜ばせていた。しかし、とにかく、その立ち直りの速さの見事なこと!!「しょうがないじゃない!!もう盗られちゃったんだから、、、、いくら言ったって、、、、」と、ほとんど意に介していなかった。母に世界を広げた私には、未だに、母の海外旅行の収支決算が赤字なのか、黒字なのか、見当がつかない。だから、恩返しかどうか???。
かくして、我が家全員の行動範囲は、大きくひろがり、食卓での話題も、飛躍的に国際化していった。大切なへそくりをポンと出して、私をアメリカに行かせてくれた母。妹なのに順番を譲り、先に海外経験を積ませてくれた兄弟までもが、私の航空会社勤務の特権を利用し、世界を広くしていった。ちなみに、我が愛すべき地球人は、この、あきれた肝っ玉母さんの遺伝子を、4分の1、受け継いでいる。これから先、この遺伝子がどう出ることやら、、、、、。 チョイト心配!!
肝っ玉母さんは、外国でも健在だった。シンガポールでは、暑さに辟易として、ホテルで休んでいる私を置いて、「ちょっと出かけてくる!!」と、早速行動開始。。。この旅行に出かける前に、ようやく、英語のサインだけを、練習したばかりの母がですよ、、、、。「スゲエ!!いや失礼!凄い!!」と思った。その時、もうすでに老婦。シャカシャカとお化粧して、帽子をかぶり、サッサと出かけて行った。「降参!!」とすぐその迫力に、白旗を揚げた。
シカゴでは、更に、度肝を抜かれる大物ぶりを発揮した。これは、航空会社時代の話ではなく、次の年に地球人が留学する予定の中学校(モントリオール郊外)を下見しに行く私に、ついてきた時のこと。私は当時、大学講師だったが、肝っ玉母さんの世界武勇伝として、ご紹介するそのエピソードとは:
我々は、シカゴの某有名ホテルに泊まっていた。明後日には、地球人の留学先、モントリオールに向かうというその日。私は、宿泊ホテルの一階アーケードにある、靴屋にいた。肝っ玉母さんも勿論一緒。悠然と、その靴屋の真ん中辺にある、ソファに座ってタバコ吸っていた。何しろ一流ホテルのアーケード。最新の素敵な靴が並んでいて、私はしばし見とれていた。
何気なく、ヒョイと振り向くと、なにやら慌しい一団が、ドアから出てゆくところだった。店のオーナー(?)らしい人が、「ア~~~ッ!!」と叫ぶ声がした。私は「ナンだろう?!」とソファに戻って、ヒョイと母の足元を見た。 「ない~~~~!!有るべきはずの肝っ玉母さんの大きなハンドバッグが~~~!!」。。。「やられた~~~!!」。。。サ~ッと全身の血が引いてゆくような気がした。
でも、もしかしたら、、、と淡い期待を抱いて、「ねえ、お母さん!!ハンドバッグは??」と確認すると、おっとりと足元を覗いて、「あれ~~??ないねえ~~!!」と来たもんだ。すでにスリの一団は、店からスタコラサッサとトンズラ(息子よ許せ!!興奮すると地球人の面子を考えて優雅に喋ってなんかいられネエ、、、、)。バッグの中には、ほぼ母の全財産が入ってる。「そうだ!!切符とパスポートは私が保管中だ!!」と、とっさに思いだして、ちょっぴりホッ!!
しかし、一瞬のオタオタが過ぎると、どういうわけか、例の、追い詰められた時の馬鹿力、じゃないクソ知恵が、フツフツと湧いてきて、スーッと冷静な判断と、今取るべき行動の段取りが、次々と頭に浮かんできた。そしてまず、その叫んだオーナーらしき男性に、「今、母がバッグを盗まれたのを見ていましたよね?!」と質問。
「YES!!」という頼もしい返事を聞くやいなや、「では、すぐこのホテルの警備室を通じて、この地区のポリスをよんでください!!」とお願い。続いて、「あとで、警察の調書ができたら、そこにこの事件の目撃証人として、サインしてください!」と又お願い。彼は勿論OK。すぐに警備室から警察に連絡がとられ、ポリスはほどなくやって来た。
実は母は、心臓が悪く、この旅にでる前の年ぐらいに、ペースメーカーを埋め込む手術を受けたばかり。私の何よりの心配は、ショックで母が倒れでもしたら、、、、ということだった。母には、「心配ないよ!!出発前に盗難保険にも入っているから、帰国したら取り戻して上げるから、、、」と、とりあえず慰めた。
しかし、あとで分かるが、そんな心配は、この規格はずれの肝っ玉かあさんには、不要だった。「部屋で休む??」と気遣う私に、平然と笑いかけ、肝っ玉母さんは警備室までついてきた。そこで、ポリスによる事情聴取が始まった。私はいきさつを話した。すると、「盗られたバッグの中身を書く必要があるから、全部言ってください!!」とのこと。やっぱり母は、ついて来て正解!!
しかし、中身を訊き始めて私は、「エエッ!!」と絶句した。出るわ出るわ、、、、。まず現金(米ドル、日本円結構多額)、トラベラーズチェック、クレジットカード、化粧品(こんなもんどうでもいい、、、)それに、止しゃあいいのに、モントリオールで、夫の妹夫婦に会うからと、見栄張っちゃって、ほぼ当時所有していた、すべての貴金属を持ってきた。
その数たるや、、、、唖然!!(あ~あ!!と嘆いても、すべてバイバイ!!)貴金属は大体どのぐらいの価値の物か、ひとつひとつ自己申告。でも、この肝っ玉母さんが覚えているはずがない。従ってすべてabout。ポリスは黙々と調書をつくっていった。
静か~~~なオフィスに、突然、ケタタマシイ笑い声が響いた。「肝っ玉母さんだ!!」 謹厳実直そうなポリスは、ジロリと母を見て、「どうしたんだ!!何があったんだ!!」と私に質問。私も何が何だかわからない。一瞬、「あまりのショックに、さすがの肝っ玉母さんも、壊れちゃったのか?!」と思った。しかし、しかしである。肝っ玉母さんは、そんなヤワな女じゃなかった。あきれたことに、涙を流して大笑いしている。
「ねえ!!あたし~~、カナダに着く前に、ぜ~~~んぶ盗られちゃったあ!!ワハハハハ、、、!!今、全財産はこれだけ~~!!」と、握っていた手を開いて見せた。
その手には、タバコのヤニとり用のパイポだけが残っていた。笑い続ける肝っ玉母さんの理由を、いくら説明しても、このポリスが理解するのは不可能だった。真面目な顔をして理由を聞き終わった彼は、不愉快そうな顔をして、調書を書き続けた。これも多分、私の語学力不足のなせる業かも、、、、、。
「無理だよ!!この、規格はずれの肝っ玉母さんの大笑いの理由を、ポリスに理解させるのは~~~~。とにかく、本気で笑っているんだからあ~~」と、私は説明を諦めた。きっとポリスは、「可哀相な日本人旅行者が、盗難にあって、ついに、気がふれちゃった。気味悪いから、サッサと調書を終えて、早く帰ろう!!」と思っていたに違いない。
次の日、私はハンドバッグ、財布(いくらか小遣いをいれて)、煙草入れ、化粧品などを買い揃え、母に渡し、この件は、一旦落着。帰国後、保険は一週間位でほぼ全額下りた。そのお金を貰った途端、母は、「ラッキー!!」と、すべて無駄遣いしたことは、言うまでもない。母曰く、「どうせ、一度は無くしたお金だもん!!」だってさ。「どこまで行くんだ、このノーテンキは?!」と、わが母ながら、呆れた。
その後、兄夫婦とのニュージーランド旅行中も、大金を入れた胴巻きを、枕の下におき忘れ、車で出発後、2~3時間して気がついた。早速ホテルに連絡したが、「お調べしましたが、そういう忘れ物はございませんでした!!」と、冷たくあしらわれ、すべてパー!!「シカゴじゃ全部戻ってきたのに、、、、」と不服そうに、兄に八つ当たりして、顰蹙をかった。
何度、「貴重品は、ホテルのセーフティボックスに預けなさい!!」と言っても、「いいよ!!いいよ!!」と、持ち歩いていた肝っ玉母さんは、こうして、かなり国内外のドロちゃんを喜ばせていた。しかし、とにかく、その立ち直りの速さの見事なこと!!「しょうがないじゃない!!もう盗られちゃったんだから、、、、いくら言ったって、、、、」と、ほとんど意に介していなかった。母に世界を広げた私には、未だに、母の海外旅行の収支決算が赤字なのか、黒字なのか、見当がつかない。だから、恩返しかどうか???。
かくして、我が家全員の行動範囲は、大きくひろがり、食卓での話題も、飛躍的に国際化していった。大切なへそくりをポンと出して、私をアメリカに行かせてくれた母。妹なのに順番を譲り、先に海外経験を積ませてくれた兄弟までもが、私の航空会社勤務の特権を利用し、世界を広くしていった。ちなみに、我が愛すべき地球人は、この、あきれた肝っ玉母さんの遺伝子を、4分の1、受け継いでいる。これから先、この遺伝子がどう出ることやら、、、、、。 チョイト心配!!
2008年9月26日金曜日
航空会社時代の思い出
さて、2年ほどPTAの仕事をし、かなり慣れてきたころ、私は社内異動でカウンターに配属になった。当時はご存知の通り、格安航空券など出回っておらず、どこの航空会社も航空運賃はかなり高く、独自に宣伝し、単独で運行していた。従ってフライトの座席にもかなり余裕があり、航空業界とホテル業界は、宣伝のため、こぞって、各航空会社員を大切にしていた。
自社切符はもとより、各航空会社間で、お互いに無料切符や超格安切符(10%という会社もあった)を贈り合い、優遇し、自社を少しでも宣伝して貰えるよう、努めていた。ホテル業界も、航空会社員とその家族には、無料又は特別割引料金で、かなり良い部屋を提供してくれ、時には観光リムジンも、ただで手配してくれた。
つまり、国際観光旅行をするには、絶好の職場だったのである。正社員の給料は、かなり優遇されており、今思えば、本当によき時代に、航空会社に居たものである。
各航空会社は、自社の面子にかけて、都内の一等地にオフィスを構え、カウンターはモダンな設備や優雅なインテリアで、客の眼を引き付けていた。私が入社した航空会社は、奇しくも初めてのアメリカ旅行に乗っていった航空会社で、私には馴染み深い航空会社だったが、当時は宣伝や派手さでは、他のアメリカの2社の方が人気があった。
しかし、それらの2社は程なく潰れ、私の入社したアメリカの航空会社は今でも健在であり、皮肉なものである。内情を知って、なるほどと思ったのだが、この航空会社は米軍の御用達のエアラインで、米軍基地への兵士の送迎も担当していた。その為、当時は景気もよく、いつもかなり混んでいた。
そんな時代のダウンタウンのカウンターというのは、言わば航空会社の応接間。いまでこそ、多くの航空会社が、家賃が高くて賄いきれず、ダウンタウンのカウンターを閉鎖し、空港だけにしているが、当時この航空会社は、有楽町に本社とカウンターを構え、帝国ホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニ、赤坂東急ホテルなどにブースを構えていた。我々は、これらのオフィスを、交代で受け持った。
当時の仲間達は、どんなルートで入社して来たのかは知らないが、今思い出しても独特な個性の人たちばかり。さすがに皆、英語はぺらぺら。格好よく制服に身をつつみ、最前線を守っていた。懐かしく思い起こすと、、、、。(ねえ、男性の皆様!!これは数十年前の描写だから、くれぐれも早まってラブレターなど書かぬ様、、、へへへ、、。)
1.アメリカンスクール出身で、英語は完璧。抜群のプロポーションと頭脳を誇り、常にマイペースで優雅な物腰の人。
2.頭も、目も、口も、そして動作に至るまで、その回転の速さは、まさに、スポーツカーのターボエンジン。本人もその特技を活かし、当時、趣味と実益を兼ね、テレビのクイズ番組荒らしの常習犯。始終葉書で応募して参加し、かなり賞品を稼いだツワモノ。何せ、回答ボタンを押すスピードが、他人を寄せ付けぬ神業の持ち主。本人曰く、母親のお腹の中に、「モノ」を忘れてきちゃった、、と、のたまう豪快な人。
3.やんごとない方々が学ぶことで有名な、某校を卒業し、優雅にざーます言葉をつかいつつ、眼を飛ばし、結構喧嘩っ早くていなせな人。
4.これまた、やんごとない方ゆかりの某有名カトリック校出身で、常にのんびり、優雅に、品よく仕事をこなし、早々と関西の名家に嫁いでいった人。
5.頭脳と、美貌と、スタイルを兼ね備え、おっとりしつつ、言うことは言い、やることはやり、内外の男性にモテモテで、焦がれ死にした人も数多では??と評判の人。
上記の凄い軍団を纏め上げていたボスが、これまた大物。蔭で聞いていたら、間違いなくアメリカ人同士の「べらんめえ英語」で、当時の極東支社長や、米軍担当者と互角以上に渡り合い、女ばかりの花園(?)に黒一点で堂々と、どんなに肴にされようと、びくともしなかった、懐の深いボス。あ~あ!!懐かしいなあ!!
上記の数人、プラスこの航空会社のOB達は、今でも、相変わらず交流を続け、その会合はサミットと呼ばれている。私も東京に居る時は、年に一、二度、このサミットに参加させてもらっている。こんな個性豊かな人々に囲まれ、大いに刺激を受けつつ、最前線で英語を使い続けたことは、まさに理想的なOJT(on the job training)として、私の英会話力をかなり磨いていった。
自社切符はもとより、各航空会社間で、お互いに無料切符や超格安切符(10%という会社もあった)を贈り合い、優遇し、自社を少しでも宣伝して貰えるよう、努めていた。ホテル業界も、航空会社員とその家族には、無料又は特別割引料金で、かなり良い部屋を提供してくれ、時には観光リムジンも、ただで手配してくれた。
つまり、国際観光旅行をするには、絶好の職場だったのである。正社員の給料は、かなり優遇されており、今思えば、本当によき時代に、航空会社に居たものである。
各航空会社は、自社の面子にかけて、都内の一等地にオフィスを構え、カウンターはモダンな設備や優雅なインテリアで、客の眼を引き付けていた。私が入社した航空会社は、奇しくも初めてのアメリカ旅行に乗っていった航空会社で、私には馴染み深い航空会社だったが、当時は宣伝や派手さでは、他のアメリカの2社の方が人気があった。
しかし、それらの2社は程なく潰れ、私の入社したアメリカの航空会社は今でも健在であり、皮肉なものである。内情を知って、なるほどと思ったのだが、この航空会社は米軍の御用達のエアラインで、米軍基地への兵士の送迎も担当していた。その為、当時は景気もよく、いつもかなり混んでいた。
そんな時代のダウンタウンのカウンターというのは、言わば航空会社の応接間。いまでこそ、多くの航空会社が、家賃が高くて賄いきれず、ダウンタウンのカウンターを閉鎖し、空港だけにしているが、当時この航空会社は、有楽町に本社とカウンターを構え、帝国ホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニ、赤坂東急ホテルなどにブースを構えていた。我々は、これらのオフィスを、交代で受け持った。
当時の仲間達は、どんなルートで入社して来たのかは知らないが、今思い出しても独特な個性の人たちばかり。さすがに皆、英語はぺらぺら。格好よく制服に身をつつみ、最前線を守っていた。懐かしく思い起こすと、、、、。(ねえ、男性の皆様!!これは数十年前の描写だから、くれぐれも早まってラブレターなど書かぬ様、、、へへへ、、。)
1.アメリカンスクール出身で、英語は完璧。抜群のプロポーションと頭脳を誇り、常にマイペースで優雅な物腰の人。
2.頭も、目も、口も、そして動作に至るまで、その回転の速さは、まさに、スポーツカーのターボエンジン。本人もその特技を活かし、当時、趣味と実益を兼ね、テレビのクイズ番組荒らしの常習犯。始終葉書で応募して参加し、かなり賞品を稼いだツワモノ。何せ、回答ボタンを押すスピードが、他人を寄せ付けぬ神業の持ち主。本人曰く、母親のお腹の中に、「モノ」を忘れてきちゃった、、と、のたまう豪快な人。
3.やんごとない方々が学ぶことで有名な、某校を卒業し、優雅にざーます言葉をつかいつつ、眼を飛ばし、結構喧嘩っ早くていなせな人。
4.これまた、やんごとない方ゆかりの某有名カトリック校出身で、常にのんびり、優雅に、品よく仕事をこなし、早々と関西の名家に嫁いでいった人。
5.頭脳と、美貌と、スタイルを兼ね備え、おっとりしつつ、言うことは言い、やることはやり、内外の男性にモテモテで、焦がれ死にした人も数多では??と評判の人。
上記の凄い軍団を纏め上げていたボスが、これまた大物。蔭で聞いていたら、間違いなくアメリカ人同士の「べらんめえ英語」で、当時の極東支社長や、米軍担当者と互角以上に渡り合い、女ばかりの花園(?)に黒一点で堂々と、どんなに肴にされようと、びくともしなかった、懐の深いボス。あ~あ!!懐かしいなあ!!
