2008年12月30日火曜日

移民手続き開始と新居購入

地球人が「旅好きな兄貴」に変身したころ、我が家では、新しい、そして、重大なミッションのスタートが切られた。それはカナダへの、家族移民の遂行だった。どんなに早くても、手続きには約一年半はかかる。(今は更に長いと聞いたが、案件による)地球人が大学を終える前に、移民の手続きを終え、家族でモントリオール郊外に拠点を移す計画だったのだ。

最大の理由は、学生ビザで大学に居ると、切り替え時期には、又、書類を整え、ビザが下りるまで時間がかかり、万一ドジを踏むと、一度、外国へ出なければ成らない。この頃には、良い大学に入るのは、カナダもかなり狭き門で、大学院に至っては、もっと面倒だということがわかっていた。普通の学科はわからないが、当時ケベックには、科学研究が優れた大学は4校しかなく、順調に進めるかどうかわからない。

我々も、いずれはカナダへ移民を、と思っていたので、それなら、この辺りで、地球人を枝葉末節な問題に煩わされることなく、勉強に専念させるべき、正念場の時ではないか、と思ったからだ。学費も学生ビザの留学生と、現地の学生とは、倍ぐらい違う。勿論、移民ビザがおりれば、かなり学費負担も軽くなるのだ。

前にも述べたとおり、何事もやってみなきゃわからない。そこで、早めに、投資移民の申請書をだした。すでに歳がかなり行っていた我々にとって、一番簡単な永久居留権の取得方法は、投資移民だった。これは、5年間、すずめの涙ほどの利子で、カナダの銀行に一定額を預金し、使わせるかわりに、カナダ政府から居留権を貰うというもの。

5年経つと元金は全て戻ってくるので、日本のように、利子の少ないところなら、いっそ、カナダに置いて、居留権をとってみるのも面白いかも、、、、。ただし、居留権をとっても、カナダ国籍をとるまでは、最低、年半分はカナダに居留することが、義務付けられるので、その点は要注意。

ちなみに、知人の中には、お父さんは上陸後、仕事の関係でどうしてもカナダに長期滞在することができなくなり、この規定に違反。しかし、お母さんと子供は居留権を剥奪されず、お父さんからの仕送りで居留継続。そして後に、人権保護により、夫婦親子の同居権を理由に、再申請して、お父さんの居留権も復活した人の前例もきいた。

しかし、我々にとっては、かなり前から、すでに予定のルーティン。移民の申請が受理されると同時に、投資資金の確保の為、前に述べた郊外型の家を手放し、準備万端整えて、ビザの下りるのを待っていた。この移民の手続には、間に移民専門の弁護士が入っており、ほぼ確実に、移民許可が下りると聞いていたからだ。許可が下りれば、正式に家族一緒に永久居留ビザで上陸し、政府指定の銀行に投資額を貸付、移民へのすべての必要な手続きは完了する予定。

そこで、地球人が大学2年を終えた7月、私は地球人に、「モントリオールの近郊に家を買うから、推薦できる物件を用意するよう!! 家を内覧できる日程は2日のみ!!だから、不動産屋と交渉して、準備しておいて!!」と伝えた。そして、早速、又、遥遥とモントリオールへ向かった。

この頃までには、地球人の口座に、毎年、かなりの額を振り込んでおり、家を購入するには、ほぼ十分な金額がすでにカナダの口座に置いてあり、私と地球人の小切手で切れる。私は、家を買うことに迷いはなかった。「だめなら売りゃいいじゃん!!」と又、肝っ玉母さん譲りのノーテンキ病だ。

不動産屋(北米で知名度の高い、一流の不動産屋で安心)が私の内覧の為に準備した家は32軒。モントリオールのすぐ側と、ちょっと離れた郊外と二箇所。まず最初のモントリオールのすぐ側の家を内覧し始めた。多分ここでは、17軒ぐらい見た。一目外観を見て、「次、お願いします!!」と言ったところも多かった。そして、結果的には、一軒も私の理想にはあわなかった。

少し離れた、2箇所目の場所に移った。人間が何かを決める時なんて、ほんの少しの偶然が左右することが多い。私は、高速道路の両側を眺めながら、目的地に向かった。段々、緑と山々の景色が多くなり、高速道路から町に入った。

その時、川に架かった小さな橋の欄干に、実に綺麗な花かごが飾られ、ライトの上にもフラワーバスケット。色とりどりの花々の中に、いきなり、白馬や、綺麗な馬に跨った一団が、格好いい真っ赤な制服とキャスク、乗馬ブーツで颯爽と行進してゆく姿が、目に飛び込んできた。

「何あれ??」ときくと、「ここは1976年、モントリオールオリンピックの時、乗馬会場として使われた町で、あの一団は、この町で一番大きな乗馬クラブのメンバーですよ!!時々、犬を連れて狐狩りにも行き、そのコースがこの川沿いにあります。」という説明。

正面に、当時21コース(今はもっと多い)のスキーゲレンデを持つ山の緑。溢れる様な鮮やかな彩りの花々。そして、その大自然の緑の中を行進する、綺麗な馬の軍団。秋には紅葉も美しく、今では日本の、大手旅行社のツアー宿泊地にも指定されている美しい町。快晴の綺麗な青空の中で、偶然、この光景を見た私は、すぐ、「気に入った、ママ、ここに家を買う!!」と宣言した。

ここでは、15軒ぐらい見た。決めたのは最後の一軒だった。それも家の中というより、そこから眺める大自然の光景が気に入ったからだ。すると、不動産屋が、意外なことを言い始めた。「ここが好きなのは景色がいいからですか??それなら、隣の家の方が、もっといいですよ。この前、一緒にゴルフをしたとき、隣の主人が、近々家を売りたいと言っていたから、明日の朝、もう一度きて、見せてもらったらどうですか??この家より、かなり新しくて、中もキチンと作っていますから、、、。」という話。ひとまずこの日は引き上げて、明日、最終決定をすることにした。

次の日の朝、不動産屋が勧める隣の家を見た。確かに景色は、隣の家より素晴らしかった。間取りも、スクリーン状のドアで、色々と変えられる仕組み。部屋を大きくも小さくも使える、私が好きなタイプだった。そこで、私はすぐ交渉に入った。とりあえず暫くは、のんびり家具などもそろえていられず、じょじょに好きなものに替えて行く予定だったので、全て家具つきの、居抜きの値段で、交渉してもらった。実に内覧、33軒目の家だった。

それが高かったのか、安かったのかは、未だにわからない。地球人に、「どうして、この場所を選んだの??」と訊いたら、「高校の時、ここのスキー場にきたことがあるし、色々な人に訊いたら、ゴルフ場も多く、ここはリタイアした人たちに、夢の町と呼ばれているところらしいから、いいんじゃない??」ということだった。しかし、冬は、スキー、スノーボード、スケート、ホッケー、アイスフィッシング、スノーモービル、ノルディックスキーなどが楽しめるここは、多分、地球人の趣味にも、ぴったりだったのかも、、、、。

ともかく、家の裏庭は、PGAツアーの指定ゴルフ場の10番ホールに繋がっていて、10分以内にゴルフ場が6つ。前の山は、ワールドカップのマウンテンバイクと、アルペンスキーのコースが20数本。乗馬場は、付近に10箇所以上。大人用の乗馬学校も多数ある。湖では、モーターボート、ヨット、カヤック、水泳、釣りなどを楽しむ人々で夏は一杯。

アメリカからキャンピングカーを引いて、付近に点在するキャンプ場に入ってくる観光客も多い。夏は子供達には、楽しいキャンプライフ。乗馬教室はもとより、ミニゴルフ場、全長125キロのサイクリングコースとローラーブレードコース、マウンテンバイクとフリーマーケット内のサーカス小屋。

山の傾斜を利用した、スキー場の一角には子供遊園地があり、夏は、プールやジャンプ場。タイヤスライディングコースなど、雄大な景色を楽しみながらの水遊び。山の中でのバギー遊びやハイキング、マウンテンバイクコース。

平地では、大きな競輪場のような自転車の競技場もあり、湖遊びも含めれば、子供用にもまだまだ大きな施設が一杯。スポーツ好きには至れり尽くせりの感がある。やっぱり、ここは、老人がただ景色を眺めているより、若者が思いっきり、スポーツを楽しむところだ。

そして、毎年地元の小学生は、学校の学習強化スポーツリストの中から、自分で好きなものを選び、好きなスポーツに挑戦できる。だから、勿論、スキー、スケート、ホッケー、乗馬、ゴルフ、サッカー、などなど、体育の授業として、楽しみながら訓練してもらい、多才な、スポーツ好きの青年が多く出来上がるわけだ。

地元からは、色々な分野のオリンピック選手も出ており、町ぐるみでスポーツ好き。冬は立派な室内サッカー場も付近に持っている、この地元の小学生チームが、今年(2008年度)のケベック優勝チームとなったとか、、、、。とにかく、小学校から多くのスポーツに、勉強に、とバランスよく、強化する。

カナダ生まれで、すでに移民している姪の息子は、すでに11歳で、2008年9月からの小学校のスポーツは、乗馬とゴルフを選んだそうだ。その外に、町の小学生代表で、今年はサッカーチームに所属。アイスホッケーや空手もやり、勉強以外にも活動が多く、姪夫婦も忙しくて大変そうだ。しかし、小学生のスポーツ強化科目に乗馬とゴルフというのは、本当にこの地元の利を生かした豪華版。「めったにできないよね!!」と姪は大喜び。

ちなみに、我が家の移民手続きの場合は、地球人が中学から長くケベックに滞在し、フランス語も問題なく、家や生活費の準備も整っていたせいか、普通、必ずあると言われている、最終面接は免除され、直接上陸許可証が弁護士の元に送られてきた。

今はよく分からないが、居留ビザ発給の為の最終面接は、当時、この辺ではアメリカのバッファローか、運が良い場合はモントリオールの移民局で行われていた。アジアでは最近、フィリピンなどで行われるケースも多いそうだ。友人達、兄夫婦、姪夫婦も全員、最終面接に参加した。その後、上陸許可証送付までには、約2ヶ月ぐらいかかるのが普通である。