上記の数人、プラスこの航空会社のOB達は、今でも、相変わらず交流を続け、その会合はサミットと呼ばれている。私も東京に居る時は、年に一、二度、このサミットに参加させてもらっている。こんな個性豊かな人々に囲まれ、大いに刺激を受けつつ、最前線で英語を使い続けたことは、まさに理想的なOJT(on the job training)として、私の英会話力をかなり磨いていった。
2008年9月24日水曜日
教授とのお別れ
教授は私の航空会社就職決定のニュースを、とても喜んでくださった。教授の強力なサポートのお陰で、マリーと知り合い、約半年。英語を使い続ける環境に恵まれ、勇気をもって履歴書を送ることが出来た私。「良かった、教授のご好意にお答えできて、、、」と感謝しつつ、心からホッとした。 勿論マリーにも、早速手紙で報告し、お礼を言った。
教授はその後も、時折我が家に泊まりに見えた。アメリカのアポロ計画が順調に進むにつれ、教授は益々お忙しくなっていった。暗殺される前、ケネディ大統領が、アメリカの威信にかけて世界に発表した、「1960年代中に必ず人類を月面に立たせる!!」という公約は、本人の死後も、アメリカ人、いや世界中の人々の、関心の的となっていた。そしてアメリカのアポロ計画は、着々と目標に向かって進んでいた。
アポロ10号が打ち上げられるころには、教授はすでに、世界の地球科学研究の第一人者として、国内外のマスコミに注目され、テレビに雑誌に新聞にと、大きく取り上げられていた。アポロ10号の打ち上げに際しては、テレビ解説者の一人として、あの穏やかな口調を変えることなく、色々と説明しておられた。マスコミからも引っ張りだこだった教授の重大なミッションについても、すでに多くの人に、知れ渡っていた。
それはNASAからのミッションで、「宇宙飛行士が月面に降り立つことができたら、月の岩石を地球に持ち帰る。その一部を、教授の研究室で分析してほしい。」という素晴らしい、名誉ある依頼だった。日本に、その研究の第一人者と研究チームがいることを、多くの日本人が誇りに思い、教授もとても張り切っておられた。「我が家から歩いて数分のところに、月の石が来るんだ!!」と思うと、私まで、何だかとても嬉しかった。
人類の大きな夢を乗せ、1969年7月16日、アポロ11号は、フロリダ州のケネディ宇宙センターから、無事に打ち上げられた。世界中の人々は、国境も宗教も越え、この夢の実現に、祈りを捧げた。そんな人々の願いが届き、7月19日、すでに月の周回軌道に乗っていた、月着陸船イーグルは、月面目指して切り離された。
そして、その歴史的瞬間が近づいてきた。7月20日午後、(奇しくも私の誕生日)、アームストロング船長、オルドリン操縦士、コリンズ操縦士、3名の宇宙飛行士を乗せた月着陸船イーグルは、月面の「静かの海」に、無事着陸した。
ニュースを見守る全ての人々の興奮は、頂点に達し、歴史的な瞬間の始まりを今か今かと待っていた。しばらくの準備時間をへて、(まだ月面に降り立つまでには、6時間ほど船内での準備時間が必要だった。)人類として、最初に月に降り立った人は、もう皆さんよくご存知の宇宙飛行士、アームストロング船長だった。
月面に第一歩を記したアームストロング船長の、「一人の人間にとっては、小さな一歩だが、人類にとっては、偉大な躍進だ」という名言は、当時世界中の人々を感動させ、興奮させた。3名の宇宙飛行士は、人類の未来を開く大切なお土産として、地球に持ち帰る為、予定通り21kg位の月の岩石を採取した。
1960年代最後の年、「1969年7月20日」、故ケネディ大統領の決意と公約は果たされ、3名の宇宙飛行士によって、月面にアメリカ国旗が翻った。素晴らしいミッションと中継を終え、3名の宇宙飛行士は、又遥遥と、遠い地球への帰還の途についた。
彼らを乗せた帰還船のカプセルは、7月24日、ハワイの南西沖、1500km、ウエーク島から640kmの海洋に着水し、英雄達は、無事地球に帰還した。大空から真っ赤なパラシュートをたなびかせ、降下してくるカプセルの姿を眼にしたすべての人々は、感動と興奮の中で、新たな歴史の証人となった。
教授とも大きくかかわりを持つこのミッションの成功に、私も興奮しまくった。カプセルから元気に宇宙飛行士が出てくるニュースを見た時には、思わず拍手してしまったことを覚えている。
この1969年7月16日に始まり、7月24日に完結した、アポロ11号の歴史的ドラマは、スリルとサスペンスに満ち満ちており、とても映画やドラマの比ではなく、当時世界中の人々をハラハラドキドキの興奮の渦に巻き込んだ。
人々がまだその物凄いニュースの余韻に浸り、興奮冷めやらぬ日日を過ごしていたある日、悲報は突然もたらされた。1969年8月6日、テレビ、ラジオ、新聞で、大きく報道されたニュースのタイトルは??
「月の石の教授、逝去!!」サブタイトルは「待ちかねた月の石、ついに教授の手に届かず!!」という悲しい悲しい内容だった。私は又、失神しそうに驚いた。
このところしばらく、我が家にも見えず、アポロ11号の打ち上げ報道では、日本のマスコミの中心人物であるはずの教授の姿が見えないことから、「変だなあ?!」と多少違和感を感じていた私だったが、初夏の頃までは、まだマスコミを賑わしていたから、多分このミッションの準備で超お忙しいのだろうと油断していた。
教授はこのアポロ11号が月面着陸に成功したころ、すでに胃癌の末期でどうにもならない状態だった。まだ59歳の若さと、健康そのものの肉体が、皮肉にも癌の進行を早め、命取りとなったそうだ。大学の教授として、世界の岩石学の権威として、そして何よりも「月の石の教授」として、世界中の人々から愛され、期待された教授は、あっという間に、帰らぬ人となってしまった。「きっと、このミッションの準備で無理をされ、それで発見が遅れたに違いない!!」とショックでショックで涙がポロポロとこぼれた。
「神様!!残酷すぎるよ~!!何故今なの?どうしてせめてあと一年待ってくれなかったの??」と行き場の無い怒りに神を恨んだ。教授もさぞご無念だったことだろう。ただ、もし唯一の救いがあるとすれば、それは教授がまだご存命の内に、アームストロング船長が月に人類の偉大なる第一歩を印し、確かに教授の待ち望んでいた月の石は採取され、アポロ11号によって、地球に運ばれて来たことだ。教授はそのニュースを確認し、遠く旅立っていかれた。その後多くの学者が教授の遺志を継ぎ、人類の未来の夢の為に月の石の解明を続けている。
マスコミで大騒ぎされるようになったあとも、我が家での教授の態度には、いささかの変化もなかった。相変わらず謙虚で、穏やかで、礼儀正しく、それでいて毅然とした品格が、内面から滲み出ていた。教授はこうして、志半ばでこの世を去られたが、没後約40年の月日を経た今でも、その研究成果や著書により、世界中の多くの科学者に、影響を与え続けている。
そして教授の素晴らしいお人柄は、当時も今も、私の最も尊敬する人として、その後の息子の教育に、大きな影響を及ぼしている。何しろその時、教授はすでに、地球を越えて、壮大な宇宙にまで、眼をむけておられたのだから。地球人養成にも、大きな目標となった大恩人の教授は、今でも当時のままの穏やかな微笑で、私の心の中に生き続けている。
教授はその後も、時折我が家に泊まりに見えた。アメリカのアポロ計画が順調に進むにつれ、教授は益々お忙しくなっていった。暗殺される前、ケネディ大統領が、アメリカの威信にかけて世界に発表した、「1960年代中に必ず人類を月面に立たせる!!」という公約は、本人の死後も、アメリカ人、いや世界中の人々の、関心の的となっていた。そしてアメリカのアポロ計画は、着々と目標に向かって進んでいた。
アポロ10号が打ち上げられるころには、教授はすでに、世界の地球科学研究の第一人者として、国内外のマスコミに注目され、テレビに雑誌に新聞にと、大きく取り上げられていた。アポロ10号の打ち上げに際しては、テレビ解説者の一人として、あの穏やかな口調を変えることなく、色々と説明しておられた。マスコミからも引っ張りだこだった教授の重大なミッションについても、すでに多くの人に、知れ渡っていた。
それはNASAからのミッションで、「宇宙飛行士が月面に降り立つことができたら、月の岩石を地球に持ち帰る。その一部を、教授の研究室で分析してほしい。」という素晴らしい、名誉ある依頼だった。日本に、その研究の第一人者と研究チームがいることを、多くの日本人が誇りに思い、教授もとても張り切っておられた。「我が家から歩いて数分のところに、月の石が来るんだ!!」と思うと、私まで、何だかとても嬉しかった。
人類の大きな夢を乗せ、1969年7月16日、アポロ11号は、フロリダ州のケネディ宇宙センターから、無事に打ち上げられた。世界中の人々は、国境も宗教も越え、この夢の実現に、祈りを捧げた。そんな人々の願いが届き、7月19日、すでに月の周回軌道に乗っていた、月着陸船イーグルは、月面目指して切り離された。
そして、その歴史的瞬間が近づいてきた。7月20日午後、(奇しくも私の誕生日)、アームストロング船長、オルドリン操縦士、コリンズ操縦士、3名の宇宙飛行士を乗せた月着陸船イーグルは、月面の「静かの海」に、無事着陸した。
ニュースを見守る全ての人々の興奮は、頂点に達し、歴史的な瞬間の始まりを今か今かと待っていた。しばらくの準備時間をへて、(まだ月面に降り立つまでには、6時間ほど船内での準備時間が必要だった。)人類として、最初に月に降り立った人は、もう皆さんよくご存知の宇宙飛行士、アームストロング船長だった。
月面に第一歩を記したアームストロング船長の、「一人の人間にとっては、小さな一歩だが、人類にとっては、偉大な躍進だ」という名言は、当時世界中の人々を感動させ、興奮させた。3名の宇宙飛行士は、人類の未来を開く大切なお土産として、地球に持ち帰る為、予定通り21kg位の月の岩石を採取した。
1960年代最後の年、「1969年7月20日」、故ケネディ大統領の決意と公約は果たされ、3名の宇宙飛行士によって、月面にアメリカ国旗が翻った。素晴らしいミッションと中継を終え、3名の宇宙飛行士は、又遥遥と、遠い地球への帰還の途についた。
彼らを乗せた帰還船のカプセルは、7月24日、ハワイの南西沖、1500km、ウエーク島から640kmの海洋に着水し、英雄達は、無事地球に帰還した。大空から真っ赤なパラシュートをたなびかせ、降下してくるカプセルの姿を眼にしたすべての人々は、感動と興奮の中で、新たな歴史の証人となった。
教授とも大きくかかわりを持つこのミッションの成功に、私も興奮しまくった。カプセルから元気に宇宙飛行士が出てくるニュースを見た時には、思わず拍手してしまったことを覚えている。
この1969年7月16日に始まり、7月24日に完結した、アポロ11号の歴史的ドラマは、スリルとサスペンスに満ち満ちており、とても映画やドラマの比ではなく、当時世界中の人々をハラハラドキドキの興奮の渦に巻き込んだ。
人々がまだその物凄いニュースの余韻に浸り、興奮冷めやらぬ日日を過ごしていたある日、悲報は突然もたらされた。1969年8月6日、テレビ、ラジオ、新聞で、大きく報道されたニュースのタイトルは??
「月の石の教授、逝去!!」サブタイトルは「待ちかねた月の石、ついに教授の手に届かず!!」という悲しい悲しい内容だった。私は又、失神しそうに驚いた。
このところしばらく、我が家にも見えず、アポロ11号の打ち上げ報道では、日本のマスコミの中心人物であるはずの教授の姿が見えないことから、「変だなあ?!」と多少違和感を感じていた私だったが、初夏の頃までは、まだマスコミを賑わしていたから、多分このミッションの準備で超お忙しいのだろうと油断していた。
教授はこのアポロ11号が月面着陸に成功したころ、すでに胃癌の末期でどうにもならない状態だった。まだ59歳の若さと、健康そのものの肉体が、皮肉にも癌の進行を早め、命取りとなったそうだ。大学の教授として、世界の岩石学の権威として、そして何よりも「月の石の教授」として、世界中の人々から愛され、期待された教授は、あっという間に、帰らぬ人となってしまった。「きっと、このミッションの準備で無理をされ、それで発見が遅れたに違いない!!」とショックでショックで涙がポロポロとこぼれた。
「神様!!残酷すぎるよ~!!何故今なの?どうしてせめてあと一年待ってくれなかったの??」と行き場の無い怒りに神を恨んだ。教授もさぞご無念だったことだろう。ただ、もし唯一の救いがあるとすれば、それは教授がまだご存命の内に、アームストロング船長が月に人類の偉大なる第一歩を印し、確かに教授の待ち望んでいた月の石は採取され、アポロ11号によって、地球に運ばれて来たことだ。教授はそのニュースを確認し、遠く旅立っていかれた。その後多くの学者が教授の遺志を継ぎ、人類の未来の夢の為に月の石の解明を続けている。
マスコミで大騒ぎされるようになったあとも、我が家での教授の態度には、いささかの変化もなかった。相変わらず謙虚で、穏やかで、礼儀正しく、それでいて毅然とした品格が、内面から滲み出ていた。教授はこうして、志半ばでこの世を去られたが、没後約40年の月日を経た今でも、その研究成果や著書により、世界中の多くの科学者に、影響を与え続けている。
そして教授の素晴らしいお人柄は、当時も今も、私の最も尊敬する人として、その後の息子の教育に、大きな影響を及ぼしている。何しろその時、教授はすでに、地球を越えて、壮大な宇宙にまで、眼をむけておられたのだから。地球人養成にも、大きな目標となった大恩人の教授は、今でも当時のままの穏やかな微笑で、私の心の中に生き続けている。
2008年9月22日月曜日
就職!その思いがけない展開
試験は2時間半かかった。とにかく聴き取りも含め、50ページぐらいのすべて英語のテストだった。簡単な問いから、段々英語で数学問題を解くような長いものに変わっていった。とにかく、語彙、理解力、反射力すべて網羅している。
時間が足りず、後ろの問題は何題か遣り残した。終わった時は、顔は上気し、頭はフラフラ、体はヘトヘト。もう一杯一杯だった。別室でやっていた私は、多少遣り残しがあったが、自発的に言われた時間に人事課に届けた。「ご苦労様、追って結果は連絡しますから今日はお引き取りください!!」ということだった。
帰りの地下鉄の中で、「時間内に全部できなかったし、違っている答えもあるかもしれないし、あ~あ、一つ脱落!!」とぼんやり考えていた。とにかく試験に集中し過ぎて、脳みそがカラカラに干上がっているような気がした。(誰だ!!元々カラカラだなんて言ってる奴は、、、、)その日は疲れて早寝した。
他の2社からは、ウンともスンとも連絡がなかった。驚きは又電話でやってきた。先日の人事課の人からだ。「極東支社長の面接がありますので、明日の朝9時に人事課に来てください。ご案内します。」と淡々とした声で告げた。「エッ!又明日面接!!そんな乱暴な!!」と思ったが、これがこの会社のやり方なんだとは後にわかった。
面接の日は、深いエメラルドグリーンのスーツにハイヒール、真珠のネックレスで優雅に出かけた。さすがに面接を待っている面々は、皆、緊張した顔をしていた。名前を呼ばれて部屋に入っていくと、凄く豪華で広々とした部屋。
ハイヒールの踵がめり込みそうな、分厚い絨毯が眼に飛び込んできた。又、同時に何かボスと打ち合わせをしている、かなり年配の女秘書の、完璧にネイティブな英語が耳に飛び込んできた。
入り口のドアから厳しい顔をした極東支社長(アメリカ人)の前の椅子まで、やたら遠く感じて、おっちょこちょいの私は、めったに履かないハイヒールの足が、もつれるんじゃないかと緊張した。すでにすっかりこの豪華なオフィスに呑まれた私は、何を訊かれ、どう答えたか、全く記憶がない。見事にスポンと記憶が抜けている。それほど緊張していたのであろう。
ともあれ面接を終え、その日は又家に戻った。「簡単には入れてくれないなあ!!」と気短な私はじれた。「早く白黒はっきりつけてくれ!!」という気分だった。でも、でもである。次の日、又あの人事課の人から、いきなり電話を受けたのだ。3度目だから、もうあまり電話がかかってくることには、ビックリしなくなっていた。
しかし、その電話の内容には面食らった。「とりあえず採用はきまりましたが、どこに配属させるかはもう少し時間がかかります。ところで、早速ですが実は空港のカーゴの方で緊急に一週間ぐらい手伝ってくれる人がほしいんですが、明日から行ってくれませんか?住所と行き方は、、、、、、」と又いきなり先制パンチ!!