ともあれ、こうして、移民許可がまもなく下りるという時に、モントリオール郊外の、風光明媚な田舎町に我が家を購入したのは、1995年の、夏の暑い日のことだった。綺麗な花々と、雄大な自然にかこまれた新居への、正式な拠点変更プランは、いよいよ最終章を迎え、後は一番頭の痛い、国際引越し荷物の整理発送を迎えるばかりとなっていった。地球人の引越しも、その後を含め、香港から台湾、リゴー(モントリオール郊外、地球人の中学高校の所在地)、オタワ、モントリオール、ブロモント(自宅、モントリオール郊外)、ケベックシティ、横浜、東京と、ますます範囲を拡大していった。

2008年12月28日日曜日

語学留学と多言語強化の旅

さて、厳しい大学一年を終える頃から、地球人は海外旅行に大きく目覚めていった。もともと飛行機には乗りなれているが、留学後はただ、東京とモントリオールの往復が多かった地球人は、当時エクアドルに短期留学していた親友の元を訪れる時、モントリオールから、エクアドルへの往復に、ワシントンやマイアミなども途中見学しながら、ぶらぶら一人旅をして、初めて、旅の楽しさを本当に理解したらしい。

確かその時は、わずか300ドル前後の所持金しか持たず、貧乏な旅をした。クリスマス休暇を利用し、バックパック一つで、モントリオールからマイアミまでは汽車の鈍行にのり、のんびりとした旅をしたようだ。 あとで聞くと、結構私の一人旅と同じく、色々親切な人に巡りあい、助けられたらしい。

この親友訪問旅行で、旅の楽しさを満喫した地球人は、大学の授業のストレスもあったのだろう。「ねえ、俺、よく考えたら、やっぱり言葉を習うのって、本当に楽しいし、向いていると思うから、短期語学留学に行きたいんだけど、、、、どう思う???」と、訊いてきた。

ドイツに6週間。Kasselという耳慣れないところにある大学と、地球人が勉強している大学との間に、交換留学制度があり、ドイツ語の単位取得にもなるとかで、興味があるらしい。でも、終わってから、又掛け持ちで、スペインのRondaというところにある大学でも3週間、スペイン語を勉強したいという。「その両方、プラス、一人旅の軍資金を援助してくれないか??」という希望。

若いときの苦しい旅は、必ず多くのことを学べるから、勿論、私には異存がない。そこで、早速、地球人は、短期留学の手配をし、ドイツにむかった。そこで、地球人はトロントから留学していたカナダ人と友達になり、色々なところへ遊びにいったらしい。

この短期留学の旅には、もう一つの楽しみがあった。それは、私の兄夫婦と合流し、旅の案内をすることだった。6週間のドイツ語コースが終わり、スペインに向かう途中、地球人はパリのドゴール空港で、兄夫婦を迎え、すぐタクシーで、リヨン駅に向かった。(兄の記憶による)

リヨン駅前のレストランで、好物のかきをたらふく食べた地球人は、兄に言わせると、半ズボンのお尻が破れた、よれよれのジーパンを履き、浮浪者みたいだったという。

とにかく、地球人はほとんど「しゃれっ気」がなく、身なりを構わない。(まあ、今は社会人になって、かなりきちんとしているけど、、、。根は、おしゃれには、あまり興味がない。)いつも、「ぼろは着てても~~、心の錦~~~!!」とかいう、誰かの歌を、自分の主題歌にしていた。

この一行は、リヨン駅前のレストランに入って、「さて、これからどうしようか??」と相談を始めるまで、全く、行き先も何も決めていない、行き当たりばったりの旅だった、というのだからスゴイ!!

兄が地球人の意見を求めたところ、「パリなんて、ごみごみしていて、別に大して見るところないよ!!」という意見だったそうで、「それなら、いっそ、スイスの山でも見に行くか!!」と意見が決まり、リヨン駅から、汽車で、まず、スイスのジュネーブを目ざし、出発した。

ジュネーブに一泊した後、ユングフロー、ツエールマット、マッターホルンなどの、雄大な山々を眺めながら、途中3泊したそうだが、その時、兄が持っていたクレジットカードは、マスターカードだけで、使えるホテルがなかなかなく、ようやく見つけたホテルは、超豪華なスイートのみ。執事室までついた、3室続きの部屋しかなく、兄は泣く泣くそこに、大枚を叩いて、泊まったとのこと。

これは、よく聞くはなしで、日本では、結構幅をきかせているカードも、外国では使えない、というか、拒否されるものもあり、旅行する人には、要注意事項。まあ、別に、私はビザカードの回し者ではないけど、一番、どこでも使え、便利なのは、ビザカードだと思う。

この旅行は、兄夫婦は、まったく地球人という案内人に、言葉はお任せ。汽車で移動の時、前の汽車の脱線事故に遭遇し、途中で乗った汽車が止まってしまい、バスで迂回したりする交渉事などは、すべて地球人が全部、鉄道員に話を訊きに行き、解決したそうだ。

ジュネーブから、グリンデルワールドに向かう汽車の中では、最初はフランス語で話す人が多く、続いて、イタリア語に変わり、その後、ドイツ語に変わるなど、様々に変わる言葉を、地球人はじっと聴いていた。

そして、「ナンだ!!ほとんど同じだ!!」というなり、フランス語を話している人とはフランス語、イタリア語を話している人とはイタリア語、ドイツ語を話している人とはドイツ語で、べらべらと話し始めたらしい。そんな地球人を見て兄は、「こいつの頭の中は、どうなっているんだろう??」と、ビックリ仰天したそうだ。

その後、ベニスに一泊して、イタリアを楽しみ、そこで、地球人の兄夫婦へのご案内は終了。地球人は次の短期留学先の、スペインのRondaを目ざし、旅を続けていった。そして、3週間のスペイン語研修中には、色々なところへ遊びに行き、スペイン語やドイツ語を、実践的につかいつつ、旅を楽しんだ。

スペイン語の学習が終わってからは、ポルトガル、モロッコなども回って、カナダに戻った。地球人のスペイン語学習は、その後も続けられ、大学院の時は、メキシコや、中南米からの学生との交流で、大いに磨かれていった。

ちなみに1994年の夏、地球人によって決行された、ヨーロッパ短期語学留学、及び、ぶらり旅の訪問国は8カ国、主な訪問都市は、約30都市にも及んでいた。以下は本人の記憶に基づいての報告。

France (Paris),
Holland (Amsterdam),
Germany (Frankfurt, Kassel, Bonn, Koln, Berlin, Weimar, etc......),
Italy (Venice, Firenze, Rome, Pisa, Sorrento/Capri Island, etc......),
Switzerland (Geneva, Zurich, Altendorf, Zermatt, Jung Frau Joch, etc....),
Spain (Madrid, Malaga, Ronda, Sevilla, Barcelona, Marbella, Algeciras, etc.....),
Morocco (Tangier, Fez),
Portugal (Lagos, Lisbon, Porto)

今、地球人の履歴書には、特技として、「言葉」とあり、「流暢」として、5ヶ国語。「中級」として、3ヶ国語を列記しているが、これは偽りのない真実だと思う。これからも、大切に、この特技を守り続けてほしいと願っている。

2008年12月27日土曜日

大学入学!!さてその感想は!!

さて、オタワのPresience course(2年コース)の単位を一年で取得した地球人は、二つの大学に進学希望の願書をおくった。その前に、私が勧めたボストンの名門大学も、見学と調査の為、車で訪問したが、地球人にはこの時すでに、自分の青春を燃やしたカナダが第一希望になっており、最終的に自分でカナダに決めて二つに絞った。

第一希望はモントリオールの大学で、国際校として海外からはもとより、カナダでは、バンクーバーなどの西部からも、ワザワザ留学する学生が多い人気校だった。前身は医学校で、科学は強かった。彼にとっては、総合的に(学費も含めて)素晴らしいとの判断を下したようだ。

もうひとつは、オタワの大学で、Presience courseから直接上がっていける大学だった。この大学も、カナダの首都、オタワを代表する大学で、勿論、遜色はなかったが、こと科学だけを比較するなら、当時地球人の判断では、モントリオールの大学の方に軍配が上がった。

しかし、第一希望のモントリオールの大学からは、Presience courseが終了間近となっても、返事がなかった。そして、地球人から私に電話で相談があった。元々は義弟の勧めで、義弟の娘も通っていたオタワの大学に入るつもりだった地球人には、決めかねる問題だったらしい。なぜなら、オタワの大学に入るなら、早速500ドルの前払い金を納めなければならないタイムリミットが迫っていたからだ。

地球人に意見を訊いたら、「やはり、第一志望はモントリオールの大学だが、今の状況では、どうなるか分からない」という返事だった。それを聞いた私は、即座に、「それなら、500ドルぐらい、別に無駄になってもいいから、取りあえず納めておいて、もしモントリオールの大学にパスしたら、そっちに行けば???」と提案した。地球人は「わかった。じゃそうする。」と短く答えて、電話を切り、前払い金を納めた。

7月一杯には、まだ返事がなく、そろそろ諦めかけていた時、突然、モントリオールの大学から、入学許可が下りた。この大学には、東南アジアからの留学生も多く、選択に時間が掛っていたらしい。この頃、この大学は、まず地元のカナダの学生を50%優先、そしてアメリカからの学生を25%優先、残りの25%をヨーロッパ、アジア、その他全ての地域の学生に割り当てるらしい、との噂があった。

地球人のように、学生ビザで滞在している東洋の学生は、残りの25%の中の、更に少ない%の一人と数えられ、とてもとても狭き門だった。トロント、バンクーバー、南北アメリカ、ヨーロッパにも人気があったこの大学は、ますます地球人の憧れとなっていった。

入学許可を受け取った地球人は、正に大喜びで、即座にこの大学に進学することを決めた。500ドルは無駄になったが、私も地球人が一番希望する大学に入れて、心から祝福した。こうして、希望に胸を膨らませ、地球人は大学一年生になった。この学校は、モントリオールの街のど真ん中にあり、正門から見える古いドームが、この大学の、長い歴史を物語っていた。

後に、地球人の大好きなアイスホッケーの「正式な試合ルール」を完成したのも、昔昔の、この大学の在校生だったと知った地球人は、大いに興奮して喜んでいた。カナダでは、遥か昔から、教授の交流、研究生の交流、ホッケー試合の交流などが度々行われていたボストンの名門大学とは、姉妹校と呼ばれていた。地球人は晴れ晴れとした顔で、入学を許可された自分の幸運を喜び、授業開始を待ちかねていた。

モントリオールでの生活を始める為、地球人が、あの凄まじく古いオタワのアパートから、モントリオールのアパートに引越しすると決まり、私は又、遥遥と太平洋を越えて出かけていった。なぜなら、これから最低4年間は、モントリオールでアパート暮らしをすることが決まり、少し家具や電化製品など、必要なものを買い揃え、暮らしやすくしてやらねばと思ったからだ。

今度地球人が見つけたアパートは、前のアパートより、余程新しかった。ここは部屋が3室あり、3人共同生活で、それぞれ一つづつ個室を使い、応接間、キッチン、お風呂などは共用のアパートだった。ここで、地球人は他の二人の住人とワンフロアーをシェアして暮らすことになった。部屋がかなり広かったので、私は、ソファとか、テレビや勉強机などを買い揃えて部屋を整えた。

待ちかねていた授業が始まって暫くすると、あんなに喜んで入った大学なのに、何だか地球人の様子がおかしい。訊いてみると、「俺、この大学で勉強している奴、あんまり好きになれないかも、、、、、、」と意外なことをいい始めた。流石にどの学生も物凄い勉強家が多く、クラスが勉強一色で、ぴりぴりしているらしいのだ。初め70名でスタートしたクラスが、あっという間に、半分ぐらい脱落してゆくほど、スゴイと暗い顔をした。

これまで、勉強も本当に順調に来ていて、まったく楽勝の感をもっていた地球人が、初めて、「スゴイ奴は世界に多い!!」と実感したのも、この頃だっただろう。地球人はブログの名言集で、「男は自分の能力以上のものに挑戦しなければ、本当の力を出し切ることはない、、、、(ちょっと違うかもしれないけど、こんな意味)」と言っていたが、きっと、初めて、スゴイ軍団に入った気分がしたのだろう。

学生の多くは、何か話しかけたり、ちょっとノリで冗談を言っても通じず、教えてもらいたいことがあっても、まるで敵を見るように、すぐ身構えるのだそうだ。甘い顔をしていたら、自分が落とされるかもしれないと、まるでお堀を深く掘って、他人を近づかせないようなムードで、ピリピリしている学生達に、地球人は大いに失望したらしい。

朝5分遅刻しても教室に入れないとかで、本当に、あんなに緊張して、毎朝学校に駆けつける地球人を私は初めて見た。欧米の大学は、無事卒業するのが大変と言われているが、本当らしい。

入るのも大変、出るのも大変な、厳しい大学での生活は、地球人を大いに悩ませた。そして、好むと好まざるにかかわらず、地球人は、物凄い勉強家の軍団を相手に、学問でも、熾烈な競争に巻き込まれていった。

2008年12月24日水曜日

スペイン語強化と多言語維持の努力

地球人がオタワで、科学を専門的に学び始めたころ、中学2年生から、始終行動をともにしていた親友は、エクアドルに、一年間の語学留学に向かっていった。地球人はとても淋しがり、クリスマス休暇を利用して、この親友に会いに行ってもよいかどうか、私に許可を求めた。

勿論、少しでも、若いうちに世界を広げておくことには大賛成だった私は、問題なくOKした。自分で生活費をやり繰りして、航空券を買い、地球人は親友の元に出かけていった。

彼のことは地球人の親友のところで詳しく述べたが、今回は、地球人のスペイン語への興味と、多言語の維持強化への努力を中心に、書いてみたい。

その親友の学ぶエクアドルを訪れ、地球人は、すっかり、スペイン語に魅了されて、真剣に習得することを決意した。滞在中、積極的に、スペイン語を使っているうちに、文法や発音など、かなりフランス語と似通っているスペイン語を、自分の常用語のひとつに加えたくなってきたのだ。

たしかに、ケベックのフランス語系の大学には、メキシコや、中南米からの留学生が凄く多い。多分、耳慣れるのが、早いのだろう。

早速、強化の為、スペイン語のテープやビデオ、辞書などを買い込んで、カナダに戻ったあとも独学で、スペイン語を勉強し続けた。こうして、新しい言葉に対する興味も、圧倒的に強い地球人の耳は、発音もかなり正確にとらえることができた。 ちなみに、このエクアドル旅行中には、Quito, Cuenca, Riobamba, Banos, などを訪れたそうだ。

その後地球人は、1994年の夏、大学2年生の時、大学の交換留学制度を使い、正式に、スペインの大学とドイツの大学に短期語学留学し、戻ってからも、ケベック市の大学院で、メキシコや、中南米の学生と、積極的に交わり、スペイン語を常用し続けていった。

今の地球人に、もし、語学的に成功できた原因をさぐるとすれば、私が子供時代から習慣づけた、言葉は環境、導入、常用、固定というプロセスを繰り返すことにより、強固なものになってゆくことを、自分でもよく理解していて、成人以後も、弛まず常用し続けていることが、最大の勝因だろう。

ちなみに、2003年から現在まで、日本に滞在中だが、地球人はスペイン語スピーキングクラブのメンバーとして、度々スペイン語を使っているし、フランス語も、多くのケベック人の友人と、使い続けている。

北京語も、幸い研究室にいた中国からの留学生と、ずっと使い続けることができたし、日本語に至っては、日本語検定試験などにも参加しつつ、自分の実力を冷静に判断し、足りないところを補足しながら、未だに勉強し続けている。

そして、スポーツの世界大会などでは、ボランティアーとして、大会の通訳を引き受け、実践の場も設けている。ちなみに数年前の空手大会では、五ヶ国語の同時通訳として、少しは大会参加者のお役に立てたそうだ。

よく私が言うように、言葉は慣れだから、多言語習得は、幼少時から訓練する気さえあれば、どんな子供にも訓練はできる。子供の耳には本当に無限の可能性があるのだから、、、、、。勿論、習得の速さや語彙量には多少の差が出るとしても、、、、、。そして、バランスよく常用環境を設定してやれば、かなりのレベルまで、誘導はできる。

しかし、習得した多言語を、維持強化し続け、固定してゆくには、常用環境を作り続ける、本人の強い意志も不可欠で、親という立場を離れ、客観的にみても、常に言葉の常用環境を求め、多言語維持強化の努力を怠らなかった、地球人の行動力を、高く評価しなければならない。

そして、何より、「好きこそものの上手なれ!!」という言葉どおり、地球人自身が、多言語を習得することが好きだったからこそ、ここまで、歩んでこられたのであろう。

「没頭できる何か」を持っている人は幸せだ。地球人がいつまでも、未知の領域、未知の世界、未知の文化への興味を忘れず、一生、何かに没頭できる人であってほしいと、親として、改めて心から願う。

2008年12月22日月曜日

地球人オタワに移動

さて、高校を卒業するころまでには、地球人は自分の得意な学科、不得意な学科が見えていて、文学系はどうも自信がなかったらしい。数学、物理、科学(化学)には、かなりの自信をもっていて、大学では科学を専攻することを決めていた。そこで彼は、取りあえず、大学入学前の専門学校をオタワの大学のPresience courseで学ぶことを自分で決意し、私に知らせてきた。

オタワで勉強を始めるということは、そく即ち、英語で大学前の専門コースを履修するということで、フランス語教育は一旦離れるということを意味する。しかし、勿論、オタワはケベックと連接しており、多くの人はバイリンガルだし、モントリオールの友人とフランス語を話すチャンスも多く、英語がメイン、フランス語がサブという、これまでとは正反対の二つの言葉の常用が始まった。

日本語と北京語の常用環境も続いており、これで専門的な英語による科学の語彙の強化もすることができ、理想的なコンビネーションとなっていった。

地球人は自分でアパートを探し出し、引っ越してから私に住所を知らせてきた。初めてのアパート暮らし。「足りないものは??どんなところだろう??」と心配になった私は、さっそく、大学の学期が始まる前の時間を利用して、オタワのアパートに出かけた。

案の定、まだそこらじゅう散らかっていて、足りないものばかり。このアパートの周りの環境はあまり覚えていないが、アパートの建物自体の古さは特筆もの。なにしろ、部屋からトイレに行く途中の廊下が、完全に真ん中が盛り上がり、(木の廊下が長年の乾燥により変形していた)かなり左に傾いている。

夜中にトイレに行くとき、部屋から出た途端、自然に体が斜めになって、あれよあれよという間にドドドドドと左の壁に激突。もう眠気も吹っ飛び、壁に手を支えながら歩いた思い出がある。多分古くて、相当家賃が安かったから、決めたのだろう。オンタリオ州の物価は、ケベックより20%ぐらいは何でも高いから、、、、。オット!!ガソリンは安かったかも。

地球人の胃袋を満たす為、そのキッチンに入ってみて驚いた。まあ、電気コンロ、冷蔵庫、マイクロウエーブオーブンは一応ある。しかし、キッチンテーブルは、反った床で壁の側がかなり低くなっており、完全に斜め。コーヒーなどを置くと、ツーッ!と自動的に動く。「オイオイオイ!!何もここまで倹約しなくても!!」と内心思ったが、地球人が自分で探し出してきたところだ。多分、学校に便利なところなんだろう。

そのマイクロウエーブオーブンは、本当に今でも忘れられない。中に温めるものを入れて、スイッチを回すと(といっても、つまみはとうの昔になくて、棒だけが出ている)、壁や辺りを揺らすような、物凄い轟音(オーバーじゃないよ!!)で「ガ~~~ッ!!!」と鳴り響く。

設定した時間の最後まで、凄まじい音が延々と家中に響き渡り、いきなりシ~~~ンと一瞬なってから、「チ~~~ン!!」と仏壇の鐘みたいな音が、人間を小ばかにしたように鳴って終わる。本当に印象深いオーブンだった。

今後、どこにどう行くか分からぬうちに、あまり家財道具を増やしてもと思い、取りあえず最低限の足りないものや、殺風景な部屋を多少温かくするために、飾り物や電気の笠などを購入し、少し居心地をよくしてから、私は台湾に戻った。

地球人はここでも、2年間のコースを1年で終えると自分で宣言して、履修科目を増やし、毎日忙しくやっていた。相変わらず、地球人はこのオタワの大学でも、ホッケーチームの仲間の練習などに加わり、楽しんでもいた。さすがに、大学の正選手にすぐになれるほど、カナダの大学ホッケーチームは甘くなかった。この大学のチームの試合観戦は有料で、一般の人が切符を買って入る程、セミプロだったから、、、。