次の日からすぐ羽田空港に出かけると知って、家族全員ビックリ仰天。2-3日後、「貴女の配属は本社内のPTAデスクですから、来週から本社に戻ってください!!」と連絡があった。「なんだ、PTAって??なんかの保護者会関連の仕事か??」と一瞬思った。正式な名称はPrepaid Ticket Advice。PTAはその略。つまりスポンサーが日本や外国に居て、航空券を第三者に送ったり貰ったりする係りとでも言おうか。
この仕事は色々な国の出入国事情を調べたり規制を調べたり、スケジュールを作るため分厚いTariffなど常時2-3冊の本を抱え、最初は大変だった。私は航空関係で働く人なら、誰もが覚えなければならないスパイの暗号のような、「特殊業界用語」を覚えさせられ、変な通信機(テレックス)で暗号を世界中に打つ仕事が始まった。
勿論世界中から暗号返信文も入ってきた。英語も毎日耳に飛び込み、使い続けた。私は活き活きと第二の夢のスタートを切った。働き始めて2週間ぐらいした頃、ほぼ前後して履歴書を出していた他の2社から、試験の日を知らせてきた。「もう遅いよ!!」と受験をお断りしたことは言うまでも無い。当時からこのアメリカの航空会社は、何事も効率、効率と電話でガンガンやっていた。とにかく猛烈な会社だった。
時間が足りず、後ろの問題は何題か遣り残した。終わった時は、顔は上気し、頭はフラフラ、体はヘトヘト。もう一杯一杯だった。別室でやっていた私は、多少遣り残しがあったが、自発的に言われた時間に人事課に届けた。「ご苦労様、追って結果は連絡しますから今日はお引き取りください!!」ということだった。
帰りの地下鉄の中で、「時間内に全部できなかったし、違っている答えもあるかもしれないし、あ~あ、一つ脱落!!」とぼんやり考えていた。とにかく試験に集中し過ぎて、脳みそがカラカラに干上がっているような気がした。(誰だ!!元々カラカラだなんて言ってる奴は、、、、)その日は疲れて早寝した。
他の2社からは、ウンともスンとも連絡がなかった。驚きは又電話でやってきた。先日の人事課の人からだ。「極東支社長の面接がありますので、明日の朝9時に人事課に来てください。ご案内します。」と淡々とした声で告げた。「エッ!又明日面接!!そんな乱暴な!!」と思ったが、これがこの会社のやり方なんだとは後にわかった。
面接の日は、深いエメラルドグリーンのスーツにハイヒール、真珠のネックレスで優雅に出かけた。さすがに面接を待っている面々は、皆、緊張した顔をしていた。名前を呼ばれて部屋に入っていくと、凄く豪華で広々とした部屋。
ハイヒールの踵がめり込みそうな、分厚い絨毯が眼に飛び込んできた。又、同時に何かボスと打ち合わせをしている、かなり年配の女秘書の、完璧にネイティブな英語が耳に飛び込んできた。
入り口のドアから厳しい顔をした極東支社長(アメリカ人)の前の椅子まで、やたら遠く感じて、おっちょこちょいの私は、めったに履かないハイヒールの足が、もつれるんじゃないかと緊張した。すでにすっかりこの豪華なオフィスに呑まれた私は、何を訊かれ、どう答えたか、全く記憶がない。見事にスポンと記憶が抜けている。それほど緊張していたのであろう。
ともあれ面接を終え、その日は又家に戻った。「簡単には入れてくれないなあ!!」と気短な私はじれた。「早く白黒はっきりつけてくれ!!」という気分だった。でも、でもである。次の日、又あの人事課の人から、いきなり電話を受けたのだ。3度目だから、もうあまり電話がかかってくることには、ビックリしなくなっていた。
しかし、その電話の内容には面食らった。「とりあえず採用はきまりましたが、どこに配属させるかはもう少し時間がかかります。ところで、早速ですが実は空港のカーゴの方で緊急に一週間ぐらい手伝ってくれる人がほしいんですが、明日から行ってくれませんか?住所と行き方は、、、、、、」と又いきなり先制パンチ!!
次の日からすぐ羽田空港に出かけると知って、家族全員ビックリ仰天。2-3日後、「貴女の配属は本社内のPTAデスクですから、来週から本社に戻ってください!!」と連絡があった。「なんだ、PTAって??なんかの保護者会関連の仕事か??」と一瞬思った。正式な名称はPrepaid Ticket Advice。PTAはその略。つまりスポンサーが日本や外国に居て、航空券を第三者に送ったり貰ったりする係りとでも言おうか。
この仕事は色々な国の出入国事情を調べたり規制を調べたり、スケジュールを作るため分厚いTariffなど常時2-3冊の本を抱え、最初は大変だった。私は航空関係で働く人なら、誰もが覚えなければならないスパイの暗号のような、「特殊業界用語」を覚えさせられ、変な通信機(テレックス)で暗号を世界中に打つ仕事が始まった。
勿論世界中から暗号返信文も入ってきた。英語も毎日耳に飛び込み、使い続けた。私は活き活きと第二の夢のスタートを切った。働き始めて2週間ぐらいした頃、ほぼ前後して履歴書を出していた他の2社から、試験の日を知らせてきた。「もう遅いよ!!」と受験をお断りしたことは言うまでも無い。当時からこのアメリカの航空会社は、何事も効率、効率と電話でガンガンやっていた。とにかく猛烈な会社だった。
2008年9月21日日曜日
有難うマリー!!そして第二の夢へ
国内のあちらこちらを飛び回っていたマリーは旅の残り少ない日日の中、羽田空港から香港に旅立って行った。「アメリカ人にとっても、めったに東洋へは来るチャンスがないから行ってきま~す!!」と元気に出かけていった。帰ってきたマリーは「へへへ、、、」と恥ずかしそうな笑顔を浮かべて両手を見せた。なんとなんと、その両手の指に6個の指輪が、、、、、。
「ショーウインドーを覗いてたらあんまり綺麗で衝動買いしちゃった~、、、」と照れくさそうに笑った。母がおしゃれ心に火をつけた??彼女は完全に可愛い普通のアメリカ女性だった。勿論母が上げた真珠の指輪もその6個の中の1個。手をかざして恥ずかしそうに嬉しそうに笑っていたマリー!!
その可愛らしい笑顔とともにマリーの指輪事件はその後我が家の語り草となった。 後にマリーから届いた帰国報告の手紙で、この指輪の衝動買いのお陰で金欠になり、サンフランシスコではかなり惨めな目にあったというオチまでついて、、、、。
約1ヶ月半の日本滞在を終え、マリーがサンフランシスコに発つ日がやって来た。別れの日には家族全員淋しい気持ちになった。私は空港の出入国管理室に入るマリーに、「サヨウナラ!!そして本当に本当に有難う!!」と泣きながら擦れる声で別れを告げた。後は言葉にならなかった。マリーも目に一杯涙を浮かべ手を振りながら消えていった。
こうして約半年のマリーと共に歩んだ英会話強化の日日はついに終わりを告げた。そして私の前には厳しい現実が又待っていた。そう、大事な大事な目標に向けて行動を起こす時が、、、。 「さあ、又、イザ出陣!!」と 私は久しぶりに自分に喝を入れた。
その頃私は自分でも、英語に対し自分の耳が前よりかなり敏感に反応しているのを感じていた。今、この時に次の夢に向かわなければ、ピークの耳は落ちていく。私は焦った。
まず最初にマリーが着く頃からとり始めた英字新聞に、私は真剣に眼を通し始めた。何も知らない肝っ玉かあさんは娘が格好よく英字新聞を読むようになってくれたと喜んでいた。
「ところがドッコイ!!」私の眼はすべての記事を素通りし、目指す場所はただ一箇所。「どこ??」そう!!社員募集広告欄のみ。毎日毎日その欄に直行。あまり多くないその社員募集広告を眺めていた。
私の次の目標は「鍛えた英語を使って、多少は国際的な仕事につきたい!」 ということ。「皆さん!!覚えておいでかな?!」 英語が出来る社員に限定して募集する会社なら、「英字新聞位購読している人じゃなければ、、」と思うに違いないと当りをつけたのだ。
。。。「ビンゴー!!」。。ほどなく私は3つの興味ある広告を見つけ出し履歴書を送った。すると2-3日後、まったく知らない人から突然私宛に電話がかかってきた。「もしもし、、?!」と出るといきなり「某航空会社の人事課の者ですが、明日朝9時からオフィスに試験を受けに来られますか???」との連絡。
就職試験の連絡などは当然文書でくるものと頭から思い込んで油断していた私は、いきなりガ~~ンとアッパーカットをくらった気がした。でも、いたずら電話でもなく、確かに私の名前も電話番号もあっている。。夢じゃない!!。。。間違いなく履歴書を出した会社の一つだ!!。
いきなり電話でしかも明日試験という先制パンチには、一瞬、クラッ!!ときたが、すぐ体制を建て直し、「はい、必ず伺います!」と答えて電話を切った。しかし切ってからの方が大変!!オロオロ、ドキドキ。「エ~ッ!!明日?美容院にいかなきゃ!洋服は??」 しかし、興奮も収まってくると、「準備する隙も与えず敵もやるな!!」と猛然とファイトが湧いてきた。
「ショーウインドーを覗いてたらあんまり綺麗で衝動買いしちゃった~、、、」と照れくさそうに笑った。母がおしゃれ心に火をつけた??彼女は完全に可愛い普通のアメリカ女性だった。勿論母が上げた真珠の指輪もその6個の中の1個。手をかざして恥ずかしそうに嬉しそうに笑っていたマリー!!
その可愛らしい笑顔とともにマリーの指輪事件はその後我が家の語り草となった。 後にマリーから届いた帰国報告の手紙で、この指輪の衝動買いのお陰で金欠になり、サンフランシスコではかなり惨めな目にあったというオチまでついて、、、、。
約1ヶ月半の日本滞在を終え、マリーがサンフランシスコに発つ日がやって来た。別れの日には家族全員淋しい気持ちになった。私は空港の出入国管理室に入るマリーに、「サヨウナラ!!そして本当に本当に有難う!!」と泣きながら擦れる声で別れを告げた。後は言葉にならなかった。マリーも目に一杯涙を浮かべ手を振りながら消えていった。
こうして約半年のマリーと共に歩んだ英会話強化の日日はついに終わりを告げた。そして私の前には厳しい現実が又待っていた。そう、大事な大事な目標に向けて行動を起こす時が、、、。 「さあ、又、イザ出陣!!」と 私は久しぶりに自分に喝を入れた。
その頃私は自分でも、英語に対し自分の耳が前よりかなり敏感に反応しているのを感じていた。今、この時に次の夢に向かわなければ、ピークの耳は落ちていく。私は焦った。
まず最初にマリーが着く頃からとり始めた英字新聞に、私は真剣に眼を通し始めた。何も知らない肝っ玉かあさんは娘が格好よく英字新聞を読むようになってくれたと喜んでいた。
「ところがドッコイ!!」私の眼はすべての記事を素通りし、目指す場所はただ一箇所。「どこ??」そう!!社員募集広告欄のみ。毎日毎日その欄に直行。あまり多くないその社員募集広告を眺めていた。
私の次の目標は「鍛えた英語を使って、多少は国際的な仕事につきたい!」 ということ。「皆さん!!覚えておいでかな?!」 英語が出来る社員に限定して募集する会社なら、「英字新聞位購読している人じゃなければ、、」と思うに違いないと当りをつけたのだ。
。。。「ビンゴー!!」。。ほどなく私は3つの興味ある広告を見つけ出し履歴書を送った。すると2-3日後、まったく知らない人から突然私宛に電話がかかってきた。「もしもし、、?!」と出るといきなり「某航空会社の人事課の者ですが、明日朝9時からオフィスに試験を受けに来られますか???」との連絡。
就職試験の連絡などは当然文書でくるものと頭から思い込んで油断していた私は、いきなりガ~~ンとアッパーカットをくらった気がした。でも、いたずら電話でもなく、確かに私の名前も電話番号もあっている。。夢じゃない!!。。。間違いなく履歴書を出した会社の一つだ!!。
いきなり電話でしかも明日試験という先制パンチには、一瞬、クラッ!!ときたが、すぐ体制を建て直し、「はい、必ず伺います!」と答えて電話を切った。しかし切ってからの方が大変!!オロオロ、ドキドキ。「エ~ッ!!明日?美容院にいかなきゃ!洋服は??」 しかし、興奮も収まってくると、「準備する隙も与えず敵もやるな!!」と猛然とファイトが湧いてきた。
2008年9月20日土曜日
マリーとの再会
マリーは予定通り私が帰国してまもなくやって来た。彼女にはすでに日本に多くの知り合いが居て、引っ張りだこだった。キャンプ中の日本語の特訓が実って(?)、かなりかたことの日本語が話せるようになっていた。。。さあ今度は彼女があちこちで日本語を鍛える番だ。。。我が家を拠点として、教授の研究室は勿論、本当に日本中あちこちから招待され、果敢に恐れず出かけていった。「逞しいなあ!!」と心から思った。
アメリカで私をお世話してくれたお礼に、母はマリーに自分とおそろいの真珠の指輪をオーダーし感謝の記念品として贈った。母からこの贈り物のプランを打ち明けられた時には、正直、男物のTシャツ、ジーパン、カーボーイブーツに大きな麦わら帽子という彼女の定番スタイルを見慣れていた私は、「ムムム、、、、あまりいいプランじゃないかも?!」と思った。
しかし指輪はすでにオーダー済みで、私の心配は杞憂だったことがすぐにわかった。母から贈られ、最初はビックリして恥ずかしそうに指にはめてみていた彼女の表情は、瞬く間にいかめしい地質学者の顔から、一人の可愛らしい女性の顔に変わっていった。今でもときおり思い出す彼女の笑顔は、その時のうれしそうにはにかんだ顔。早速指にはめ、毎日出かけていった。
彼女は能や歌舞伎など日本の伝統芸能にも興味をもっていた。そこで歌舞伎に招待した。能は少し難しすぎるのではと思ったからだ。しかし彼女が日本でもっとも興味を抱いていたのは芸能ではなく日本アルプスへの旅。その美しさを色々な人から聞いていて、「ぜひ日本アルプスに行って見たい!!」と言った。
私は「日本アルプス?お安い御用!!」と早速アレンジして連れて行った。子供時代、日本アルプスの麓、穂高町の母の実家には、祖父母に会いに毎年のように訪れていた私。我が家にとっては、いわば地元。母の親族が松本と穂高に住んでおり、母の電話一本で勿論宿はOK。
早速兄の運転で長野県に向かい、松本城や上高地に案内した。マリーは上高地への旅の途中、眼前に迫り来る焼岳の景観に思わず身を乗り出して、「ウワオ~~~!!」と獣のような叫び声を上げた。身を乗り出して興奮するマリーを見ながら「あのアメリカンロッキーとは違うけど、やっぱりマリーには雄大な山の景色が似合うなあ!!」と心から思った。
大喜びで子供のようにはしゃぎまわり写真を撮り捲るマリーを見て、「連れてきてあげてよかったね~!!」と兄も私も本当に嬉しくなった。その後のマリーは、この雄大で荘厳な日本アルプスの山々をきっと忘れずにいてくれたことだろう。
アメリカで私をお世話してくれたお礼に、母はマリーに自分とおそろいの真珠の指輪をオーダーし感謝の記念品として贈った。母からこの贈り物のプランを打ち明けられた時には、正直、男物のTシャツ、ジーパン、カーボーイブーツに大きな麦わら帽子という彼女の定番スタイルを見慣れていた私は、「ムムム、、、、あまりいいプランじゃないかも?!」と思った。
しかし指輪はすでにオーダー済みで、私の心配は杞憂だったことがすぐにわかった。母から贈られ、最初はビックリして恥ずかしそうに指にはめてみていた彼女の表情は、瞬く間にいかめしい地質学者の顔から、一人の可愛らしい女性の顔に変わっていった。今でもときおり思い出す彼女の笑顔は、その時のうれしそうにはにかんだ顔。早速指にはめ、毎日出かけていった。
彼女は能や歌舞伎など日本の伝統芸能にも興味をもっていた。そこで歌舞伎に招待した。能は少し難しすぎるのではと思ったからだ。しかし彼女が日本でもっとも興味を抱いていたのは芸能ではなく日本アルプスへの旅。その美しさを色々な人から聞いていて、「ぜひ日本アルプスに行って見たい!!」と言った。
私は「日本アルプス?お安い御用!!」と早速アレンジして連れて行った。子供時代、日本アルプスの麓、穂高町の母の実家には、祖父母に会いに毎年のように訪れていた私。我が家にとっては、いわば地元。母の親族が松本と穂高に住んでおり、母の電話一本で勿論宿はOK。
早速兄の運転で長野県に向かい、松本城や上高地に案内した。マリーは上高地への旅の途中、眼前に迫り来る焼岳の景観に思わず身を乗り出して、「ウワオ~~~!!」と獣のような叫び声を上げた。身を乗り出して興奮するマリーを見ながら「あのアメリカンロッキーとは違うけど、やっぱりマリーには雄大な山の景色が似合うなあ!!」と心から思った。
大喜びで子供のようにはしゃぎまわり写真を撮り捲るマリーを見て、「連れてきてあげてよかったね~!!」と兄も私も本当に嬉しくなった。その後のマリーは、この雄大で荘厳な日本アルプスの山々をきっと忘れずにいてくれたことだろう。
2008年9月19日金曜日
アロハ!!そして祖国へ!!
ワシントンのダレス空港を離陸した機体がじょじょに高度を上げていく間、私は二度と再び訪れることがないかも知れないワシントンの町並みを上空から眼に焼き付けるように眺めていた。今回のアメリカの旅で、訪れたすべての町を去るときには、ある時はバスで、又ある時は車で遠ざかる景色をながめつつ同様の感傷に浸っていた。
当時の状況では本当に二度と自力で訪れることなど難しいであろうと思っていたから、、、、、。いい人ばかりにめぐり合え、皆に温かく守られて、あっという間に過ぎてしまった日日。恥ずかしい体験や珍しい体験で、本当に自分を鍛えてくれたアメリカ!!色々な人々の顔が走馬灯のように浮かんでは消え、又不覚にも涙がでて視界がボ~ッと霞んだ。
帰国前の最終目的地はホノルルであった。底抜けに明るい太陽の下、原色の派手な衣装が眩しかった。ここは本当にリゾート地。浜辺に沿ってホテルも林立し、まさに楽園であった。しかし、その暑い日差しとはうらはらに、私の懐はそろそろ氷点下。お金がないハワイなんて、、、、、。物価は当時でも本土よりずっと高い感じがした。
私はホテル内のプールで何回か泳ぎ、プールサイドでのんびりと小説を読んで過ごした。ホテルのベランダから初めて眺めたダイアモンドヘッドの綺麗な夕日が印象的だった。マリンスポーツ、スパ、美味しいレストランなど、楽しいことが満載で今は日本の隣町のようなハワイだが当時はまだそれほどの賑わいはなかった。私はここで有り金を叩いてお土産を買い、ハワイアンのショーも堪能した。さあ!もうオケラ!
ホノルルの空港を飛び立つ時、「さらば、アメリカ!!、、、」と心の中でつぶやいた。もし今、アメリカの出入国管理官がこのブログをみていたら「嘘もいい加減にしろ!!何がさらばアメリカだ!!」と怒鳴りとばされそうなほど、その後の私のパスポートにはアメリカ入国、出国、入国、出国とスタンプがベタベタベタベタ押され続けている。自分でもいったい合計何回出入りしたのか分からないほどベッタリと、、、。ともあれ私の乗ったフライトは一路祖国日本に向けて進路をとった。
当時の状況では本当に二度と自力で訪れることなど難しいであろうと思っていたから、、、、、。いい人ばかりにめぐり合え、皆に温かく守られて、あっという間に過ぎてしまった日日。恥ずかしい体験や珍しい体験で、本当に自分を鍛えてくれたアメリカ!!色々な人々の顔が走馬灯のように浮かんでは消え、又不覚にも涙がでて視界がボ~ッと霞んだ。
帰国前の最終目的地はホノルルであった。底抜けに明るい太陽の下、原色の派手な衣装が眩しかった。ここは本当にリゾート地。浜辺に沿ってホテルも林立し、まさに楽園であった。しかし、その暑い日差しとはうらはらに、私の懐はそろそろ氷点下。お金がないハワイなんて、、、、、。物価は当時でも本土よりずっと高い感じがした。
私はホテル内のプールで何回か泳ぎ、プールサイドでのんびりと小説を読んで過ごした。ホテルのベランダから初めて眺めたダイアモンドヘッドの綺麗な夕日が印象的だった。マリンスポーツ、スパ、美味しいレストランなど、楽しいことが満載で今は日本の隣町のようなハワイだが当時はまだそれほどの賑わいはなかった。私はここで有り金を叩いてお土産を買い、ハワイアンのショーも堪能した。さあ!もうオケラ!
ホノルルの空港を飛び立つ時、「さらば、アメリカ!!、、、」と心の中でつぶやいた。もし今、アメリカの出入国管理官がこのブログをみていたら「嘘もいい加減にしろ!!何がさらばアメリカだ!!」と怒鳴りとばされそうなほど、その後の私のパスポートにはアメリカ入国、出国、入国、出国とスタンプがベタベタベタベタ押され続けている。自分でもいったい合計何回出入りしたのか分からないほどベッタリと、、、。ともあれ私の乗ったフライトは一路祖国日本に向けて進路をとった。
2008年9月17日水曜日
アメリカ一人旅(東海岸)
もうすぐデンバーからオハイオ経由でニュージャージーに出発するというある日。マリーは我々に1日観光旅行をプレゼントしてくれた。行く先は???勿論、コロラドが世界に誇るロッキーマウンテンナショナルパーク。国立公園として有名なこの観光地はまさに、まさに、絶景。本当にウワオ~~!!と叫びたくなるような感動的な景色。その赤茶けた巨大な岩と奇岩の陰から、颯爽とジョンウエインが(古いね、せめてクリントイーストウッドぐらいかな??、、皆が知っているカウボーイは、、)馬に乗って飛び出してきそうなところだった。行けども行けども西部劇映画でお馴染みの谷や迫り来る巨岩の連続で、そのド迫力にはスリルすら覚えた。
遙か後に、これ又ショックと感動が忘れられず、何度か訪れたカナディアンロッキーの「迫力はあるが所々に雪を残した涼やかな景観」とは又全く趣が違う、野性味あふるるアメリカンロッキー。その筆舌に尽くし難い、ダイナミックな光景に出会って、何だかショックと感動で涙が出そうに興奮した。次々と車窓に迫り来る日没の太陽に照らし出された奇岩は息を飲むような美しさだった。こんな生涯忘れることが出来ない素晴らしい景色を紹介してくれたマリーに心の底から感謝した。
1日観光旅行を終えた後、マリーと私はデンバーでお世話になった2組の友人ご夫妻を招き、二晩続けて「すき焼きサヨナラパーティー」を開いた。感謝とお礼のパーティーをマリーの友人ご一家は心から楽しみ、名残を惜しんでくれた。
長かったペンシルバニア山のキャンプ生活にも別れを告げ、我々は、又オハイオまで2泊しながら戻って行った。途中車がパンクしたり、大変な旅であった。(といっても私はただハラハラしながら側で見ていただけだが、、、。)ミズーリ州のどこかとインディアナ州のリッチモンドのモーテルに泊まったことが当時の母への手紙でわかった。マリーはオハイオで5日ぐらい休んで訪日の準備をし、私とともに、ニュージャージーのご両親の家に向かう予定であった。
すでに顔馴染みになっていたイエロースプリングスの人々は我々の到着後、出発までの5日間、連日夕食会を開いて別れを惜しんでくれた。下の階に住む音楽家ご夫妻は庭でバーベキューパーティを開いて送別会をしてくれた。「本当に何で皆こんなに親切なんだろう?!」と思うほど、心に滲みる温かさだった。
後ろ髪を引かれる思いでオハイオを後にし、ニュージャージーのマリーのご両親の家に戻った。甥と姪の二人とはこの日でお別れ。ちょっぴり照れたが、私はここで初めてハグをした。多分二度と会えない別れだと思うと切なさが込み上げてきて涙が溢れた。「ありがとう、あなたたちのお陰で一人旅をする勇気が貰えたのよ!!」とお礼を言った。本当に彼たちとのお喋りがどれ程私の英会話をスムーズにしてくれたことだろう。
又、4、5日ほどニュージャージーに滞在した。この間、ご両親の家から一時間半ほどのニューヨークに長距離バスで遊びに出かけた。5番街をぶらぶらとあるきながら「ああ、この町が教授の慣れ親しんだ町なんだなあ~」と教授が母に話していた言葉を懐かしく思い起こした。途中、日本の本を売っている店を偶然みつけ、思わず小説を一冊買ってしまった。もうすぐ日本に戻れば、いやと言うほど読めるのに、、、、。それ程私は日本語に飢えていた。ロックフェラーセンター、エンパイアステートビルなどのビルの谷間にホワイトカラー族が忙しそうに歩いていた。
ニュージャージーを出発し、ワシントン、ホノルル経由で帰国の途につく日がやってきた。荷物が多すぎるので一部は箱詰めにして、日本に船便で先に送ったので、旅立ちは身軽だった。恐らくこれが最後のご挨拶となるであろうマリーのご両親に別れを告げた。泣き虫の私はここでも大泣きした。私の日本帰国後一週間ぐらいで日本に着く予定のマリーには、「日本で待ってるからね!!我が家に安心して泊まってね!!」と暫くのサヨナラを言った。コンチネンタルのワシントン行きのバス停でハグをし、マリーは私に手を振って、笑顔で見送ってくれた。
二度目の一人旅のスタート地、ワシントンはやたらと暑かった。その蒸し暑さには閉口したが、もう旅は残すところあとわずか。夜行で着いた疲れもわすれ、ホテルに荷物を置いてすぐホワイトハウスに向かった。想像していたほど、大きな建物ではなかった。みどりの芝生に花々が綺麗に植えられていた。
「ああ、ここがアメリカの心臓。わずか数年前まで、あの若くてハンサムなケネディ大統領がジャッキーや子供たち、愛犬などに囲まれて執務をし、住んでいたところなんだ!!」と思ったら、とても感慨深く、暫く食い入るように眺めていた。彼の力強い大統領就任演説は全米を魅了し、民衆を熱狂させた。ジャッキーは新聞記者出身の美貌と知性と教養で、瞬く間に世界の女性の憧れの的となった。名門ケネディ家に嫁いだこの美貌のファーストレディには、すべての幸せが約束されているかに見えたのに、、、。
夜、ホテルの部屋の窓越しに、ケネディ大統領が眠るアーリントン墓地のモニュメントが見えた。私はアメリカ本土の旅の最後にぜひここに来たかったのだ。間接的(それも遙か遠くの!!)とは言え、彼が大統領時代、アメリカのアポロ計画の推進を決断し遂行しなかったら、教授と我が家との縁は生まれず、私がこの地を訪れることなど永遠になかったかもしれないのだから、、、、。「ありがとう。安らかにお眠りください!」とモニュメントの下に眠る憧れのケネディ大統領に手をあわせた。さあ、いよいよアメリカ本土とはここでお別れ。ここからはホノルル経由で帰国するだけだ。「日本に帰ったら私はどうなっちゃうんだろう??」と嬉しいような恐ろしいような複雑な気分だった。
遙か後に、これ又ショックと感動が忘れられず、何度か訪れたカナディアンロッキーの「迫力はあるが所々に雪を残した涼やかな景観」とは又全く趣が違う、野性味あふるるアメリカンロッキー。その筆舌に尽くし難い、ダイナミックな光景に出会って、何だかショックと感動で涙が出そうに興奮した。次々と車窓に迫り来る日没の太陽に照らし出された奇岩は息を飲むような美しさだった。こんな生涯忘れることが出来ない素晴らしい景色を紹介してくれたマリーに心の底から感謝した。
1日観光旅行を終えた後、マリーと私はデンバーでお世話になった2組の友人ご夫妻を招き、二晩続けて「すき焼きサヨナラパーティー」を開いた。感謝とお礼のパーティーをマリーの友人ご一家は心から楽しみ、名残を惜しんでくれた。
長かったペンシルバニア山のキャンプ生活にも別れを告げ、我々は、又オハイオまで2泊しながら戻って行った。途中車がパンクしたり、大変な旅であった。(といっても私はただハラハラしながら側で見ていただけだが、、、。)ミズーリ州のどこかとインディアナ州のリッチモンドのモーテルに泊まったことが当時の母への手紙でわかった。マリーはオハイオで5日ぐらい休んで訪日の準備をし、私とともに、ニュージャージーのご両親の家に向かう予定であった。
すでに顔馴染みになっていたイエロースプリングスの人々は我々の到着後、出発までの5日間、連日夕食会を開いて別れを惜しんでくれた。下の階に住む音楽家ご夫妻は庭でバーベキューパーティを開いて送別会をしてくれた。「本当に何で皆こんなに親切なんだろう?!」と思うほど、心に滲みる温かさだった。
後ろ髪を引かれる思いでオハイオを後にし、ニュージャージーのマリーのご両親の家に戻った。甥と姪の二人とはこの日でお別れ。ちょっぴり照れたが、私はここで初めてハグをした。多分二度と会えない別れだと思うと切なさが込み上げてきて涙が溢れた。「ありがとう、あなたたちのお陰で一人旅をする勇気が貰えたのよ!!」とお礼を言った。本当に彼たちとのお喋りがどれ程私の英会話をスムーズにしてくれたことだろう。
又、4、5日ほどニュージャージーに滞在した。この間、ご両親の家から一時間半ほどのニューヨークに長距離バスで遊びに出かけた。5番街をぶらぶらとあるきながら「ああ、この町が教授の慣れ親しんだ町なんだなあ~」と教授が母に話していた言葉を懐かしく思い起こした。途中、日本の本を売っている店を偶然みつけ、思わず小説を一冊買ってしまった。もうすぐ日本に戻れば、いやと言うほど読めるのに、、、、。それ程私は日本語に飢えていた。ロックフェラーセンター、エンパイアステートビルなどのビルの谷間にホワイトカラー族が忙しそうに歩いていた。
ニュージャージーを出発し、ワシントン、ホノルル経由で帰国の途につく日がやってきた。荷物が多すぎるので一部は箱詰めにして、日本に船便で先に送ったので、旅立ちは身軽だった。恐らくこれが最後のご挨拶となるであろうマリーのご両親に別れを告げた。泣き虫の私はここでも大泣きした。私の日本帰国後一週間ぐらいで日本に着く予定のマリーには、「日本で待ってるからね!!我が家に安心して泊まってね!!」と暫くのサヨナラを言った。コンチネンタルのワシントン行きのバス停でハグをし、マリーは私に手を振って、笑顔で見送ってくれた。
二度目の一人旅のスタート地、ワシントンはやたらと暑かった。その蒸し暑さには閉口したが、もう旅は残すところあとわずか。夜行で着いた疲れもわすれ、ホテルに荷物を置いてすぐホワイトハウスに向かった。想像していたほど、大きな建物ではなかった。みどりの芝生に花々が綺麗に植えられていた。
「ああ、ここがアメリカの心臓。わずか数年前まで、あの若くてハンサムなケネディ大統領がジャッキーや子供たち、愛犬などに囲まれて執務をし、住んでいたところなんだ!!」と思ったら、とても感慨深く、暫く食い入るように眺めていた。彼の力強い大統領就任演説は全米を魅了し、民衆を熱狂させた。ジャッキーは新聞記者出身の美貌と知性と教養で、瞬く間に世界の女性の憧れの的となった。名門ケネディ家に嫁いだこの美貌のファーストレディには、すべての幸せが約束されているかに見えたのに、、、。
夜、ホテルの部屋の窓越しに、ケネディ大統領が眠るアーリントン墓地のモニュメントが見えた。私はアメリカ本土の旅の最後にぜひここに来たかったのだ。間接的(それも遙か遠くの!!)とは言え、彼が大統領時代、アメリカのアポロ計画の推進を決断し遂行しなかったら、教授と我が家との縁は生まれず、私がこの地を訪れることなど永遠になかったかもしれないのだから、、、、。「ありがとう。安らかにお眠りください!」とモニュメントの下に眠る憧れのケネディ大統領に手をあわせた。さあ、いよいよアメリカ本土とはここでお別れ。ここからはホノルル経由で帰国するだけだ。「日本に帰ったら私はどうなっちゃうんだろう??」と嬉しいような恐ろしいような複雑な気分だった。
2008年9月15日月曜日
女性としての貴重な体験
デンバーのバス停には懐かしいマリーと甥姪、そしてBrandyの姿があった。我々はキャンプに戻る前に、その日招待されていたマリーの友人のお宅にお邪魔した。マリーの友人は色々な分野の大学教授が多く奥様も大抵教授だった。この日のお宅もご夫妻とも大学の教授。これらの奥様から一様に得た感想は、「世の中には凄い女性が居るもんだ!!」という驚きばかり。
オーブンで美味しい料理とデザートをつくりながら、大抵対面式キッチンで皆に気配りをし、作り置いたオードブルでお酒を勧め、ほどよいところで「ちょっと失礼!!」と消えたかと思うと、優雅な衣装にロングイヤリングで綺麗に着飾り再登場!!