ともかく、地球人は、やるといったことは、自分で自分にプレッシャーをかけるので、私はこの頃はただ、慰問に行くと、もっぱら胃袋の管理と、趣味のお付き合いをしていただけ、、、、。

地球人は18歳で、運転免許を取得し、すでにこの頃は、ポンコツ車を運転していたので、あちらこちらにドライブして、シネマにはよく行った。こうして、地球人のオタワでの、Presience courseは始まっていった。

2008年12月20日土曜日

高校の卒業式と家族旅行

地球人はこの中学高校で、色々なことに挑戦し、5年の歳月を過ごした。そして、勉強でも、留年することもなく、全ての単位を無事取得して、卒業式を迎える日が近づいた。勿論、卒業式に参加するため、私は海を渡った。兄夫婦も、息子(地球人の弟)を伴い、日本から私と一緒にカナダに向かった。

途中、まだ、卒業式までには間があったので、我々はまず、カナディアンロッキーに向かった。もう、この頃には、かなり旅なれていた兄は、カルガリーに着くとすぐ、レンタカーを借りて、バンフに向かった。ここでホテルに一泊し、カナディアンロッキーやコロンビア大氷原などを見物した。

6月初旬のカナディアンロッキーは、瑞々しい緑と、雪を抱いた雄大な山々、石灰の混ざった綺麗なマリンブルーのレイクが、次から次へと現れ、息を呑むような美しさだった。道には、様々な動物が悠然と現れ、大自然を謳歌しており、車が近づいても恐れる様子もなかった。

以前から、写真などではカナダの大自然を見ていた私も、本当に目の前の光景は、神秘的な美しさに満ち満ちており、感動の連続だった。出てきた動物は、鹿、熊、狐、アライグマ、リス、エルクなどなど、、、、。のんびりと車を避ける動物達を見て、別世界に迷い込んだ気持ちがした。

カナディアンロッキーの旅を堪能し、我々はモントリオールに向かった。市内のホテルに宿をとり、地球人の卒業パーティに参加した。日本の卒業式とは全く違い、テーブルがセットされたホテルのディナーショーのようなスタイルで、卒業式が始まった。先生方も、奥さんやご主人を伴い、タキシードやロングドレスを身にまとい、優雅に現れた。教鞭をとっていた義弟夫婦も、勿論、正装して現れた。

映画で見たとおり、男の子はタキシード又はダークスーツ、女の子はロングドレスやカクテルドレスで、それぞれのパートナーにエスコートされ、会場に入った。父兄たちも皆正装で、本当に華やかな雰囲気だ。バンドが入って、そこここに風船が揺らめき、テーブル番号がわかるようになっていた。学生達はまだ父兄とは別々に座っており、いよいよ、卒業式が始まった。

司会に促され、校長先生の挨拶など、型どおりの進行ぶりだった。しかし、ホテルの広い会場で、バンド付きという設定は、厳かな雰囲気とは程遠く、本当に自由で、楽しい雰囲気だった。いよいよ卒業証書の授与が始まった。勿論アルファベット順でAから始まる。地球人の姓はYで始まるので、まだまだだ。

一人一人名前を呼ばれた学生が中央のステージに上がり、校長先生から卒業証書を授与されている。厳しい淘汰の末、8クラスで始まったクラス編成は、5クラスにまで、減らされていた。会場の全ての人々は、無事、卒業まで頑張った学生に、卒業証書が手渡される度に、拍手と喝采を送り、お祝いした。かなりして、「そろそろ地球人の番では???」と思ってみていたら、案の定、名前が呼ばれた。

私はその時の感動を、一生忘れないだろう。 司会者の読み上げるファーストネーム、(TETSU)という正しい発音の、甲高い声が響いた途端、地鳴りのような声援と、拍手と、喝采が、ひときわ高く会場を揺らした。参列した学生の殆どが、親しみの篭った目で地球人を見上げ、私達の方にまで目を向けて、大いに祝福してくれている。泣き虫の私は、思わずジ~~~ンとして、又、目頭をぬぐった。

ここまで漕ぎ着けるには、地球人なりの、大変な日日があっただろう。支えてきた私も、一体何度太平洋を越え、遥遥と通ったことか。教鞭をとっていた大学の、学期の合間に、突然心配になって、滞在わずか4日ぐらいで、往復したこともあった。台北から、24時間を越すフライトは、かなりきつく、子育ても、本当に、体力勝負だな、と何度も思ったほどだ。

感傷に浸っているうちに、卒業式は無事終了し、ライトが薄暗くなり、ディナーが運ばれ始めた。ミラーボールも回り始め、バンド演奏が始まった。「ムードが出てきたな!!」と思った途端、それまで座っていた学生が、ほぼ一斉に動き始めた。「何が始まるんだろう??」と見ていると、ダンスフロアーに次々とペアが現れ、踊り始めた。

程なく地球人が現れて、「Shall we dance!!」と私に手を差し伸べる。「エッ!!本当にやるの??」と大いに照れたが、初めて息子のリードで、ダンスを踊った。欧米の学生は、卒業式の後の、最初のダンスは、男の子は母親と、女の子は父親と踊るのが慣わし。皆、楽しそうに踊っている。「こんな自由で伸び伸びとした中、随所に感動と思い出がちりばめられた卒業式もいいな!!」と心から思った。

卒業式も無事済み、翌日、地球人も交え、我々はナイアガラへの日帰り旅行を敢行した。朝7時ごろの飛行機でトロントへ。そこですぐレンタカーを借り、ナイアガラへ。約3時間半ぐらいナイアガラで遊んで、又、午後の便(確か4時半ごろの便)でモントリオールに戻るという強行軍だ。

ナイアガラの滝は噂どおり、物凄い迫力だった。ドウドウとうなりをあげて落下する水流。舞い上がる水飛沫。木の葉のように渦の中をさ迷う、客船。あのマリリンモンローが(ゴメン。又古くて、、、)艶然と笑っていた映画、「ナイアガラ」の壮大さそのもの。私達は早速レインコートを着て、客船に乗ることにした。エレベーターでかなり下まで降り、夏だというのに肌寒い。

客船が滝の真下を通過するときには、カナディアンロッキーの山々の迫力とは、又、違った物凄さがあり、恐ろしい魔力で、滝壺に引き込まれるような、不安すら覚えた。本当に大自然の中の人間は、小さな小さな生き物に感じられ、崇高な美に感動した。

後日又、2度目に訪れた時には一泊し、ホテルの部屋から、ライトアップされたナイアガラを見て、又別の美しさに感動したが、やはりカナダ旅行では、一度は訪れる価値がある所だと思う。まあ、びしょびしょに濡れることがお嫌いな方には、乗船はお勧めしかねるけど、、、、。

この時、どういうわけか、トロント空港への帰り道で、兄と地球人が焦り始めた。どうやら道を間違えたらしい。飛行機の時間は刻々とせまり、切符はもう買ってあるから、なるべくなら間に合わせたい。いつもはおっとりの地球人も、さすがにかなり緊張。空港に着いて、私は皆の切符を預かり、チェックインに向かい、地球人と兄はレンタカーを返しに、、、。

すでにあと残り20分を切った頃、ようやく全員のチェックイン終了。二人が戻るのを、イライラしながら待って、慌しく走って遠くのボーディングゲートへ。我々が機内に入ると同時に、入り口がバタン!!

幸い国内線だから、これでよかったものの、危ない綱渡りで、飛行機の中では、全員グッタリ。席は勿論、全てばらばらに座らせられ、乗れただけでもラッキー!!地球人の卒業式を挟んだ家族旅行は、こうして、波乱のうちに幕を閉じた。

2008年12月18日木曜日

地球人の頑張り(アイスホッケー編)

毎年夏休みになると、急いで飛んで帰ってきた地球人が、次に目指す目標は、「卒業までに、アイスホッケーで学校の代表選手になり、格好いいユニフォーム姿を見せてやる!!」という、無謀に近い公約だった。すでに3年生を迎え、地球人はBクラス入りを果たしてはいたが、このクラスから上に行くのが大変。詰まりに詰まっている。

勿論、学校で、アイスホッケーの練習に参加している学生なら、当然、夢は学校の代表選手。正式な試合には、多くの応援団も駆けつけてくれる。そんな試合で、学校のユニフォームを身につけ、戦いたいと願う学生は、山ほどいた。地球人の日本の夏の特訓に、力が入ったことはいうまでもない。

このアイスホッケーで、学校の代表選手を目指す戦いでも、地球人は地元の子供との、約10年の空白の距離を埋めなければならなかった。義妹夫婦が絶対に無理といったのも、その後、地元のチビッコチームをたくさん見た私には、すぐ理解できた。皆、物凄く一生懸命で、上手い。

北海道や東北地方のチームと違い、地球人が毎年夏に参加した、東京のジュニアホッケーチームのレベルは、あまり高いとは言えなかった。しかし、個別に地球人に特訓をしてくれた、かつての6大学ホッケーチームの花形選手や、社会人ホッケーチームで鳴らした人々の滑りは華麗で、素人が見ても、本当に格好よかった。

そんな往年の名選手のお声がかりで、昔、名ゴールキーパーとして鳴らした人に、フォームや基本を教えてもらうことができた地球人は、本当にラッキーとしか言い様がない。

お礼に地球人は、彼達が望む、NHL(ナショナルホッケーリーグ。世界最高峰のプロホッケーのメジャーリーグ)の試合のビディオや、頼まれたホッケーグッズを買ってきてあげたりしていた。

地球人は、カナダに居るときは学校のアリーナで、日本では高田の馬場のアリーナで、夏冬すべての時間をホッケー漬けにして、頑張っていた。夏のアリーナには、子供から大人まで、関東ではかなり強い選手が所属していた。

特に中学3年生ぐらいの年齢では、かなり有望な選手が居て、地球人は、大いに技を磨かせてもらった。一試合だけでもつかれるのに、地球人は年齢に関係なく、大人のチームでもゴールを守らせてもらい、指導を受けていた。

日本では中学生ぐらいまでは、親が昔、プレーしていた人の子供達など、結構実力のある子供がたくさん居た。しかし、大抵中学3年ぐらいになると、「高校受験があるから、ホッケーは止めて塾に行きなさい!!」と親に言われて、一人、二人と有望選手がチームから姿を消していった。

地球人は、まだやりたくてやりたくて、ホッケーに未練たらたらの子供が、親に言われて仕方なく止めていく姿をみて、「日本の子供は可哀相だね!!やりたいこともやれなくて!!」とよく言っていた。

ブログは、地球人の、多言語習得に関する秘話が中心なので、これまで触れなかったが、地球人が9歳の時、彼の弟が生まれた。しかし、この弟は、跡継ぎの居ない私の兄の養子として、生後10ヶ月で日本に渡った。戸籍上は地球人のいとことなったわけだが、血のつながりは兄弟で、とても仲がいい。

この弟も、地球人の影響を受け、どうしてもホッケーがやりたいといい、幼稚園から始めた。当時の彼の憧れは、「お兄ちゃんが守っているゴールに、俺がシュートして入れてやる!!」という、勇ましいものだった。

彼も中学からカナダに留学させたい、という兄の意向があり、それなら、地球人ほど言葉の基礎を持たぬ彼には、カナダの国民的スポーツ、アイスホッケーを、厳しく訓練しておくよう、兄に勧めた。留学後、カナダの子供達と、スポーツを通じ、すぐ仲間になれるからだ。

そこで彼は、地球人が所属していた、高田の馬場のジュニアアイスホッケーチームに6歳から所属し、小学校高学年では、ついに、このチームの中心選手の一人として活躍するようになった。そして、全国大会にも参加し、北海道にも遠征した。

その全国大会で、地球人の弟のチームは、見事、全国3位の銅メダルに輝き、この記録は「東京のジュニアアイスホッケーチーム小学生の部」の過去最高位として、未だに破られていない記録だと思う。

何せ、北海道から東北地方の多くのチームは、けた違いに強く、当時の記録では、東京のジュニアアイスホッケーチームが全国大会の10位以内にはいるのは、奇跡に近いことだったのだから。兄夫婦もはるばる北海道まで遠征し、チーム関係者や選手達の父兄にまじって、応援に声を嗄らした。

そして、その北海道、東北の強豪チームのいくつかを倒し、大健闘した東京チームの快挙は、当時の新聞でも取り上げられ、報道された。それは、ホッケー好きの兄夫婦の、貴重な思い出ファイルとして、今も大切に保管されている。

そして彼は、外国からの招待チーム(ロシアやアメリカ)との親善試合にも、オール東京の選抜メンバーの一人として指名され、外国チームを迎えうった。ちなみに、留学したカナダの中学校では(兄とは違う英語教育の中学)、最初の年から学校の代表選手として、試合に臨むことができ、アイスホッケー体験では、兄よりずっと恵まれていた。幼稚園からの日本での厳しい訓練は、すぐにカナダで実を結んだのである。

小学校5年生の夏休みには、この弟もケベック留学を控え、地球人が当時在籍していた大学が主催した、3週間の、「ジュニアアイスホッケー特別サマーコース」に参加し、腕を磨いた。

その時には、フランス語や英語は苦手でも、彼は日本で鍛え上げた華麗な滑りで、地元の子供達にも、コーチにも、すぐに溶け込み、友達ができた。スポーツには、ほとんど世界の壁がなく、彼のホッケー経験は、こうして、友達作りに、大きな役割を果たしたのである。

兄弟で同じスポーツを楽しみ、高めあう姿を見るのは、親として最高の気分だ。数年後、そのアイスホッケー兄弟対決シーンは、横浜のアリーナに遠征した時、一度だけ実現した。

アタッカーとしてシュートを放つ弟も、キーパーとしてゴールを守る兄も、真剣そのものの男の戦いだった。私には今でも鮮やかに眼に焼きついて離れない、感動的なシーンだった。 結果は何度もシュート、防衛の繰り返しで、まあ引き分けだったように思う。

こうして、「弟の憧れ」というプレッシャーも受け、地球人のホッケー特訓には、益々力が入っていった。その甲斐あって、地球人がついに、学校代表の正選手に選ばれ、晴れて母校の名誉の為に、ゴールを守るようになったのは、公約の最後の年、5年生の時だった。

地球人は確かに、ヨチヨチ歩きのスケート練習から、猛特訓に耐え、宣言してから3年で、栄えある母校のユニフォームを身につけ、学校代表として試合に臨むことができた。私はその一年、地球人の努力と栄誉を称え、何度も太平洋を越えて、試合の応援に駆けつけた。

アリーナに居る東洋人は少なく、すぐに私は「地球人の母」として、チームでも有名になった。遠征試合の時には、選手と同じバスに乗せてもらい、選手に配られる、スパゲティなどのランチも、分けてもらって、すっかり皆と顔見知りになった。

やはり、自分の子供が出ている試合を見るのは、独特の興奮がある。特にゴールキーパーだった地球人は、パックを止めて当たり前、入れられればブーイングという、厳しいポジションだった為、相手チームの選手が、怒涛の勢いで地球人に迫り、シュートを放つ瞬間には、目を開けて見ていることが出来ず、何度も下を向いて祈った。

しかし、試合開始前とか、ピンチが迫ると、多くの味方の選手が地球人を激励しに集まり、こぶしとこぶしを合わせて、「頑張れよ!!」と励ましたり、何か言って力づけたりしているのを見て、「本当にスポーツっていいな!!」と、此方まで胸が温かくなった。

地球人のフランス語の進歩に、正選手になる前から一緒に汗を流した、多くのホッケー仲間が、大きく貢献してくれたことを、私は信じて疑わない。

なにしろ何度も言うように、アイスホッケーは、カナダの子供達の憧れのスポーツだ。国技といっても過言ではない。外国から来た留学生で、しかもスケートも覚束なかった地球人が、猛特訓を受け、自分たちのチームのゴールを守っていてくれる。

それだけで、地球人と他の選手の絆は深まり、いつも何か楽しそうにお喋りして、大きな声で笑っていた。地球人のアイスホッケーへの頑張りは、フランス語での学習への頑張りでもあり、大きな相乗効果をもたらしたものと、今でも私は確信している。

地球人にとって、母校の代表選手のユニフォームを晴れて身につけ、チームメートとともに戦い抜き、時にはアメリカまで遠征したこの1年は、素晴らしい青春の1ページとして、深く胸に刻まれ、永遠に忘れることはないだろう。

今、このブログで初めて言うね!! 「学校代表のユニフォームを身につけ、誇らしげに、氷上で活き活きと躍動する、ゴールキーパーの華麗な動き、とっても格好良かったよ!!地球人ブラボー!!」 (マタマタ親ばかで失礼!!)

2008年12月16日火曜日

地球人の頑張り(勉強編)

中学一年の科目を、すべて順調にパスした地球人が、二年生からアイスホッケーに狂い始めたことは、すでにご紹介した。しかし、二年生から、地球人は勉強の面でも、親元や義妹一家から離れて学寮入りしたにもかかわらず、自分で自分にプレッシャーをかけ、実に頑張って、よい成績をあげるようになっていった。

こう書くと、何だか親の自慢みたいで恥ずかしいが、そうではなく、実は地球人がここまで頑張れたのには、大きな原因があった。

それは、当時のこの学校の、特別なルールによるものであった。この学校には、前期に4回、後期に4回のテストがあり、年間の成績が発表されることは、すでに少し触れたと思う。しかし、それとは別に、この学校には、とても粋な計らいがあった。

それは、普通クラスにはあったのかどうか分からないが、地球人が所属していた特別クラスには、間違いなくあった。前期の4回のテストと日常成績、及び、後期の3回目までのテストと日常成績が、十分満足の行く年間成績レベルに達していると認められる学生には、後期の4回目のテストを免除し、他の学生より、一週間以上早く夏休みが始められる、というシステムだった。

何しろ、地球人のブログを見ていただくとおわかりの通り、地球人には、実にやりたいことが多い。それは、昔も今も変わらない。従って、地球人は1日も早く日本に戻り、家族に会い、ホッケーの練習や、アルバイトがしたくてしたくてたまらなかったのである。そこで彼は、一心不乱に勉強し(?)、「絶対に最終試験免除の恩恵に預かるんだ!!」と心に決めて、頑張っていた。

その頃、日本の我が家は、住み込みの手伝いは2人ぐらいで、あとはすべてアルバイトでまかなっていた。アルバイトをさがすのも、それ程難しくない時代だったが、アルバイトの従業員に関しては、ちょっと叱ると次の日から来なかったり、いきなり辞めたりで、当時、経営を任されていた兄夫婦の、頭痛の種だった。

そこで、確実に夏休みには3ヶ月戻ってくる地球人を、夏の間のアルバイトとして、従業員の頭数に入れていた。地球人は、布団上げ、布団敷き、掃除、配膳などなど、下働きとして、実によく働いた。当時の兄夫婦は、「こいつはまだ中学生だけど、よっぽど変な大人より気がつくし、掃除なども真面目にやるから頼りがいがある!!」といって、重用していた。

それに、外国人でも滞在する時には、通訳としても力を発揮していた。ともあれ、彼はこうして、我が家でアルバイトしたり、何か欲しいものがあって、お金がたりないときなどは、コンビニの夜班の時間給はかなり高いことを発見し、働いていた。そして、その合間には、ホッケーの練習と大好きな秋葉原見学に自転車で出かけるなど、日本でも行動的で、毎日忙しそうにしていた。

のちには、兄の友人から、お嬢さんにフランス語を教えてほしいなどと頼まれ、家庭教師までしていた。このように、プログラムが一杯のライフスタイルは、すでに地球人の小学校からの習慣で、色々な独立訓練を積んでいた地球人には、少しも辛いことではなく、むしろ充実した生活のように見えた。

こうして地球人は、毎年、最終試験免除の特権を確保するため、真面目に真面目に(???)勉強し、他の学生より、一足早く夏休みを迎え、それは高校を卒業する年まで続いていった。

頑張っている学生には、粋な計らいをするこのシステムが、果たして教育的に良いのか悪いのか、私にはわからないが、少なくとも、地球人とその家族には、本当に本当に、有り難い制度であった。

2008年12月14日日曜日

地球人の親友

中学2年生になった頃、地球人に、生涯の友と呼べる親友ができた。彼の家は学校からオタワ寄りに30分ほど行ったところにあり、オンタリオ州にあった。彼は完全にフランス系の青年で、ちょっとベートーベンに似ている。地球人が初めて私に彼を紹介してくれたのは、学校の裏のスキー場に、地球人の滑りを見学に行ったときのことだった。