ブランディーなどを片手に友人とにこやかに政治、文化、経済、趣味などなど、実に幅広い話題に対応し、ご主人を盛り上げていた。それが決して不自然で堅苦しくなく、居心地のよい時間と空間を自分自身も楽しんでいた。可愛い花などを飾ったテーブルセッティングの見事さ。音楽の心地よさ。美味しい料理を手際よく皆に勧める格好よさ。程よく回ったお酒の中で、私はただただその見事なホステスぶりに圧倒されていた。
このデンバーの友人も食事までは子供をみ、アイロンをかけ、片付けなどの家事を自然にこなしつつ我々を持て成し、あっという間に数種類の料理を準備した。ご主人とともに豊富な話題で楽しませてくれた彼女は「新しい家族の予定日は??」と笑いながらマリーに訊かれていたから、今はすでに3人の子供のママになっているはず、、、、。(ああ、子供じゃない。もう皆、結構いい歳だ、、、)これらのスーパーウーマン達は一様にご主人ともラブラブだった。
確かに私がめぐり会えたこれらの女性はかなり特別だったのかもしれない。しかし私は「上には上があるもんだ。凄~~い!!」と目から鱗がおちるような気がした。何時かは私も一歩でもいいから彼女達に近づきたいと自分の目標を高くした。これらの家事も育児も立派にこなしつつ仕事もバリバリこなす女性に会えて、私は底知れぬパワーを感じ、いい意味で大いに刺激された。後に、若いときにこんな素敵な女性たちに会えて本当に良かったと心から思い、改めて私に貴重な体験をさせてくれたすべての人々に感謝した。
オーブンで美味しい料理とデザートをつくりながら、大抵対面式キッチンで皆に気配りをし、作り置いたオードブルでお酒を勧め、ほどよいところで「ちょっと失礼!!」と消えたかと思うと、優雅な衣装にロングイヤリングで綺麗に着飾り再登場!!
ブランディーなどを片手に友人とにこやかに政治、文化、経済、趣味などなど、実に幅広い話題に対応し、ご主人を盛り上げていた。それが決して不自然で堅苦しくなく、居心地のよい時間と空間を自分自身も楽しんでいた。可愛い花などを飾ったテーブルセッティングの見事さ。音楽の心地よさ。美味しい料理を手際よく皆に勧める格好よさ。程よく回ったお酒の中で、私はただただその見事なホステスぶりに圧倒されていた。
このデンバーの友人も食事までは子供をみ、アイロンをかけ、片付けなどの家事を自然にこなしつつ我々を持て成し、あっという間に数種類の料理を準備した。ご主人とともに豊富な話題で楽しませてくれた彼女は「新しい家族の予定日は??」と笑いながらマリーに訊かれていたから、今はすでに3人の子供のママになっているはず、、、、。(ああ、子供じゃない。もう皆、結構いい歳だ、、、)これらのスーパーウーマン達は一様にご主人ともラブラブだった。
確かに私がめぐり会えたこれらの女性はかなり特別だったのかもしれない。しかし私は「上には上があるもんだ。凄~~い!!」と目から鱗がおちるような気がした。何時かは私も一歩でもいいから彼女達に近づきたいと自分の目標を高くした。これらの家事も育児も立派にこなしつつ仕事もバリバリこなす女性に会えて、私は底知れぬパワーを感じ、いい意味で大いに刺激された。後に、若いときにこんな素敵な女性たちに会えて本当に良かったと心から思い、改めて私に貴重な体験をさせてくれたすべての人々に感謝した。
2008年9月14日日曜日
アメリカ一人旅(西海岸)
一人旅なら安くて便利で安全なバス旅行を!!と当時色々な人から勧められていた。グレイラインとコンチネンタルトレールウエイという二社の中で、私は後者のコンチネンタルを選んだ。確か3ヶ月以内、どこから乗って、何処でおりても乗り放題99ドルという、超お得な運賃だった。約3週間の予定でデンバーを出発。ソルトレイクシティー、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ラスベガスを回って又デンバーに戻る旅だった。このブログは観光旅行案内ではないし、景色もおなじみのところばかりなので詳細は省くが、この時私は限られたお金で安全に旅するために、いくつか工夫した。
1.ホテル代を節約し、かつ目的地到着後、安全に宿泊ホテルに入るため、移動は必ず夜行バスを使い到着時は朝。日の高いときなら女性一人でも安全だろうと考えたから。
2.ホテルに泊まる場合はシングルウィズアウトバス、つまりお風呂なし。大抵中級のホテルには各階に3部屋ぐらいこのタイプがあって、共同風呂は各階の突き当たりにあり、清潔でがらがら。好きな時に入れて値段はお風呂付のシングルの半分以下。確か当時一泊5ドル以下だったと思う。
3.食事はなるべく手作り。しかし、目的地到着の最初の日はファミレスでハンバーガーなどを食べる。(ファミレスは子供づれの家族客が多く、道や観光地の情報あつめには安全かつ最適)
以上、いろいろ考えてから出発したが、実際にこの中でホテルに泊まったのはサンフランシスコとラスベガスのみ。最初の目的地、ユタ州のソルトレークシティはモルモン教の聖地。山に囲まれた綺麗な景色は後のソルトレークシティ冬季オリンピックでお馴染みであろう。私はとりあえずYMCAに宿をとり、荷物を置いて早速予定どおりファミレスへ。地図を片手にある家族連れに近づき、「すみませんが、ソルトレークへの一番簡単な行き方を教えてください!」と尋ねてみた。しかし話し始めるやいなやこの家族は一人旅をしている私?というより日本に興味津々。あれこれ私のことを尋ねた挙句、、、、
「ソルトレークには私たちが案内してあげるから、ホテルなんか引き払って明日から我が家に泊まりなさい!子供に異文化を教えるいいチャンス。我が家は子供が14人もいるから、貴女ひとりぐらい増えたってどうってことないから、、、、。」とさっそくあり難いオファー。モルモン教のご家庭にも興味があったし、翌朝約束どおり迎えに来てくれた車でお宅にお邪魔した。
家族総勢16人プラス私の食事風景は圧巻だった。外で遊んでいる子供たちに食事の時間を伝えるのに、大きなハンドベルを鳴らして集める、のどかな風景がいまでも忘れられない。食事前に床に跪いてお祈りしてから食べ始める風習を知らず、ここでも一人先に食べ始めそうになって、慌てて跪いた。危ない危ない!又恥をかくところだった。ここでは5泊も泊めていただいた。本当に教授の仰ったとおり、いい人ばかりに巡りあえ、お節介は日本人だけではないことを身を持って悟った。
名残惜しいソルトレイクシティを後にして、次のサンフランシスコに向かった。ここではバス停の側の安宿に泊まった。勿論風呂なしだがベッドが清潔なら問題なし。この旅は、度胸よく、すべてホテルは行き当たりばったり。予約なしのぶらり旅だった。憧れのゴールデンブリッジも素敵だったが、花より団子。サンフランシスコのおいしい海鮮料理が強く印象に残った。午後からは霧に包まれることが多い町で、夏だというのにショールでもしないとうっすら肌寒かった。ここには3泊した。
ロスではマリーの友人のマンションに泊まった。マリーが連絡して置いてくれたのだ。ビバリーヒルズの高級住宅地にあるマンションの一階。中庭のプールに面した部屋で、多分凄いマンションなんだろうけど、ほとんど家具のないガランとした、やたら広いマンションだった記憶がある。その友人も独身でまだ若く、私に10日以上も一室を提供してくれて本当にあり難かった。ロスではもう自分で住所をたよりにそのマンションに行けるほど、英語にもかなり自信が生まれ、度胸もついていた。私の弱虫はオハイオ州の失神、コロラド州のキョロキョロという破廉恥経験でかなり強虫に成長していた。マリーの友人は到着の挨拶もそこそこに、「なんでも自由に使って!!」と鍵をくれ、本当に見事な程全く無干渉。彼女は彼女。私は私。最後の晩までほとんどすれ違いの毎日だった。
私は、ロスの市内バスであちこち遊びまわり、スーパーで買い物をした。最初のロス旅行は、東京とあんまりかわらないところだな~~~という印象しかない。この時は資金を節約するため、高い入場料がかかるような観光名所は避け、ただひたすら普通のアメリカ生活を普通に出来るように自分を訓練する目的で市内バスを乗り回していたから。その後何度かロスに足を運び、面白いところもたくさん発見し、ちょっと印象も変わったが、、、、。
次に訪れたラスベガスはほとんど記憶がない。懐が寒いのでひたすら町を歩いたのみだが、砂漠の中のこの町は、ただただ物凄い暑さで道からゆらゆらと陽炎が立ち昇り、くらくらするような日日だったと記憶している。後にウエスタン航空(今は潰れた)の招待で、2度目に訪れた時には39度5分という高熱を発してダウンしてしまい、ホテルの部屋の記憶のみ。地球人と夫と3度目に訪れた時、初めて連日シルクドソレイユなどの凄いショーを見たり、ちょっとギャンブルもしたり、レンタカーでグランドキャニオンにも足を伸ばしたりして、ようやくラスベガスもちょっといいなと思ったが、それはず~~っと後のこと。それまでのラスベガスは散々な記憶ばかりだった。
又デンバーに戻ったら、オハイオ経由でニュージャージーに戻り、そこから又少し一人旅をして、そのまま日本に帰国予定の私はその旅費も残しておかなくちゃと、大抵食事はおにぎり持参で、移動のバスの中でもよく食べた。当時のアメリカは日本食はまだあまりポピュラーじゃなかったので、黒いのりでグルグル巻にされたおにぎりは小さな爆弾みたいで、子供たちは変なものを食べている私を気味悪そうにみていた。一人旅は順調に日を重ね、ラスベガスから又デンバーへとバスを乗り継いで戻った。わずか3週間しか離れていなかったのに、なんだかマリーや甥姪たちが、とっても恋しかった。
1.ホテル代を節約し、かつ目的地到着後、安全に宿泊ホテルに入るため、移動は必ず夜行バスを使い到着時は朝。日の高いときなら女性一人でも安全だろうと考えたから。
2.ホテルに泊まる場合はシングルウィズアウトバス、つまりお風呂なし。大抵中級のホテルには各階に3部屋ぐらいこのタイプがあって、共同風呂は各階の突き当たりにあり、清潔でがらがら。好きな時に入れて値段はお風呂付のシングルの半分以下。確か当時一泊5ドル以下だったと思う。
3.食事はなるべく手作り。しかし、目的地到着の最初の日はファミレスでハンバーガーなどを食べる。(ファミレスは子供づれの家族客が多く、道や観光地の情報あつめには安全かつ最適)
以上、いろいろ考えてから出発したが、実際にこの中でホテルに泊まったのはサンフランシスコとラスベガスのみ。最初の目的地、ユタ州のソルトレークシティはモルモン教の聖地。山に囲まれた綺麗な景色は後のソルトレークシティ冬季オリンピックでお馴染みであろう。私はとりあえずYMCAに宿をとり、荷物を置いて早速予定どおりファミレスへ。地図を片手にある家族連れに近づき、「すみませんが、ソルトレークへの一番簡単な行き方を教えてください!」と尋ねてみた。しかし話し始めるやいなやこの家族は一人旅をしている私?というより日本に興味津々。あれこれ私のことを尋ねた挙句、、、、
「ソルトレークには私たちが案内してあげるから、ホテルなんか引き払って明日から我が家に泊まりなさい!子供に異文化を教えるいいチャンス。我が家は子供が14人もいるから、貴女ひとりぐらい増えたってどうってことないから、、、、。」とさっそくあり難いオファー。モルモン教のご家庭にも興味があったし、翌朝約束どおり迎えに来てくれた車でお宅にお邪魔した。
家族総勢16人プラス私の食事風景は圧巻だった。外で遊んでいる子供たちに食事の時間を伝えるのに、大きなハンドベルを鳴らして集める、のどかな風景がいまでも忘れられない。食事前に床に跪いてお祈りしてから食べ始める風習を知らず、ここでも一人先に食べ始めそうになって、慌てて跪いた。危ない危ない!又恥をかくところだった。ここでは5泊も泊めていただいた。本当に教授の仰ったとおり、いい人ばかりに巡りあえ、お節介は日本人だけではないことを身を持って悟った。
名残惜しいソルトレイクシティを後にして、次のサンフランシスコに向かった。ここではバス停の側の安宿に泊まった。勿論風呂なしだがベッドが清潔なら問題なし。この旅は、度胸よく、すべてホテルは行き当たりばったり。予約なしのぶらり旅だった。憧れのゴールデンブリッジも素敵だったが、花より団子。サンフランシスコのおいしい海鮮料理が強く印象に残った。午後からは霧に包まれることが多い町で、夏だというのにショールでもしないとうっすら肌寒かった。ここには3泊した。
ロスではマリーの友人のマンションに泊まった。マリーが連絡して置いてくれたのだ。ビバリーヒルズの高級住宅地にあるマンションの一階。中庭のプールに面した部屋で、多分凄いマンションなんだろうけど、ほとんど家具のないガランとした、やたら広いマンションだった記憶がある。その友人も独身でまだ若く、私に10日以上も一室を提供してくれて本当にあり難かった。ロスではもう自分で住所をたよりにそのマンションに行けるほど、英語にもかなり自信が生まれ、度胸もついていた。私の弱虫はオハイオ州の失神、コロラド州のキョロキョロという破廉恥経験でかなり強虫に成長していた。マリーの友人は到着の挨拶もそこそこに、「なんでも自由に使って!!」と鍵をくれ、本当に見事な程全く無干渉。彼女は彼女。私は私。最後の晩までほとんどすれ違いの毎日だった。
私は、ロスの市内バスであちこち遊びまわり、スーパーで買い物をした。最初のロス旅行は、東京とあんまりかわらないところだな~~~という印象しかない。この時は資金を節約するため、高い入場料がかかるような観光名所は避け、ただひたすら普通のアメリカ生活を普通に出来るように自分を訓練する目的で市内バスを乗り回していたから。その後何度かロスに足を運び、面白いところもたくさん発見し、ちょっと印象も変わったが、、、、。
次に訪れたラスベガスはほとんど記憶がない。懐が寒いのでひたすら町を歩いたのみだが、砂漠の中のこの町は、ただただ物凄い暑さで道からゆらゆらと陽炎が立ち昇り、くらくらするような日日だったと記憶している。後にウエスタン航空(今は潰れた)の招待で、2度目に訪れた時には39度5分という高熱を発してダウンしてしまい、ホテルの部屋の記憶のみ。地球人と夫と3度目に訪れた時、初めて連日シルクドソレイユなどの凄いショーを見たり、ちょっとギャンブルもしたり、レンタカーでグランドキャニオンにも足を伸ばしたりして、ようやくラスベガスもちょっといいなと思ったが、それはず~~っと後のこと。それまでのラスベガスは散々な記憶ばかりだった。
又デンバーに戻ったら、オハイオ経由でニュージャージーに戻り、そこから又少し一人旅をして、そのまま日本に帰国予定の私はその旅費も残しておかなくちゃと、大抵食事はおにぎり持参で、移動のバスの中でもよく食べた。当時のアメリカは日本食はまだあまりポピュラーじゃなかったので、黒いのりでグルグル巻にされたおにぎりは小さな爆弾みたいで、子供たちは変なものを食べている私を気味悪そうにみていた。一人旅は順調に日を重ね、ラスベガスから又デンバーへとバスを乗り継いで戻った。わずか3週間しか離れていなかったのに、なんだかマリーや甥姪たちが、とっても恋しかった。
2008年9月12日金曜日
忘れられない体験
いよいよデンバーに入り、最終目的地ペンシルバニア山が近づいてきた。皆さんご存知のとおり、コロラド州デンバーはすでに山の中腹にある標高の高い風光明媚な都市。「コロラドの月」の歌からも分かるとおり夜景の綺麗な観光地として有名だ。
そこから又一時間ぐらい山の中に入ったところが我々の最終目的地だった。「綺麗だろうなあ~!」とぼんやり想像していた。「さあ、着いた!!」という声がしたその目的地は、驚くほどだだっ広いところ。「エッ!これ、まだ途中じゃないの?」と正直思った。予想していた風光明媚な別荘地とはえらい違い。シ~~~ンとして、かすかに風の音だけ。ところどころにまばらに林が点在し小さな水の流れがあるだけの何の変哲も無い空き地。勿論付近に家など一軒もない。そこにマリーはにこにこして、車を止めた。マリーはこの付近の地質調査の為、昼は出かける。私も助手というか、おつきでお伴する。
この夜からの生活は私が生涯忘れられぬ体験となった。いよいよキャンピングカーの中の生活がはじまった。一週間に一度、水タンクの交換と乾燥食品や缶詰の補給かたがたコインランドリーに行く為デンバーにおりる以外はすべての生活をこのキャンピングカー中心に行うのだ。マリーはこのキャンプ生活を始めるに当って以下の注意事項を話し始めた。
1.水は大切に飲むように。
2.週に一度コインランドリーにいくから、洗濯ものはそのときに。
3.保存食以外の食料は魚。湖と河に釣りにゆき、自給自足をする。
4.汲み取りに来ないから、キャンピングカー内のトイレは使用禁止。
5.電気を節約する為、早寝早起き!!