彼も一緒に滑りに来ていて、ロッジの中で眺めていた私の元に地球人と一緒にやって来て、初対面の挨拶をした。笑顔のとても綺麗な、感じのよい青年で、おやつを一緒につまみながら、少しお喋りした。(勿論英語で)

その後、地球人と彼の仲は益々深まり、その年の夏休みに、彼は日本の家にやって来た。彼は日本語にも日本料理にも日本の生活習慣にも大いに興味を持っていて、我が家の皆と仲良くなった。

地球人も、大好きな彼の訪日に、毎日が楽しくて楽しくて、一緒にあちこち出かけていた。彼は、梅干も納豆も味噌汁も大好きで、和食が大のお気に入り。日本での生活は、言葉以外、全く問題なかった。

スポーツは、テニスがとても上手で町の代表選手だったが、勿論、カナダの子供として、スケートも楽しめ、よく地球人とホッケーの練習もしていた。地球人のブログのスライド写真に、確かホッケー姿の彼が出ていたような気がする。

地球人もよく彼のご両親の家にお邪魔して、本当に可愛がってもらった。地球人には、その後もたくさんの友達ができたが、続けて付き合っている友達としては、彼が一番長いと思う。

二人は、よき友であり、よきライバルであり、お互いに刺激しつつ、色々なことに挑戦していった。彼が居なかったら、地球人が真剣にスペイン語習得に興味を持ったかどうかわからない。

この親友は、若い時に多言語と異文化を吸収したいと願い、高校を卒業と同時にエクアドルに一年、語学留学した。エクアドルの公用語はスペイン語で、地球人は彼に会いにいって、3週間ほど、エクアドルに滞在した時、すっかりスペイン語に魅了され、大学2年の夏にスペインとドイツに短期語学留学した。

勿論スペインの大学では、スペイン語を、ドイツの大学ではドイツ語を学ぶ為だ。私は勿論大賛成で、送り出した。これは当時、地球人が勉強していた大学の交換留学制度に参加したもので、スペインの大学とドイツの大学で取得した単位は、そのまま、カナダの大学の公認単位として、数えられた。

親友の彼は、エクアドルから戻ると、やはり、地球人とともに学びたくて、同じ大学をめざし勉強しなおした。1年遅れで同じ大学にパスし、それからはモントリオールで、地球人と同じアパートをいつもシェアし、付き合いはいまだに続いている。

地球人の大学卒業後、一時完全に勉強を離れ、音楽中心に「夏休み半年充電期間」を一緒に我が家で過ごしたのも、彼ともう一人の友人だった。 二人で青春時代の喜びも、悩みも、苦しみも、シェアしてきたといえるだろう。

そして、「夏休み最後の湖畔コンサート」のメンバーとして、彼はギターで参加した。これも地球人の忘れられぬ思い出の一ページだろう。

私は、子供に親の世界を押し付けるより、親が子供の世界に下りてゆく方が、とても楽しいと感じる。たとえば、アイスホッケーも、地球人に紹介されて、初めてこんなスポーツがあるんだと知ったほど、その面白さも含めて、未知の世界だった。

そして、すくなくとも地球人の周りの友達は、本当に色々な事が楽しめる多才な人が多かった。勉強ばかりの偏った教育があまり好きではなく、バランスのよい育成を心がけていた私は、地球人の周りの友人を見て、大いに安心した。

「地球人の音楽教育」のところで出てきた、「キーボードを楽しんでいた友人」というのが彼で、ピアノ、ギター、ドラム、ビリヤード、ホッケー、スキー、ゴルフなど、彼と遊び、彼と競って楽しめることが多い地球人はラッキーだ。

いまだに地球人がカナダに戻ると、彼は必ずギターを抱えてやってくる。飲むと大声で歌を歌い、クラシックギターの腕前も、会うたびに上達しているように感じる。

子供の時から、地球人の友人と一緒に楽しみながら会話すると、何だか私にも新しい世界が開ける気がする。これも私が、子育ての中で、いつも心がけていた楽しみ方のひとつだ。我が家には、地球人が旅行するたびに世界中から買ってきた、お土産の、名も知らぬ楽器が多い。

又、地球人が我が家に戻り、この親友がギターを抱えてやって来て、将来2人の子供達も色々な楽器で仲間に加わり、音楽を楽しめる日が来たら、どんなに賑やかで楽しい事だろうと、今から想像している

ちなみに、この親友は、その後もスペイン語を常用し、数年前に南米出身の女性と結婚した。そして、女の子の双子のベビーがうまれた。すでに1才8ヶ月の可愛い盛りで、とても幸せそうだ。

地球人はその中の一人のゴッドファーザーとなっている。さてさて、地球人が本物のファーザーになるのは???その日を待ちかねる、今日この頃のテツママであるが、、、、。あ~~あ!!でも花嫁探しが先か!!残念!!

2008年12月12日金曜日

多言語習得の効用

地球人の中国語はどうなったのであろうか。当時、この中学には、台湾からの留学生もいて、そのご両親は、私とも顔見知りだった。学校のすぐ側に住んでいて、台湾に居たときから知っていた、このご一家の家に、地球人はよく遊びにいっていたし、学校でも子供達と会うことが多かった。

そこで、当然、北京語や台湾語も常用されていた。又、2年ぐらい上には、日本人の留学生も居た。しかし、東洋からの留学生で、英語教育をあまり受けずにこの学校に留学してきた学生は、一様にかなり苦戦していた。

特に私が心配した、歴史、社会、作文、宗教などでは、語彙に問題があり、他校に転校したり、再履修を強いられる学生も多かった。私はやはり、英語教育で幼稚園と小学校を終えさせてから、留学させたことは、かなり地球人のフランス語習得に、役立ったことと思う。

この多言語習得後に留学させたことには、もう一つの思いがけない効用があった。それは、「いじめ」の問題から、地球人が逃れられたことである。やはり、何処の国の学校でも、多かれ少なかれ集団生活をする以上、身分の上下や、いじめに近いことは起きてくる。この学校にも、眉をひそめる様な言動をする学生も多少だが居た。

彼たちは、大人しい子供を軽く威嚇したり、少し意地悪などをすることもあった。地球人も見るからに東洋人であり、目立つので、初めは標的になりそうになった。

しかし、私が学校のアリーナに顔を出すと、地球人はすぐに日本語で私に話しかけ、台湾からの友達とは北京語や台湾語で話し、寮生とは、自然に英語で話している姿を目撃した学生達の間で、いつしか、「あいつはなんだか、かなりたくさんの言葉が話せて、スゴイらしいよ!!」という、評判が立ち始め、そのコワモテ学生達にも、一目置かれるようになっていった。

コワモテ学生に多少意地悪をされかけていた学生の幾人かは、自然と地球人のまわりに集まり、助けを求めるようになった。自分の事では、喧嘩を好まぬ地球人も、ときどきコワモテ学生に、あまりイジメをしないよう注意したり、よく話し合いをもったりするようになった。

すると、そうしたコワモテ学生達も、色々な悩みを抱えていて、その相談に乗っているうちに、すっかり彼達とも話が通じ、仲良しになった。地球人はこうして、どちらのグループにも属さず、自然と融和剤のような役割を果たすようになり、多言語習得経験から生まれた、一目置かれる存在感が、思わぬところで平和利用されていくようになった。

やはり、何かひとつでも、自信を持たせてから海外留学に送りだすことは、知らず知らずのうちに、あまり他人に惑わされることなく、自分を見失わぬようになるばかりか、他人の痛みにまで思いを馳せる心の余裕が生まれてくることを知り、私はとても嬉しく思った。

とにかく、欧米、カナダの子供達は、自分で働きながら勉強するような独立心の強い子が多く、地球人もそんな良いところはすぐ取り入れ、自分の生活のペースをキチンと守る努力もし、どんな学生にも真っ直ぐな心で向かおうと心がけていた。

私は、これまでの、多言語習得と厳しい独立訓練の経験や失敗が確実に役に立ち、心身ともに頼もしく成長し続けている地球人の、楽しそうな留学生活を知り、心からホッとした。

2008年12月10日水曜日

自己管理能力の実践

寮生活を始めた地球人は、学校の授業や外の社会ではフランス語、寮では英語とバランスよく、両方常用するようになっていった。そして、入寮とともに、地球人は生活面でも、すべて自分でコントロールしていかなければならなかった。

前もって地球人の金銭独立訓練はしてあったが、いよいよ実践するときが来たのだ。これまでは、やはり、何かと義妹夫婦の意見も強く、本格的な独立は入寮からと言える。

寮の消灯まえに済ませること、翌日の準備、支払いなどなど。勿論、すでに地球人名義のチェックを渡しておいたので、必要だと思われる文房具、教材、スポーツ用具など、自分で考え、自分で管理するよう言いおいてあった。

そして、その他に、まったく、後で親に報告する必要のない、「小遣い」を別に積み立てて置いた。すべてのカードや口座の通帳は地球人が保管していたので、私は普段見ることがなかった。

この頃、「ねえ、ママ、冬に備えてスキーとスノーボードを買いたいんだけど、いいかなあ!!」と電話で連絡をしてきた。さすがにちょっと値がはるので、私にお伺いを立てたのだろう。あの環境で、欲しがるのは当然だと、勿論すぐに許可した。スポーツ大好き人間の地球人は、アイスホッケー以外にも、スキー、スノーボードにも大いに興味を持ち始めていた。

地元の人は、「アイスホッケーをしている人は、大体スキーもスノーボードも覚えが早く、すぐ上手になるよ!」と言うが、これらのスポーツはバランス感覚がとても大切で、相乗効果があるらしい。地球人もすぐ、両方ともかなりの腕前になっていった。

このころ、私が注意していたことが二つある。それは、疾病はあまり心配しなかったが、怪我に対する保険である。何しろホッケーは、スティックを持って、猛スピードで、ぶつかり合う氷上の格闘技だ。特にゴール前の物凄いぶつかり合いを目にしたことがある人なら、私の気持ちは大いに分かってくれると思う。