以上!!と。
「ねえ!!頭じゃわかるけど、どうするの??特に3.と4.。まあ3.は少し面白そうだけど4.は??」早速マリーに質問!!「トイレはどうするの??」と、、、。バッカジャナイというような顔をして、当然のごとく、「外で適当に穴を掘り、したあとは埋めること!!」とノタマッタ。ガクゼン!!しかし、問答無用!!ここじゃマリーは皇帝だ。 私はまず、甥、姪の様子を観察することにした。さすがにマリーのを覗いちゃ失礼だから、、、。
なんと、スコップの先にトイレットペーバーの芯の部分を挿し、(このスコップにはハンドルがなく、まっすぐな棒だった)。肩に担いで林の中に消えて行く。しばらくするとスッキリしたような顔をして、スコップを担ぎ、戻ってくる。「エッ!!私もあれをやるの!!エ~~~~~ッ、いやだ~~~!!」と思ったが仕方がない。出物腫れ物ところ嫌わず!!我慢に我慢を重ねても限界がある。それにこれからは毎日のこと。これもまた、「勇気を出して第一歩!!」ところが我慢しすぎて、かなり暗くなってからの最初の一歩!!「ねえ、皆!怖いなんてもんじゃないよ~~!!」
甥姪に習ってスコップにトイレットペーバーを挿し、左肩に担ぎ、右手に懐中電灯。そのあかりでドロボウみたいにキョロキョロキョロキョロと周りを見回し、そろそろと進んでいく私の姿を想像してみて!!ホントバカみたい!!でも又それからが大変!!
箸より重いものを持ったことがないこの私が(ちょっとオーバーか!!)スコップで穴を掘って自分のトイレをつくるなんて!!第一どれぐらい掘っていいのかわからない。変なところが生真面目な私。どうでもいいことに拘る。そのあとは皆様のご想像にお任せするが、とにかくあられもない姿でキョロキョロキョロキョロ!!荒野だから、狼が!熊が!蛇は!!など、考えれば考えるほどオチオチゆっくりナニをしていられない。暗闇で木々が風にザワザワ、ザワザワ!!ガサッ!!とでも言おうものなら、心臓が凍りつきそうにドキッとした。この晩、夜の帳の恐怖の中で私は以下のことを学んだ。
1.夜のトイレを避けるため、午後4時以降の水分は控える。
2.なるべく小食を心がけ、暴食はしない。
3.トイレは昼間にすべてすませ、夜は早く寝る。
近くの風光明媚な湖での虹鱒釣り、跳ねる毛ばりに魚がジャンプして食い付く河釣り。本当に本当に楽しかった。そして楽しいだけでなく、かなり日本食が恋しくなっていた私にとって、塩を振って焼いただけのそれらの魚は凄いご馳走に思えた。こうして貴重な体験を重ねつつ、約一ヶ月位のキャンプ生活は何もかもが驚きの連続のうちに過ぎていった。私の英会話もかなりスムーズになってきて、マリーから独立し、そろそろ一人で次の旅立ちを迎える日が近づいていた。
そこから又一時間ぐらい山の中に入ったところが我々の最終目的地だった。「綺麗だろうなあ~!」とぼんやり想像していた。「さあ、着いた!!」という声がしたその目的地は、驚くほどだだっ広いところ。「エッ!これ、まだ途中じゃないの?」と正直思った。予想していた風光明媚な別荘地とはえらい違い。シ~~~ンとして、かすかに風の音だけ。ところどころにまばらに林が点在し小さな水の流れがあるだけの何の変哲も無い空き地。勿論付近に家など一軒もない。そこにマリーはにこにこして、車を止めた。マリーはこの付近の地質調査の為、昼は出かける。私も助手というか、おつきでお伴する。
この夜からの生活は私が生涯忘れられぬ体験となった。いよいよキャンピングカーの中の生活がはじまった。一週間に一度、水タンクの交換と乾燥食品や缶詰の補給かたがたコインランドリーに行く為デンバーにおりる以外はすべての生活をこのキャンピングカー中心に行うのだ。マリーはこのキャンプ生活を始めるに当って以下の注意事項を話し始めた。
1.水は大切に飲むように。
2.週に一度コインランドリーにいくから、洗濯ものはそのときに。
3.保存食以外の食料は魚。湖と河に釣りにゆき、自給自足をする。
4.汲み取りに来ないから、キャンピングカー内のトイレは使用禁止。
5.電気を節約する為、早寝早起き!!
以上!!と。
「ねえ!!頭じゃわかるけど、どうするの??特に3.と4.。まあ3.は少し面白そうだけど4.は??」早速マリーに質問!!「トイレはどうするの??」と、、、。バッカジャナイというような顔をして、当然のごとく、「外で適当に穴を掘り、したあとは埋めること!!」とノタマッタ。ガクゼン!!しかし、問答無用!!ここじゃマリーは皇帝だ。 私はまず、甥、姪の様子を観察することにした。さすがにマリーのを覗いちゃ失礼だから、、、。
なんと、スコップの先にトイレットペーバーの芯の部分を挿し、(このスコップにはハンドルがなく、まっすぐな棒だった)。肩に担いで林の中に消えて行く。しばらくするとスッキリしたような顔をして、スコップを担ぎ、戻ってくる。「エッ!!私もあれをやるの!!エ~~~~~ッ、いやだ~~~!!」と思ったが仕方がない。出物腫れ物ところ嫌わず!!我慢に我慢を重ねても限界がある。それにこれからは毎日のこと。これもまた、「勇気を出して第一歩!!」ところが我慢しすぎて、かなり暗くなってからの最初の一歩!!「ねえ、皆!怖いなんてもんじゃないよ~~!!」
甥姪に習ってスコップにトイレットペーバーを挿し、左肩に担ぎ、右手に懐中電灯。そのあかりでドロボウみたいにキョロキョロキョロキョロと周りを見回し、そろそろと進んでいく私の姿を想像してみて!!ホントバカみたい!!でも又それからが大変!!
箸より重いものを持ったことがないこの私が(ちょっとオーバーか!!)スコップで穴を掘って自分のトイレをつくるなんて!!第一どれぐらい掘っていいのかわからない。変なところが生真面目な私。どうでもいいことに拘る。そのあとは皆様のご想像にお任せするが、とにかくあられもない姿でキョロキョロキョロキョロ!!荒野だから、狼が!熊が!蛇は!!など、考えれば考えるほどオチオチゆっくりナニをしていられない。暗闇で木々が風にザワザワ、ザワザワ!!ガサッ!!とでも言おうものなら、心臓が凍りつきそうにドキッとした。この晩、夜の帳の恐怖の中で私は以下のことを学んだ。
1.夜のトイレを避けるため、午後4時以降の水分は控える。
2.なるべく小食を心がけ、暴食はしない。
3.トイレは昼間にすべてすませ、夜は早く寝る。
近くの風光明媚な湖での虹鱒釣り、跳ねる毛ばりに魚がジャンプして食い付く河釣り。本当に本当に楽しかった。そして楽しいだけでなく、かなり日本食が恋しくなっていた私にとって、塩を振って焼いただけのそれらの魚は凄いご馳走に思えた。こうして貴重な体験を重ねつつ、約一ヶ月位のキャンプ生活は何もかもが驚きの連続のうちに過ぎていった。私の英会話もかなりスムーズになってきて、マリーから独立し、そろそろ一人で次の旅立ちを迎える日が近づいていた。
2008年9月11日木曜日
さあ、風光明媚なコロラドへ!!
コロラド州まで確か3日ぐらいかかった。のんびりと途中2泊しながら旅を続けた。別に急ぐ必要は誰にもなかった。今思えば、マリー一人でキャンピングカーを引いて、遠いデンバーまで。本当にさぞ疲れたことだろう。キャンピングカーは、ベッド3つ。キッチン、ダイニングテーブル、洋服ダンス完備の豪華なものだった。初めてキャンピングカーの中を見た私はその豪華さに度肝を抜かれた。「アメリカって凄い!」と変なところで感心した。
マリーの車はワゴンカー。彼女のとなりの席は勿論Brandyの指定席。私は甥、姪と後ろに座り、デンバーまでは途中モーテルに泊まりながら行った。マリーが疲れると、適当なところで適当なモーテルを捜して泊まったので、何処に泊まったのかすらわからない。
途中、家が全く見えず、行けども行けども広大な土地ばかりが続くとウンザリしながら、「ああ、アメリカは本当に広いんだ!!」と実感が湧いた。
甥や姪との何気ない会話は、私の話す前の抵抗感をドンドンなくしていった。気がつくと、自然に英語が出始めていた。小さな田舎町の滞在で、英語でしか話せない絶対絶命の環境が間違いなくプラスに作用していた。
当然のことながら、この幼い甥と姪は日本語に興味をもった。まもなく日本を訪れる予定のマリーも簡単な日本語を習いたがった。そこで、自然に交換授業が始まった。結果は、、、、??
勿論、言うまでもなく、マリーより甥や姪の方が圧倒的に早く日本語を覚えた。発音もかなり正確にオウム返しができた。以前からすでに、子供のリズム感のよさ、言葉の反射の速さ、発音の正確さなどに注目していた私は、ここでも自分の子供時代の取り返しがつかない失った時間を残念に思った。そして、自分の子供には、必ず早くから語学訓練を始めようと、密かに思った。日本語と英語でワアワア言いながら、車は一路、コロラド州デンバーへと向かって行った。
マリーの車はワゴンカー。彼女のとなりの席は勿論Brandyの指定席。私は甥、姪と後ろに座り、デンバーまでは途中モーテルに泊まりながら行った。マリーが疲れると、適当なところで適当なモーテルを捜して泊まったので、何処に泊まったのかすらわからない。
途中、家が全く見えず、行けども行けども広大な土地ばかりが続くとウンザリしながら、「ああ、アメリカは本当に広いんだ!!」と実感が湧いた。
甥や姪との何気ない会話は、私の話す前の抵抗感をドンドンなくしていった。気がつくと、自然に英語が出始めていた。小さな田舎町の滞在で、英語でしか話せない絶対絶命の環境が間違いなくプラスに作用していた。
当然のことながら、この幼い甥と姪は日本語に興味をもった。まもなく日本を訪れる予定のマリーも簡単な日本語を習いたがった。そこで、自然に交換授業が始まった。結果は、、、、??
勿論、言うまでもなく、マリーより甥や姪の方が圧倒的に早く日本語を覚えた。発音もかなり正確にオウム返しができた。以前からすでに、子供のリズム感のよさ、言葉の反射の速さ、発音の正確さなどに注目していた私は、ここでも自分の子供時代の取り返しがつかない失った時間を残念に思った。そして、自分の子供には、必ず早くから語学訓練を始めようと、密かに思った。日本語と英語でワアワア言いながら、車は一路、コロラド州デンバーへと向かって行った。
2008年9月9日火曜日
イザ出陣!!