カナダの中学生は、スケートを履いて、防具をつけると、もうとても巨漢が多い。猛然とゴールにシュートし、ぶつかって来る巨漢を、ゴールキーパーは、20キロの防具を背負ったまま、相手にするのだ。練習でも試合を想定して、皆、かなり熱くなる。それに、スキーや、スノーボードもやりたいという。

心配は、骨折や怪我。だから、私は、学校の強制保険以外にも毎年日本で保険を掛けていた。幸い、一度も使われることなく、すべて無駄になったが、こんな保険は無駄に成った方がいいに決まっている。

それと、万が一、怪我をして病院に入院する時のことも考えておかなければならない。当然、すぐ飛んでゆくとしても、まず最初にデポジットをかなり病院に払う必要がある。勿論、義妹夫婦がなんとかしてくれるだろうが、できるだけ、迷惑を掛けたくない。

従って、すでに地球人は中学一年から、銀行にはかなりよいお得意さんとなり、自由に預金を使える身分となったが、地球人は決して、無駄遣いはしなかった。次に彼の元を訪れた時、私は一応、銀行預金口座を調べてみた。なんと、「小遣いとして、好きなように使ってもいいよ!!」と渡した預金には、一銭も手をつけていないし、生活費も浪費などした様子は全然ない。

「ねえ!!小遣いは自由に使ってもいいんだよ!!友達との付き合いもあるでしょ??」と訊いた私に、地球人は、「ママも大変だから、お小遣いはいらないよ!!僕、もう、学校の側のイタリアンレストランでアルバイトしているし、店の料理は、何でも食べ放題なんだ。飲み物も、、、、。おばさんもおじさんも親切で、とってもよくしてくれるしさあ!!」と嬉しい事を言ってくれた。

早速、そのレストランのご主人夫婦にお土産を持って、お礼の挨拶にいった。先人曰く、「可愛い子には、旅させよ!!本当にその通りだ!!」と、目頭が熱くなった。

かくして、地球人は、留学2年目にして、早くも放課後、自分でアルバイトにも挑戦し、好きなものは自分で働きながら努力して手に入れ、勉強に、スポーツに、趣味にと、忙しい時間を過ごして行った。

2008年12月8日月曜日

入寮と英語の維持強化

中学一年も終わりに近づいた頃、私は予定通り、地球人の2年生からの入寮計画を実行に移した。もともと、最初から、学寮生活をさせたかったのだが、夫の両親の心配もあり、取りあえず一年義妹の家にお願いしたが、お陰で、フランス語も前半の期末試験ですでにクラスの平均点越えの公約を果たし、あとは、語彙を足すのみ。

学校の授業や、日日の生活から入る膨大な語彙を覚えていくのは、時間の問題。後半の学期の小テストぐらいから、歴史、地理、社会なども、十分平均点をオーバーし、完全について行ける見通しが立ったからだ。これまで、厳しく鍛えてくれた、義妹一家に心から感謝し、夏休み前には、入寮の許可も貰った。

私が、どうしても学寮生活をさせたかった理由は、ふたつあった。一つ目は、規律正しい生活と、厳しい躾。二つ目は英語を常用する環境の設定。幸い、この中学高校は、モントリオールとオタワの中間ぐらいに位置していて、やや、モントリオール寄り。

歴史の古い名門校のひとつということで、オタワがあるオンタリオ州(トロントなどの大都市も含む)からも、かなりの学生が越境入学し、学寮にいた。

越境入学してきた学生達が、家や学校で使っていた言葉は勿論、英語。ケベック省に隣接している地区では殆どバイリンガルの家庭が多く、フランス語と英語で育てられている子供が多いが、オンタリオ州はどちらかというと、得意な言葉は英語の学生が多く、この学寮にも英語を得意とする学生が大勢いたのである。

言葉は、環境、導入、常用、強化(語彙や知識)の繰り返しで、固定されてゆく。地球人はすでに小学校まで英語を常用していたから、耳は大丈夫だが、小学生まででは語彙が少なく、常用しないと高いレベルの知識と語彙は増えない。

その為、私はオンタリオ州から越境入学している学生と、寮の部屋で存分に、英語で生活してほしいと思っていた。これは、家庭ではフランス語オンリーの厳しいルールがある、義妹の家では、かなり難しい願いだった。

今は変わっているだろうが、当時のケベックの中学高校には、勿論、英語の授業はあるが、時間数はすくなかった。前に音域の説明の時、お話したように、英語耳を持っている人には、フランス語を入れるのは発音的にはあまり問題ない。しかし、フランス語耳の人が後で英語を入れると、かなり変な訛が残る人が多い。

フランス語は英語に比べて、使う音域が狭いからだ。私は、かなり、ケベック人で英語に独特な訛がある人に出会っているし、英語が全く出来ない人も、田舎には多い。「英語が上手だな!!」と思うと、大抵英国系の移民をルーツに持っている人達や、かなり長いこと、カナダの英語圏や外国で生活した人達が多かった。

地球人のビザは、最初の3年間は毎年更新しなければならなかったので、学校から2年生の入学許可証を出してもらい、ビザの更新に入った。勿論、問題なくカナダで更新できた。

地球人は本当にこの最初の一年、苦しかったことだろう。しかし、我が子ながら、シラ~~~ッ!!と難題をクリアし、あまり大変な姿を家族に見せないので、「多分、地球人には、すでに男の美学があるのかも???」と思ったぐらいだ。

しかし、どうもそれは思い違いで、この子供時代から多言語習得で鍛えられたスーパー聴力(?)の持ち主、地球人には、ほんとに、あまり難しいとへこたれる気持ちはなかったそうだ。

後に追加した殆どの言葉が、みんな、それぞれの国の人に完璧にネイティブの発音だと賞賛していただけたから、多分、私が予想したとおり、すでに開かれている15000ヘルツまでの音域内の言葉は、彼の耳を通して聴けば、殆どズレがなく、かなり早く、正確に、聴き取れたのだろう。

「どうしたら、そんなに早く聴き取れるようになるの??」と、ある日、地球人にお伺いを立てた私に、「あのさあ!!よ~~く聴いていると、どの言葉も、独特の切れ方があって、その切れるところを中心に音をとっていけばいいのさ!!」との仰せ。

説明を聞いても、、、???、、、とりあえず仰せのとおり、色々な言葉のテープを、一心不乱に耳を澄ませて聴いたが、もう、凡人の老ママの、哀れなヘボ耳には、何処が切れるところなのか、、、???

かくして、地球人の留学二年目は、寮生活による真の独立生活への挑戦、アイスホッケーの代表選手への挑戦と、あいも変わらず、多くの目標を自らに課し、飄々と始まっていった。

2008年12月6日土曜日

地球人の凄まじい執念

私には、地球人に英語を入れたときも、フランス語を入れたときも、この地球人のスポーツ好きが、大いに、語学の進歩を促した(聴力と会話)原因の一つであると分析している。小学校では、バスケットや球技など、中学からは、アイスホッケー。

直接にスポーツそのものが、語学に与える影響は少ないと思う。しかし、チームプレーに参加することによって、「勝利に向かって心をひとつにする」という、友人との連帯感が生まれ、仲間意識が圧倒的に強くなる。

そこで、試合後もあれこれ反省し合い、いつも作戦などを話し合い、お互いに助け合おうとするためよく喋る。

つまり、物静かなクラスの中で、たまに友人と交わす言葉と違い、強い連帯感に基づいたお喋りが多くなるのだ。小学校時代から、地球人がこうしたスポーツやクラブなどの活動に積極的に参加したことが、知らず知らずのうちに、語学の進歩を大いに早める効果になったのでは、と考えている。

勿論これは、早める効果のあくまでも一つの要因だけで、本を読んだり、勉強したりもかなり大変だったことだろう。しかし、健康の為にも、環境に早く慣れさせる為にも、子供を健全に留学させたいと願うなら、両親はまず、活発で、行動力あふるる子供を育成しておくことが、最優先課題ではないかと思う。

スポーツや、音楽や、芸術には、世界の壁は殆ど存在せず、すぐに仲間意識を強くし、間違いなく孤独から人間を救い、活力を与えてくれる命の源だからだ。

ともあれ、地球人の、ホッケーで学校代表の椅子を狙う執念は、凄まじかった。日本のスケートリンクは、昼間は一般のスケート愛好者に開放している。だから、ホッケー練習用に貸し出される時間は、この一般公開の前か後の不便な時間帯にしかない。

当時は、朝練と呼ばれる、5時半ぐらいからと、夜中12時からなどという変な時間にしか、ホッケーの練習はできなかった。だから、兄の友人も、「高校時代、練習していた時には、いつも近所の人から、朝帰りや夜中にうろつく不良みたいな目でみられちゃった!!」とわらっていた。

何しろゴールキーパーの防具は、全部で20キロを越す。その重い防具を身につけて、キーパー用のスケート靴を履いたまま、シュートされたパックを止める為、膝まづき、すぐに又立ち上がって態勢を立て直すなど、ゴールキーパーの動作はかなり激しい。

両足を開いて脚でパックをとめ、ゴールへの進入を防ぐなど、基本動作を繰り返し繰り返し訓練させられた後、他のプレイヤーと混じって、20キロの防具を背負ったまま、アリーナのスケートリンクを何周も全速で滑らされたり、そのハードな練習は、見ているこちらまで、疲れ果てるメニューだった。

早朝や夜中が多かったため、練習には、夏休みを日本で過ごしていた私も、タクシーでよく送って行き、終わるまで付き合った。何しろ激しすぎるスポーツなので、練習前は軽いサンドイッチぐらいしか食べられない。沢山食べ過ぎると、吐いてしまう。

たっぷりの水と、練習後のお弁当を持って、本当によく高田の馬場のアリーナに通った。中は氷で物凄く寒いので、見ている私には、夏でも厚手のジャンバーと膝がけは、必需品だった。

コーチなどから話を聞くと、こんな練習は、1日一度でも相当疲れるそうだ。しかし、地球人は自分から志願して、特訓練習後も更に他の大学のチームを紹介してもらい、キーパーとして、参加させてもらって、実戦経験をつんでいた。

つまり1日合計5時間ぐらい氷に乗っていた日も多かった。従って、こちらも二食分ぐらいの食料持参でないと、アリーナ内のカップラーメンばかりになるので、たくさん作って持って行き、食べ盛りの地球人の胃袋管理にも注意していた。