「神様はきっとすべてわかって私をどん底に突き落としたんだ!!」と思えるほど、無様な失敗後、私は吹っ切れて一皮むけた。「復活~~!!」なんだか、私の体の隅々まで、エネルギーが行き渡り、猛然とやる気になった。「こんなウジウジと馬鹿なことしてられるか!!」と心の中で肝っ玉母さん譲りの威勢のいい啖呵をきった。(やる気になったのは、単に失神?又は爆睡?で疲れがとれたからだけかもしれないが、、、、、)いずれにしてもともかく、私は危機一髪で、本来の「めげない、諦めない、何とかするまで粘る」という、ちょっぴりよいところを取り戻した。
やる気になった私は、まず次の日、溜まった洗濯物をイッキに洗った。それから、大学の事務局で今やっている講義の日程表をうけとり、聴講したい科目を選んだ。めぼしいものがなく(どれもわからないから)とりあえず、次々に回ってみることにした。私は英語を生で聴くチャンスがほしいだけ。講義を理解するなんて、夢の又夢。でもとにかく、やってみようと次の日からマリーとBrandyのお伴をしてせっせと大学へ通った。
しかし、私の大学での時間のほとんどは、マリーの研究室で学生達とBrandyを交えて遊びながら過ごす事が多かった。なぜなら、講義は予想どおり、難しすぎて速すぎて聞き取れない。そのまま、アメリカに残って留学するなら粘れたかもしれないが、私の目的はあくまでも、英会話力を向上させ、次の就職に繋げること。マリーの研究室で学生相手に話している方がよほどプラクティカルで効果的だった。
この田舎町での生活は元々、マリーが夏休みを迎えるまでというプランになっていた。彼女は夏休みはほとんど毎年、地質学の研究も兼ね、コロラド州デンバーの郊外にある、ペンシルバニア山で過ごしていて、この年もその予定だった。ちなみに、当時彼女はこの山の頂上付近に広い土地をもっていて、そこにキャンピングカーを置き、地質学の研究をしながら夏を過ごしていた。その年は彼女の甥と姪(当時10歳ぐらい)、私と勿論愛犬Brandy、4人と一匹の旅を予定していた。
吹っ切れた私は、「日本語がたどたどしいなら、日本人として恥かもしれない。でもここはアメリカなんだ!!外国人の私が英語がたどたどしくたって、恥ずかしがる必要はない!!」と変に居直った。もう、迷わず学生のサークルに飛び込んでいったり、マリーの友人がほぼ毎週末私の歓迎会と称してお宅で開いてくれたパーティにも勇躍参加した。マリーの人気のお陰で、ほぼ毎週末、色々な教授のお宅にお邪魔してたくさんのことを学んだ。(多分すでに皆さん映画館での武勇伝(?)をご存知で慰めと励ましのエールを送ってくれてたんだと思うけど、、)。又、町のクリーニング屋さんでとても親切な老夫婦とも知り合い、あちこちに連れて行ってもらった。私は毎日積極的に行動を開始し、どこに出かける時も「いざ!!出陣!!」と心の中で自分に喝を入れた。段々色々な人とのお喋りが苦痛ではなくなっていった。
おかしなもので、精神的に落ち着いてくると、段々英語に慣れてきた。依然としてほとんど聴き取れず、ゆっくり話すよう頼んだり、繰り返してもらったりしたが、段々会話の繋がりがスムーズになり、自分でもなんだか、余裕が出てきた。日常会話の語彙ぐらいなら、なんとかなりそうな気持ちになってきた頃、マリーの大学の講義も終わり、甥と姪も合流し、次なる目的地、コロラド州デンバーに向けて4人と一匹で出発する日が近づいてきた。まさに真夏を迎えた暑い日のことだった。
やる気になった私は、まず次の日、溜まった洗濯物をイッキに洗った。それから、大学の事務局で今やっている講義の日程表をうけとり、聴講したい科目を選んだ。めぼしいものがなく(どれもわからないから)とりあえず、次々に回ってみることにした。私は英語を生で聴くチャンスがほしいだけ。講義を理解するなんて、夢の又夢。でもとにかく、やってみようと次の日からマリーとBrandyのお伴をしてせっせと大学へ通った。
しかし、私の大学での時間のほとんどは、マリーの研究室で学生達とBrandyを交えて遊びながら過ごす事が多かった。なぜなら、講義は予想どおり、難しすぎて速すぎて聞き取れない。そのまま、アメリカに残って留学するなら粘れたかもしれないが、私の目的はあくまでも、英会話力を向上させ、次の就職に繋げること。マリーの研究室で学生相手に話している方がよほどプラクティカルで効果的だった。
この田舎町での生活は元々、マリーが夏休みを迎えるまでというプランになっていた。彼女は夏休みはほとんど毎年、地質学の研究も兼ね、コロラド州デンバーの郊外にある、ペンシルバニア山で過ごしていて、この年もその予定だった。ちなみに、当時彼女はこの山の頂上付近に広い土地をもっていて、そこにキャンピングカーを置き、地質学の研究をしながら夏を過ごしていた。その年は彼女の甥と姪(当時10歳ぐらい)、私と勿論愛犬Brandy、4人と一匹の旅を予定していた。
吹っ切れた私は、「日本語がたどたどしいなら、日本人として恥かもしれない。でもここはアメリカなんだ!!外国人の私が英語がたどたどしくたって、恥ずかしがる必要はない!!」と変に居直った。もう、迷わず学生のサークルに飛び込んでいったり、マリーの友人がほぼ毎週末私の歓迎会と称してお宅で開いてくれたパーティにも勇躍参加した。マリーの人気のお陰で、ほぼ毎週末、色々な教授のお宅にお邪魔してたくさんのことを学んだ。(多分すでに皆さん映画館での武勇伝(?)をご存知で慰めと励ましのエールを送ってくれてたんだと思うけど、、)。又、町のクリーニング屋さんでとても親切な老夫婦とも知り合い、あちこちに連れて行ってもらった。私は毎日積極的に行動を開始し、どこに出かける時も「いざ!!出陣!!」と心の中で自分に喝を入れた。段々色々な人とのお喋りが苦痛ではなくなっていった。
おかしなもので、精神的に落ち着いてくると、段々英語に慣れてきた。依然としてほとんど聴き取れず、ゆっくり話すよう頼んだり、繰り返してもらったりしたが、段々会話の繋がりがスムーズになり、自分でもなんだか、余裕が出てきた。日常会話の語彙ぐらいなら、なんとかなりそうな気持ちになってきた頃、マリーの大学の講義も終わり、甥と姪も合流し、次なる目的地、コロラド州デンバーに向けて4人と一匹で出発する日が近づいてきた。まさに真夏を迎えた暑い日のことだった。
2008年9月7日日曜日
あられもない失敗、トホホ、、、
まだ、大学の聴講も始めず、家に閉じこもってばかりいる私を案じて、マリーがこの田舎町に居る数少ない日本人の青年のひとりに、私を週末に映画に誘ってくれるよう頼んでくれた。(私の周りには物心ついてから本当に面倒見がいいというかお節介な人が多く、だから今でも私はお節介なんだあ、、、、ーーこれは独り言)すでに切符も用意されており、我々は映画館に入った。アメリカで見る初めての映画だ。
丁度、アメリカ到着後、一週間が経過していた。この夜、私は映画の画面に見入っていた。あるはずもない字幕をちらちらと捜しながら、、、。まるで無声映画を見ているようだった。東京の映画館とくらべたら、この田舎町の映画館は座席数も少なく、場末の小屋のような印象を受け、へ~~!!こういうところなんだ、、、と変にがっかりした。ラスベガスやハリウッドの華やかなイメージで映画の国アメリカを捉えていただけに、落差が大きかった。
映画が始まってそれ程時間は経っていなかった??と思う。私の意識は突然スッと完全に消えた。何の前触れもなく、、、。貧血だ!!(多分、、)中学、高校時代に3回入院をしたことはすでに触れたが、その中の一回は貧血だった。姉も私も貧血だったから、体質遺伝かもしれない。高校当時、一ヶ月ぐらい入院して、ほとんど治ったはずの貧血が、、、、。こんな大事な場面でいきなり、、、、、。でも、そんなこと言ったって本人の意識は麻酔を嗅いだあとのように、いきなりスッと消えちゃって、何が起こったのか全くわからないんだからどうしようもない。
驚いたのはその彼と、まわりの人たちだっただろう。ザワザワと聞こえる声にぼんやり眼を開けた私は、変な部屋に寝かされている自分に一瞬???、、何がおこっているのかわけがわからなかった。そこは映画館のスタッフ室の一角だということをかなりしてから理解した。後から冷静に思い起こすと、救急車が来ていなかったから、貧血ではなく、高鼾をかいて爆睡??よだれでもたらして??映画なんかにきたことが恨めしく情けないと後悔したが、後の祭りだった。
でも今でも「もし爆睡だったら、絶対スタッフの部屋に運び込まれるまでに眼がさめているはず。だから、貧血だ!貧血!!」とどうでもいいことに拘っている。「でも、でも私には病気の貧血でぶっ倒れたのと、いぎたなくよだれをたらして爆睡していたのでは、プライドの傷つき方の深さが違うんだ~~~!!」
でもアメリカ到着前からすでに一週間以上ほとんど満足に眠っていなかった私。「爆睡もあり得るかも」とあとで、ゾ~~~ッとした。
でもでも皆さん、想像して!!始めてアメリカで故郷日本の青年に格好よく(?)エスコートされて映画を見に行ったのよ。ワンピースでお洒落して。その映画館の中で失神??公衆の面前を(?)スタッフ室まで運ばれていったのよ。どんなあられもない姿だったんだろう!!「きゃ~~~!!ズボンでいきゃあよかった!!」と思ってももう遅い。でも自分のそんな無様な姿と、周りの人々の慌てふためいた様子を勝手に想像すると、何だか笑える。
「鼾はかいてたのかな?よだれは??神様!!残酷すぎるよ~~!!今もし、万が一、その時の彼がこのブログを読んでいたら、(ありえないとおもうけど、、、)本当に本当にゴメンなさい!!」きっと「なんだこりゃあ??」と私を誘ったことを大いに後悔したことだろう。彼にも恥をかかせてしまった。日本女性のイメージをぶち壊して、、。「当時お世話になった皆さん!!ご迷惑をお掛けしました、、、」といってもまさかこのブログがオハイオ州の田舎にまで届くとは思えないが、、、、。
その時は恥ずかしさが先にたち、ろくにお礼もお詫びもできなかった。彼は当然二度と私を誘うことはなかった。人間の脳は自己保全の為、嫌な思い出はなるべく早く忘れるようにできているそうだ。従って、その彼の名前も映画のタイトルもいまではすべて思い出せない。ただその日は小さな決心をしてひきこもりからシャバに足を踏み出したとたん、この有様。ついに、ついに、気分は最悪の状態に陥った。しかし、もうこれ以上落ち込みようがないほどのどん底に落ち込んで、私の中で何かが変わった。
丁度、アメリカ到着後、一週間が経過していた。この夜、私は映画の画面に見入っていた。あるはずもない字幕をちらちらと捜しながら、、、。まるで無声映画を見ているようだった。東京の映画館とくらべたら、この田舎町の映画館は座席数も少なく、場末の小屋のような印象を受け、へ~~!!こういうところなんだ、、、と変にがっかりした。ラスベガスやハリウッドの華やかなイメージで映画の国アメリカを捉えていただけに、落差が大きかった。
映画が始まってそれ程時間は経っていなかった??と思う。私の意識は突然スッと完全に消えた。何の前触れもなく、、、。貧血だ!!(多分、、)中学、高校時代に3回入院をしたことはすでに触れたが、その中の一回は貧血だった。姉も私も貧血だったから、体質遺伝かもしれない。高校当時、一ヶ月ぐらい入院して、ほとんど治ったはずの貧血が、、、、。こんな大事な場面でいきなり、、、、、。でも、そんなこと言ったって本人の意識は麻酔を嗅いだあとのように、いきなりスッと消えちゃって、何が起こったのか全くわからないんだからどうしようもない。
驚いたのはその彼と、まわりの人たちだっただろう。ザワザワと聞こえる声にぼんやり眼を開けた私は、変な部屋に寝かされている自分に一瞬???、、何がおこっているのかわけがわからなかった。そこは映画館のスタッフ室の一角だということをかなりしてから理解した。後から冷静に思い起こすと、救急車が来ていなかったから、貧血ではなく、高鼾をかいて爆睡??よだれでもたらして??映画なんかにきたことが恨めしく情けないと後悔したが、後の祭りだった。
でも今でも「もし爆睡だったら、絶対スタッフの部屋に運び込まれるまでに眼がさめているはず。だから、貧血だ!貧血!!」とどうでもいいことに拘っている。「でも、でも私には病気の貧血でぶっ倒れたのと、いぎたなくよだれをたらして爆睡していたのでは、プライドの傷つき方の深さが違うんだ~~~!!」
でもアメリカ到着前からすでに一週間以上ほとんど満足に眠っていなかった私。「爆睡もあり得るかも」とあとで、ゾ~~~ッとした。
でもでも皆さん、想像して!!始めてアメリカで故郷日本の青年に格好よく(?)エスコートされて映画を見に行ったのよ。ワンピースでお洒落して。その映画館の中で失神??公衆の面前を(?)スタッフ室まで運ばれていったのよ。どんなあられもない姿だったんだろう!!「きゃ~~~!!ズボンでいきゃあよかった!!」と思ってももう遅い。でも自分のそんな無様な姿と、周りの人々の慌てふためいた様子を勝手に想像すると、何だか笑える。
「鼾はかいてたのかな?よだれは??神様!!残酷すぎるよ~~!!今もし、万が一、その時の彼がこのブログを読んでいたら、(ありえないとおもうけど、、、)本当に本当にゴメンなさい!!」きっと「なんだこりゃあ??」と私を誘ったことを大いに後悔したことだろう。彼にも恥をかかせてしまった。日本女性のイメージをぶち壊して、、。「当時お世話になった皆さん!!ご迷惑をお掛けしました、、、」といってもまさかこのブログがオハイオ州の田舎にまで届くとは思えないが、、、、。
その時は恥ずかしさが先にたち、ろくにお礼もお詫びもできなかった。彼は当然二度と私を誘うことはなかった。人間の脳は自己保全の為、嫌な思い出はなるべく早く忘れるようにできているそうだ。従って、その彼の名前も映画のタイトルもいまではすべて思い出せない。ただその日は小さな決心をしてひきこもりからシャバに足を踏み出したとたん、この有様。ついに、ついに、気分は最悪の状態に陥った。しかし、もうこれ以上落ち込みようがないほどのどん底に落ち込んで、私の中で何かが変わった。
2008年9月5日金曜日
引きこもり人間のはしり
アメリカ到着の最初の晩は本当に惨めな気分だった。あんなに夢みたアメリカなのに、、、、。時差ぼけと変な緊張と惨敗の気分の中で、この晩も一睡もできなかった。ひ弱な自分、根性のない自分、せん病質の自分に腹がたった。暗がりで部屋を見回しながら、「何やってんだろう?私はここで、、、、、」と疲れた頭でボ~~~ッと考えていた。ほとほと、自分に嫌気がさしていた。
次の日、食事もそこそこに私は部屋に逃げ帰り、ひっそりと自分を責め続けていた。「こんなことしてちゃダメだよ!!頑張らなきゃ!!」という声がする。しかし、とにかく、起き上がることさえ億劫なのだ。でも頭の中に色々な思いがグルグルと渦巻き、眠れはしない。
マリーのご両親は、私は明日の出発に向け、休養しているのだろうと、そっとしておいてくれた。
明日は、いよいよ、ニュージャージー州のトワコから、オハイオ州のイエロースプリングスという小さな田舎町まで、車でほぼ丸1日の強行軍だ。一人で運転し続けなければならないマリーも、早めに床についた。翌早朝、温かく持て成してくださったご両親に別れを告げて、車は一路オハイオ州にむかった。
つとめて明るく振舞いながらも私の顔は見るからに憔悴していた。当たり前だ!!もうかれこれ80時間ぐらい寝ていない。私の思考力はほぼゼロ。ただただ何を言っているんだかわからないラジオ放送が耳を通り抜けていった。だだっ広い何もない延々と続く高速道路。突然ポツン、ポツンと現れる町並み。最初はもの珍しかったアメリカのこんな風景もその繰り返しが多く飽きてきた。この日、我々は途中休み休み、強行軍をつづけた。私の無睡眠時間は加算されていった。
マリーには、愛人より大切な(?)愛犬がいた。Brandyというシェパードだった。確か当時5~6歳のオス。迎えてくれたのは、彼一人(?)。ジロリと私を見て、申し訳程度にゆっくりと尻尾をふった。主人思いのシェパードには、最初はあんまり歓迎せざる客人だったようだ。しかし、私は自慢じゃないが、犬には自信がある。心から犬好きだ。だから、Brandyにもすぐ伝わり、彼の気持ちもすぐに私を受け入れ、尻尾の振り方がせわしなくなった。彼は私のズタズタになった心を大いに癒してくれた。
マタマタ見知らぬ町に移動。新しい住い。時差ぼけも治らぬまま、この日の夜も眼はぱっちり。神経が異常に高ぶって、眠れないのだ。母は色々な薬を持たせてくれたが、睡眠薬だけは持たせてくれなかった。マリーはそんなものには縁がなさそうな健康そのものの地質学者。明るく豪快な人だった。
マリーにも私の異常に憔悴した姿は心配に映っていたに違いない。「エミー、私は今日、大学の講義があるからもう行かなくちゃ。でもエミー一人で大丈夫??あとで大学へ来て、今やっている講義の中から、聴講したいものがあったら、大学に許可を取ってあげるから、、、、」と提案してくれた。彼女の心遣いには大いに心が動いた。しかし、体の方が動かなかった。気づかれからくる疲労も限界に達していた。Brandyもいそいそと彼女のお伴をして去っていった。広い家に又、私一人になった。
でも、でも、でも、後から哲学のひとつとなって知ることだが、人間何もすることがなく、ただ時間だけがあって行動力がないというのは一番最悪のパターン。なんでもいいから自分で自分を忙しくすることが気分転換には一番で、探せば身の周りには仕事なんていくらでもあるのに、その時はそんな簡単な知恵すらまるでなかった。日本の家にいれば、三食保証。旅館という商売柄、掃除洗濯すべて他人任せ。忙しいときにときどき手伝う程度で、本当に生きることそのものが恵まれすぎていて、全くひ弱な私。暗澹とした気分で落ち込み続け、英語の雑誌の文字も眼から滑った。
そんな状態で不眠の日日が更に4-5日続いた。そして、ついに我が人生の恥多き失敗談の中でもベスト10の上位にランクされるであろう大きな失敗の日を迎えてしまうのだ。多分この小さな田舎町では、めったに起きないセンセーショナルな恥ずかしい出来事を、、、。
次の日、食事もそこそこに私は部屋に逃げ帰り、ひっそりと自分を責め続けていた。「こんなことしてちゃダメだよ!!頑張らなきゃ!!」という声がする。しかし、とにかく、起き上がることさえ億劫なのだ。でも頭の中に色々な思いがグルグルと渦巻き、眠れはしない。
マリーのご両親は、私は明日の出発に向け、休養しているのだろうと、そっとしておいてくれた。
明日は、いよいよ、ニュージャージー州のトワコから、オハイオ州のイエロースプリングスという小さな田舎町まで、車でほぼ丸1日の強行軍だ。一人で運転し続けなければならないマリーも、早めに床についた。翌早朝、温かく持て成してくださったご両親に別れを告げて、車は一路オハイオ州にむかった。
つとめて明るく振舞いながらも私の顔は見るからに憔悴していた。当たり前だ!!もうかれこれ80時間ぐらい寝ていない。私の思考力はほぼゼロ。ただただ何を言っているんだかわからないラジオ放送が耳を通り抜けていった。だだっ広い何もない延々と続く高速道路。突然ポツン、ポツンと現れる町並み。最初はもの珍しかったアメリカのこんな風景もその繰り返しが多く飽きてきた。この日、我々は途中休み休み、強行軍をつづけた。私の無睡眠時間は加算されていった。
マリーには、愛人より大切な(?)愛犬がいた。Brandyというシェパードだった。確か当時5~6歳のオス。迎えてくれたのは、彼一人(?)。ジロリと私を見て、申し訳程度にゆっくりと尻尾をふった。主人思いのシェパードには、最初はあんまり歓迎せざる客人だったようだ。しかし、私は自慢じゃないが、犬には自信がある。心から犬好きだ。だから、Brandyにもすぐ伝わり、彼の気持ちもすぐに私を受け入れ、尻尾の振り方がせわしなくなった。彼は私のズタズタになった心を大いに癒してくれた。
マタマタ見知らぬ町に移動。新しい住い。時差ぼけも治らぬまま、この日の夜も眼はぱっちり。神経が異常に高ぶって、眠れないのだ。母は色々な薬を持たせてくれたが、睡眠薬だけは持たせてくれなかった。マリーはそんなものには縁がなさそうな健康そのものの地質学者。明るく豪快な人だった。
マリーにも私の異常に憔悴した姿は心配に映っていたに違いない。「エミー、私は今日、大学の講義があるからもう行かなくちゃ。でもエミー一人で大丈夫??あとで大学へ来て、今やっている講義の中から、聴講したいものがあったら、大学に許可を取ってあげるから、、、、」と提案してくれた。彼女の心遣いには大いに心が動いた。しかし、体の方が動かなかった。気づかれからくる疲労も限界に達していた。Brandyもいそいそと彼女のお伴をして去っていった。広い家に又、私一人になった。
でも、でも、でも、後から哲学のひとつとなって知ることだが、人間何もすることがなく、ただ時間だけがあって行動力がないというのは一番最悪のパターン。なんでもいいから自分で自分を忙しくすることが気分転換には一番で、探せば身の周りには仕事なんていくらでもあるのに、その時はそんな簡単な知恵すらまるでなかった。日本の家にいれば、三食保証。旅館という商売柄、掃除洗濯すべて他人任せ。忙しいときにときどき手伝う程度で、本当に生きることそのものが恵まれすぎていて、全くひ弱な私。暗澹とした気分で落ち込み続け、英語の雑誌の文字も眼から滑った。
そんな状態で不眠の日日が更に4-5日続いた。そして、ついに我が人生の恥多き失敗談の中でもベスト10の上位にランクされるであろう大きな失敗の日を迎えてしまうのだ。多分この小さな田舎町では、めったに起きないセンセーショナルな恥ずかしい出来事を、、、。
2008年9月3日水曜日
悲しい現実、ガ~~ン!!