毎朝5時半からの練習というのは、スケート場での身支度する時間も考えると、4時半には家を出なければならず、3時半ごろからお弁当づくり。親も半端な気持ちじゃ応援できない激務だった。しかし、練習を終え、疲れていても、本当に嬉しそうに戻ってくる地球人を見ると、「ようし~~!!又、明日も頑張るか~~!!」という熱い気持ちが湧いてきた。

それ程、この頃の地球人のホッケー熱は、火傷をするほど熱く、こちらに伝わってきた。こうして、地球人は毎年夏、我が家のアルバイト、ホッケーの練習、秋葉原通い、友達との交際、と毎日時間を無駄にすることなく、忙しく夏休みを過ごして行き、「ホンじゃね!!又来年!!」と言い残し、颯爽とカナダに戻っていった。

毎年夏が近づくと、日本の家族は、「オイ!!又、テツ台風がやってくるぞ!!あいつが居ると、なんだかこっちまで、忙しい気分になる!!」と噂しながらも、その帰国を待ちかねていた。

2008年12月4日木曜日

ホッケー猛特訓開始

地球人が留学して、初めての夏休みが始まった。彼は、大きなアイスホッケーの防具を抱え、かなり背も伸びて帰って来た。勿論、その間、私は大学の春休みを利用して一週間ほど、様子を見にいったので、別にそれ程、離れている時間は長くなかったが、、、。

当時の地球人の頭は、アイスホッケーのことで一杯。とにかく凝り性なのだ。勿論、裏山でのスキーデビューも果たしていた。カナダ東部の冬は長く、スポーツを楽しむなら、ホッケー、スキー、スノーボードは花形だ。彼は、春休みの訪問時は、いつも私をアリーナに呼びつけ、自分のスケートの練習風景や、自分の学校と他校の試合などを観戦し、私に解説をしていた。

地球人の姿を見つけて近寄り、何だか私にはわからないことをぺらぺらと話しかける学生に、自分もぺらぺらと答えていたので、後で訊くと、色々と私のことについて、訊かれたらしい。

ともあれ、地球人がクリスマス休暇で戻った時、「日常会話ぐらいなら、もう問題ないよ!!」と言った言葉は、嘘ではなかった。それは、学校のそこここで、積極的に友人と交わったり、家でいとことぺらぺらやっている様子からも、良く分かった。

地球人はたしかに、フランス語の試験の成績でも、「半年!!半年待ってくれ!!平均点を越える」という公約を守ったし、もしかしたら、ホッケーもやるのかな???と思ったが、こればかりは、氷上にどの位長く居たかという、練習の積み重ねがものを言うそうで、無理をして、怪我をしないよう、そればかりを願っていた。

なにしろ、皆さんどの程度このスポーツを理解されているか知らないが、「氷上の格闘技」と呼ばれるこのスポーツは、とても激しいスポーツで、怪我も多い。前歯のない選手などはざらだ。アタッカーは1分半ぐらいに一人ずつ、すぐ新しい選手と代わる。

1分半というが、氷を蹴って、全速力でパックを追ったり、シュートしたり、ディフェンスとぶつかりあったりしている選手には、この1分半ぐらいの時間が、最速のスピードを維持する、限界の時間だそうだ。

後に年寄りの冷や水で、普段ゴルフぐらいしかせず、体が鈍っていた兄が、「昔、俺もスケートでは結構鳴らしていたんだから、、、、」と、友人が参加しているホッケーの同好会に参加して試合に出たとき、危なっかしくて危なっかしくて、義姉が、「お願い、止めて~~~!!」と叫んだぐらい体力が追いついて行かず、戻ってきて、「いやあ、このスポーツは本当に凄くきつい!!心臓が喉から飛び出すかと思った!!」と述懐していた。本人には、とてつもなく長く感じた時間だろうけど、僅か1分そこそこの出場でこの有様。

とにかく、そんな激しいスポーツに、正式に挑戦の宣言をした地球人は、日本のホッケーのセミプロに厳しい訓練を受ける覚悟で、夏休み休暇に戻ってきた。

ただただ、卒業前の一年、学校の正選手となって、母校の為に戦い、その雄姿を私はじめ、応援してくれる人々すべてに見せつつ、自分も楽しみたい一心で、、、。まだ、地球人がスケート靴を生まれて初めて履いてから、わずか半年後の猛特訓開始だった。

2008年12月2日火曜日

又、又、無謀な挑戦!!

地球人は、フランス語の公約を達成し、クリスマス休暇を楽しむため、一人で元気に日本に戻ってきた。「どう?フランス語、大変だったでしょう??」と訊く私に、「うん、ちょっとね。」と簡単に言って、「でももう、大丈夫だよ!!」と付け加えた。

大丈夫というのはどんな意味か分からなかった私が、再度確認すると、「もう、別に生活する会話には、不自由していないよ!!」とあっさり答えた。地球人がフランス語の環境に入って、まだ5ヶ月目ぐらいの時だった。

印象としては、英語を入れた時より、かなり早い。でもそれには、義弟の、家族に対する厳しいルール、つまり、「家ではフランス語しか話させない!!」というケベック人独特の強いプライドが、大いに役立ったものと思われ、感謝せずにはいられなかった。やはり、言葉を早く入れるには、絶体絶命の環境が最高で、無理にでも使っていれば、すぐに慣れてくるからだ。

フランス語の公約を果たした地球人の新たな目標は、もう、勉強にはなかった。彼は、「ねえ!!ママ、お願いがあるんだけど、、、、。アイススケートの靴、買ってもいい??」とねだった。

「エッ!!アイススケート??」と訊く私に、「ママ、アイスホッケーってカッコいいよ!!僕もホッケーやりたいんだけど、クラブのコーチに言ったら、まずスケートから練習しなくちゃ、とてもホッケーはできないって言うから、、、、」と、すでに夢はホッケーに飛んでいる。アイスホッケーの素晴らしさばかり、トウトウと語って、彼は日本で買った、新しいスケート靴を抱え、又、ケベックに戻って行った。

確かに、あの立派な学校のアリーナを見学してきた私は、カナダの国技とも言えるアイスホッケーに、この学校が、どれ程力を入れているのか、すぐに分かった。予想どおり、この学校のアイスホッケーチームはかなり強豪で、正式な第一グループの選手になるには(正選手)、大勢の希望者と一緒に厳しいテストに参加して、見事パスしなければならない。

正選手は学年で僅か20名そこそこしか選ばれないのだ。その正選手達は、栄えある学校のユニフォームの着用を許され、ホーム用、ビジター用と2種類準備して試合に臨む。他校との交流試合にも始終出かけて行き、時には国境も越えて、遠くアメリカにまで遠征していた。

そんな選手達の練習や試合の風景を見ていたら、地球人の体は、やりたくてやりたくて、ウズウズ。堪らなくなってしまったらしい。そして、まだスケートをやり始めてすぐの頃、無謀にも、「俺、この学校を卒業するまでに、必ず、学校の正選手になって、あの格好いいユニフォーム姿をママに見せてやる!!」と宣言してしまったのだ。

これを聞いた義妹夫婦は呆れたような顔をして、「無理、無理、無理!!カナダの子は2歳ぐらいからスケート靴を履いて滑り始め、4歳ぐらいからは、地元のクラブに入り、厳しい訓練を受けている子がウジャウジャ一杯。そんな子供でも、この学校では正選手になれず、B クラスや Cクラスに甘んじているのがたくさんいるのに、、、、、」と、頭から相手にして貰えなかった。

確かに地球人のいとこの、2歳ぐらい下の男の子は、かなり前から、地元のクラブチームで特訓を受けていて、義弟も義妹も、週に3回ぐらい交代で送り迎えをし、週末は試合にも参加していた。試合は大抵、隣町の同年代の子供たちとのトーナメントで、かなり頻繁に行われており、自分の町や地区を代表する子供のチームを応援する、親たちのフィーバーぶりは、凄まじいものだった。

「ああ、カナダ人は本当にアイスホッケーが好きなんだなあ!!」と私は初めて知った。日本では、まだマイナーなスポーツのアイスホッケーだが、カナダの子供達にとっては憧れのスポーツで、アイスホッケーの英雄の背番号を背負ったチビッコの可愛い滑りには、思わず微笑んでしまうほど。ヘルメットを被り、防具をつけ、氷の上をヨチヨチと滑っている2~3歳のチビッコは、本当にロボットみたいで可愛かった。

ご存知だと思うが、ケベックの学校制度はアメリカや日本と違い、中学高校が連結していて、5年制。その後2年間のセジェップ(専門学校)、それから大学に進む。すでに地球人は最初の一年は、スケートだけで終わり。本格的なホッケー練習など、したこともない。

もし、「正選手になる!!」という無謀な公約を本当に果たすつもりなら、あと僅か3年しか与えられた時間がない。しかし、何度も言うようだが、地球人は頑固で、一旦自分でやると決めたことを誰かに、「無理、無理、無理!!」などと笑われると、「よ~~し、やってやる~~う!!」という静かな反骨心がかなり強い。

まだ、1年生の終わりの夏休みにはかなり間がある頃、地球人は日本の兄に、「今年の夏休は、ぜひ、日本のアイスホッケーチームで特訓をしてもらいたいんだけど、ジジ(地球人は兄をこう呼ぶ)、誰か適当な人知らない??」と連絡してきた。兄は、早速、同じ旅館組合の友人が、昔、高校、大学時代にアイスホッケー選手だったことを思い出し、連絡してくれた。

そもそも、日本ではあまりメジャーなスポーツではなく、やりたくても、防具を買うだけでもかなり高く、なかなか子供には習わせ難いアイスホッケー。北海道や東北などの寒い地方なら、野外アリーナも多く、ポピュラーだが、まさか東京の、しかも兄の遊び仲間の一人に、偶然にもそんな人が居たなんて、、、、ここでも本当に地球人は強運の持ち主だ。

この友人は、高校、大学リーグでかなり鳴らした選手だったとかで、アイスホッケー界に顔も広く、早速、高田の馬場にあるアリーナのコーチに渡りをつけ、地球人をそのコーチと仲間達で、特訓してくれるよう、アレンジしてくれた。

地球人は、夏休みが来る前に、カナダで古い防具を買いそろえ、張り切って日本に帰国した。彼の選んだポジションは、何ともっとも責任の重い、ゴールキーパーだった。