羽田空港から(当時は国際線もすべて羽田空港から)ホノルル、アンカレッジを経て、私の乗ったプロペラ飛行機はついにケネディ空港に向けて着陸態勢に入った。すでに家を出てから、25時間ぐらいが経過し、祖国日本は泣いても笑っても遙か遠くになっていた。喜びや期待より、心細さがイッキに込み上げて来た。前日から、緊張と興奮で、一睡もできなかった私は機中ではやけにハイになっていた。道連れとなった教授の知人の先生から色々と面白いお話を伺っているうちに、あっという間に着いた感があるが、ここからはその先生ともお別れ。
機体がじょじょに高度を下げ、雲が激しく後ろに流れ、いきなりパッと視界が開けた瞬間、、、確かに私はこの眼で見た!!写真でしか見たことがなかった憧れの自由の女神を!!トーチを高々と天空にかざし、海を見下ろすように立っている青銅の美しい姿を、、、、。アメリカだ!!間違いなくアメリカのニューヨークに着くんだ!!と、ようやく実感を持った。
教授に紹介されてから何度か文通はしていたがその女性の地質学者に会うのは始めてだった。同行の先生から紹介され、初対面の挨拶を交わした。彼女は「マリーと呼んでください」と気さくにいった。予想通りの親切そうな人だった。私は「エミーと呼んでください」と喜んで答えた。マリーはオハイオ州の大学での講義を休講にし、初旅の私の体調を思いやって、最初の二日はニューヨークのお隣、ニュージャージー州のトワコというところに住んでいるご両親の家に泊まり、小休止してから、オハイオ州に戻る計画を立ててくれていた。トワコまでは空港から1時間余で着くからと、車に案内しながら説明してくれた。旅は順調にスタートを切ったかに思えた。
マリーは車の運転に集中し、私が退屈しないようにラジオをつけてくれた。当たり前のことだが、窓から見える看板も道路標識も流れる放送もすべてが英語、英語、英語。それもラジオ放送は速くて速くて、ほとんどが聞き取れない。日本とは時差で昼と夜がま逆。変に高ぶる神経にうたたねすらできず、アメリカ到着の第一歩から、大きな不安に胸が一杯になり、暗澹とした気持ちになった。
迎えてくれたマリーのご両親は温かかった。一生懸命話してくれた。始めての晩餐はマリーのお母さんの心づくしの手料理だった。ステーキの茹でたポテトとコーン添え。バターでまぜて食べるアメリカの伝統的な家庭料理だった。ご両親は心から持て成してくださった。マリーも久しぶりの親子の対面に喜んでお喋りをしていた。
好きな時に言いたいことだけを喋るなら、学んだ語彙を組み合わせ、どうやら話しの仲間入りをすることができる。書くなら辞書を片手になんとかなる。今まではそれでよかった。しかし、今、普通のアメリカ人が普通の速度で好きな話題をぺらぺらと喋ることを理解し、ついて行くには、私の耳は悪すぎた。勿論語彙も少なすぎた。又、残念なことに、マリーのご両親はかなりのお歳で、前の歯が何本か抜けておられ、余計聞きとりにくかった。(多分私の問題で、ご両親には失礼な屁理屈だと思うけど、、、。)
焦れば焦るほど、私は益々聞き取れなくなっていった。そして、聞き取れない緊張感から、話す言葉も自信を失い、たどたどしく噛む様になっていった。正に最悪のパターンに陥った。アメリカ到着初日から、私のプライドはズタズタに引き裂かれ、ガ~~ンと脳天をハンマーで叩かれたようなショックを受けた。そして悲しい現実を前に、「この程度だったんだ、今の私の実力は!!」と大いに失望し、落ち込んだ。これからの長く続く日日を思い、「日本に逃げ帰りたい!!」と早くも私の心の中の弱虫が叫んだ。
機体がじょじょに高度を下げ、雲が激しく後ろに流れ、いきなりパッと視界が開けた瞬間、、、確かに私はこの眼で見た!!写真でしか見たことがなかった憧れの自由の女神を!!トーチを高々と天空にかざし、海を見下ろすように立っている青銅の美しい姿を、、、、。アメリカだ!!間違いなくアメリカのニューヨークに着くんだ!!と、ようやく実感を持った。
教授に紹介されてから何度か文通はしていたがその女性の地質学者に会うのは始めてだった。同行の先生から紹介され、初対面の挨拶を交わした。彼女は「マリーと呼んでください」と気さくにいった。予想通りの親切そうな人だった。私は「エミーと呼んでください」と喜んで答えた。マリーはオハイオ州の大学での講義を休講にし、初旅の私の体調を思いやって、最初の二日はニューヨークのお隣、ニュージャージー州のトワコというところに住んでいるご両親の家に泊まり、小休止してから、オハイオ州に戻る計画を立ててくれていた。トワコまでは空港から1時間余で着くからと、車に案内しながら説明してくれた。旅は順調にスタートを切ったかに思えた。
マリーは車の運転に集中し、私が退屈しないようにラジオをつけてくれた。当たり前のことだが、窓から見える看板も道路標識も流れる放送もすべてが英語、英語、英語。それもラジオ放送は速くて速くて、ほとんどが聞き取れない。日本とは時差で昼と夜がま逆。変に高ぶる神経にうたたねすらできず、アメリカ到着の第一歩から、大きな不安に胸が一杯になり、暗澹とした気持ちになった。
迎えてくれたマリーのご両親は温かかった。一生懸命話してくれた。始めての晩餐はマリーのお母さんの心づくしの手料理だった。ステーキの茹でたポテトとコーン添え。バターでまぜて食べるアメリカの伝統的な家庭料理だった。ご両親は心から持て成してくださった。マリーも久しぶりの親子の対面に喜んでお喋りをしていた。
好きな時に言いたいことだけを喋るなら、学んだ語彙を組み合わせ、どうやら話しの仲間入りをすることができる。書くなら辞書を片手になんとかなる。今まではそれでよかった。しかし、今、普通のアメリカ人が普通の速度で好きな話題をぺらぺらと喋ることを理解し、ついて行くには、私の耳は悪すぎた。勿論語彙も少なすぎた。又、残念なことに、マリーのご両親はかなりのお歳で、前の歯が何本か抜けておられ、余計聞きとりにくかった。(多分私の問題で、ご両親には失礼な屁理屈だと思うけど、、、。)
焦れば焦るほど、私は益々聞き取れなくなっていった。そして、聞き取れない緊張感から、話す言葉も自信を失い、たどたどしく噛む様になっていった。正に最悪のパターンに陥った。アメリカ到着初日から、私のプライドはズタズタに引き裂かれ、ガ~~ンと脳天をハンマーで叩かれたようなショックを受けた。そして悲しい現実を前に、「この程度だったんだ、今の私の実力は!!」と大いに失望し、落ち込んだ。これからの長く続く日日を思い、「日本に逃げ帰りたい!!」と早くも私の心の中の弱虫が叫んだ。
2008年9月1日月曜日
波乱をこえて、いざアメリカへ!!
教授の夢のような提案は私のほとんどの難題をクリアしてくれ、アメリカ行きの夢は大きく前進したかに思えた。しかしながら、第二次世界大戦を体験した母たちの年代の人々には、アメリカはとてつもなく遠い異国であり、恐ろしい国でもあった。
そこで母は、一応この問題を家族会議にはかった。当時は、娘の将来を大きく左右するかもしれない大問題の決断で(そう、後に確かに我が家全員の運命すら左右した)、母ひとりで抱えるには大きすぎたのかもしれない。答えは半ば予想していた通り、父は即座に反対し、烈火の如く怒った。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ!!だから、おれは大学にいかせることも反対したんだ!!女は平凡な結婚をして、おいしい味噌汁の作り方でも一生懸命考えていりゃいいんだ!!第一、一体、そんな金はどこにあるんだ!!お前が甘やかすから悪い!!」と、、、、。
父は若いころ、自称モボだった。(モボは当時の言葉でモダンボーイの略)日頃は進歩的な意見の持ち主で物分りのいいことを言っていた父も自分の娘のこととなるとまるで違って取り乱した。
テーブルをひっくり返さんばかりの勢いで母にくってかかった父。結婚以来、父のわがままをじっと耐え、少なくとも子供たちの前では、ほとんど父に口答えをしたことがなかった母。イッキに食卓には気まずい不穏な空気が流れた。そして一瞬の後、父に負けない位激しい口調で母はこう言い放った。
「何もこの娘は、ただぶらぶら遊びに行きたいと言ってるんじゃないですよ!!自分の実力を高め、この体験を必ずや将来に役立てる決心で、必死にお願いしているんです。何が悪いんですか!!その位のお金は私が何とかします!!この娘はきっと何かをつかみ、身につけて帰ってくるんですから!!」と堂々と父に啖呵をきった。
母の激しい剣幕にムッとした顔をして睨み付けていた父も、それ以上は何も言わなかった。無言で食事がすすんでいった。私は今、私を信じ堂々と父に啖呵を切ってくれた母の言葉を反芻し、この母の深い愛と信頼を裏切ることのない様、そして、教授のご好意が無駄に終わることのない様、頑張らねば!!と密かに心に誓った。
航空券を買い、座席も予約した。当座の費用も母が万一の為に貯めておいたへそくりからポンと出してくれた。教授も約束どおり、その女性の地質学者と連絡をとりあい、ニューヨーク到着時には彼女が車でケネディ空港まで迎えに出てくれることも決まった。
さあ!!ようやく今度こそ準備は整った。あとは出発の日を待つのみ。もう私の夢の第一歩はすぐそこまで近づいていた。
そこで母は、一応この問題を家族会議にはかった。当時は、娘の将来を大きく左右するかもしれない大問題の決断で(そう、後に確かに我が家全員の運命すら左右した)、母ひとりで抱えるには大きすぎたのかもしれない。答えは半ば予想していた通り、父は即座に反対し、烈火の如く怒った。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ!!だから、おれは大学にいかせることも反対したんだ!!女は平凡な結婚をして、おいしい味噌汁の作り方でも一生懸命考えていりゃいいんだ!!第一、一体、そんな金はどこにあるんだ!!お前が甘やかすから悪い!!」と、、、、。
父は若いころ、自称モボだった。(モボは当時の言葉でモダンボーイの略)日頃は進歩的な意見の持ち主で物分りのいいことを言っていた父も自分の娘のこととなるとまるで違って取り乱した。
テーブルをひっくり返さんばかりの勢いで母にくってかかった父。結婚以来、父のわがままをじっと耐え、少なくとも子供たちの前では、ほとんど父に口答えをしたことがなかった母。イッキに食卓には気まずい不穏な空気が流れた。そして一瞬の後、父に負けない位激しい口調で母はこう言い放った。
「何もこの娘は、ただぶらぶら遊びに行きたいと言ってるんじゃないですよ!!自分の実力を高め、この体験を必ずや将来に役立てる決心で、必死にお願いしているんです。何が悪いんですか!!その位のお金は私が何とかします!!この娘はきっと何かをつかみ、身につけて帰ってくるんですから!!」と堂々と父に啖呵をきった。
母の激しい剣幕にムッとした顔をして睨み付けていた父も、それ以上は何も言わなかった。無言で食事がすすんでいった。私は今、私を信じ堂々と父に啖呵を切ってくれた母の言葉を反芻し、この母の深い愛と信頼を裏切ることのない様、そして、教授のご好意が無駄に終わることのない様、頑張らねば!!と密かに心に誓った。
航空券を買い、座席も予約した。当座の費用も母が万一の為に貯めておいたへそくりからポンと出してくれた。教授も約束どおり、その女性の地質学者と連絡をとりあい、ニューヨーク到着時には彼女が車でケネディ空港まで迎えに出てくれることも決まった。
さあ!!ようやく今度こそ準備は整った。あとは出発の日を待つのみ。もう私の夢の第一歩はすぐそこまで近づいていた。
登録:
投稿 (Atom)


