皆様、長い間、つたないブログをご愛読くださり、ありがとうございました。お蔭さまで地球人は、2008年春、無事に社会人となり、私の多言語教育指導(成人してからは、維持向上へのアドヴァイス)もすべての役目を終えましたので、このブログもこのあとがきで、一旦終了させていただきたいと思います。
このブログで、すでに大人になってからの、地球人の多言語常用と、維持の努力について触れたり、又、旅の色々な思い出に触れたのも、言葉の壁を、ある程度乗り越えると、多くの、「未知への挑戦」への勇気が、自然と広がることをお伝えしたかったからです。地球人は世界中を、ただ観光レベルだけではなく、一般の現地庶民生活レベルの目線で楽しんでおり、そんな地球人の様子を、少し、ご紹介したかったからです。
多くの人が多言語習得に挑戦しますが、私自身も含め、なかなか言葉は固定しにくく、子供時代、外国生活を経験し、大いに使っていた人々も、その後の不注意から、残念ながら固定せず、忘れてしまう人も多く見られます。
それほど、言葉を高いレベルにまで引き上げ、固定させることは難しく、長い常用期間を維持してこそ、終生忘れえぬ言葉となることを、これまでの地球人の維持強化の努力や旅の体験も含め、ご紹介することによって、「多言語習得は、親子で果たす、長期プロジェクトである」と、強調したかったからです。
子供さんが、適切な環境で、言葉の導入を果たしたら、親御さんも、維持、強化、固定への環境設定や支援を、ぜひ、考えてあげてほしいのです。子供は覚えるのも早いかわりに、忘れるのも、とても早いのですから、、、。勿論、大人なら、なお更、、、、。
実質的には、地球人の中学校の選定、フランス語の導入、そしてその後、英語の維持強化のため、学寮生活を実現させた時点で、私の積極的な多言語訓練の努力は終了しており、後は地球人本人が、語学訓練に欠かせぬ、環境、導入、常用、固定を繰り返し、今日に至っております。ポスドクの地を日本で過ごした地球人の日本語も、かなり高いレベルに到達し、母国日本の企業に就職までできて、今、親として、この上ない喜びを感じています。
勿論、日本に来た強い動機は、素晴らしい、専門分野の研究環境があったればこそですが、、、、。何度も言うように、多くの言葉を、終生忘れぬ言葉として、高いレベルに固定してゆくには、気の遠くなるような忍耐力を持って環境を作り、言葉の学習継続と、常用頻度を、バランスよく保つ努力を続けなければなりません。
そう書くと、「ああ、とても無理!!無理!!私とは別世界のお話!!」と簡単に諦めてしまう親御さんも居るかもしれません。しかし、そんな方は、ぜひ、地球人自身のブログに入って、「テツ流言語習得法の4」を読まれ、立ち止まってほしいのです。
そして、彼の言う、「子供の立場から、親へのお願い」というところを読み、子供さんの為に、ぜひ、真面目に、考えてあげてほしいのです。
地球人は、自分自身の感想として、子供時代の言語パワーが、如何に素晴らしいものかを、書いています。そして、どんな子供でも持ち合わせている、この言語パワーを、「大人の常識で、過小評価しないでほしい!!」と、述べています。
そして、「多くの言葉を同時進行して学んでも、混乱はない!!」と、断言しています。だから、皆さんも本当に真面目に、この問題に、向かい合ってみては如何でしょう!!お金や物を残して上げるより、貴重な活きた財産を、子供さんの未来の為に、残して上げたいと願う方は、、、、、。
多くの言語学者も、「多言語による音の刺激が、スポーツ、知力、芸術感性、音感などの、潜在能力の開発に与える効果に、注目すべきだ!!」と述べています。人間の脳は、まだまだ未知の、解明できない神秘的な部分が多く、無限の可能性を秘めており、信じて試してみる価値は、おおありだと思うのですが、、、、、、。
地球人の後の、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語などの導入が、比較的短時間で、簡単に、正確な発音がとれ、日常会話レベルにまで、学習できたのも、それらはすでに、幼少時に耳が開かれた音域内の言葉であり、多言語学習に対する、彼なりの自信や、ノウハウが生まれていたからです。
だから、やり方はどうあれ、子供の耳の鋭敏な11歳ぐらいまでに、皆さんは皆さんのやり方で、諦めずに多言語訓練を続けてあげたら、将来、きっと、子供さんの身を助け、可能性を大きく開いてあげられるのでは、、、、と考え、このブログで少し、体験談をお話して見ました。
又、私自身の体験も振り返り、子供達が、外国生活を健全に続けるためには、言葉もさることながら、体力、精神力、判断力、生活力(金銭管理能力)を、事前に磨くことの重要性にも、ぜひ、目を向けてほしいと願って、かなり多言語訓練とは離れた、独立訓練にも触れました。
なぜならば、多言語環境作りには、外国との交流が、すぐに、頭に浮かぶからです。将来は、子供さん一人で、外国への冒険や、挑戦をさせたい、と願っている親御さんも、沢山いらっしゃる事でしょうから、、、、。
子育ては本当に、時間を巻き戻すことができない、貴重な時間の連続です。だからこそ、色々なことを大人が想定して、子供と十分話し合い、励ましあいながら、計画的に挑戦することが、大切ではないでしょうか。そうすれば、多言語習得も、きっと、いつかは叶う夢だと思います。
郊外型の家に関する記述は、安全な環境を選び、更に厳しい訓練を体験させ、留学を間近に控えた地球人との、親子共同作業(動植物の世話など)も消化しつつ、体力、気力、精神力を鍛え上げ、独立訓練の完成を目指す為、便利さとは逆行する生き方を選んだ、体験談です。
自分で体験してみた結果、私は周りの皆さんの、「時間も、お金も無駄なのでは、、、、」というご心配に反し、地球人の精神的な強さと、頼もしさと、思いやりの心を磨け、本当に、ここでの生活は、有意義な時間の連続だったと、今でも心から思っています。お金では買えぬ、貴重な体験を地球人にさせられる、絶好の環境でしたから、、、、、。
勇気を出して、一歩踏み出し、積極的に行動してみれば、何かが変わるかもしれないと、試行錯誤しながら、色々と模索した日々が、今ではとても懐かしく感じます。
ブログ前半の、私自身のエピソードのご紹介は、時期を逸してからの言語習得と、維持向上が、いかに困難であるかを、改めて皆さんとともに、考えて見たくて、体験談を書いてみたものです。きっと、多くの皆さんが、同じような経験と、感想を持っておられることでしょう。言葉の壁の高さと、維持の難しさを、、、、、。
そして、こんな私自身の不甲斐ない体験こそ、地球人への多言語訓練と、その維持強化プランを生み出す、強い動機となったのです。長い将来を見据え、生まれてすぐから行わなければならぬ、「国際人養成の為の、必要不可欠な努力」として、、、、。
日本人の母国語、日本語という、低音域の言葉の特異性に注目し、聴覚などの問題点を考え、多言語習得を子供さんに期待している多くのご両親には、ぜひ、母国語である日本語に、11歳ぐらいまでで耳が固定されてしまう前に、広い音域を確保する為、早めに多言語訓練を開始されることを、改めてお勧めし、長いブログの筆を、おかせていただきます。
この体験ブログが、現在子育て中のご両親や、将来の子育て予備軍の皆様に、幾分なりともお役に立つことを心から願いつつ、遥かカナダの地より、ご健闘をお祈りしております。 2009年春、テツママ (完)
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お知らせ:
皆様方とは、又、引き続き、不定期ブログ、テツママの「独り言」でお会いしたいと思います。それまで、御機嫌よう、さようなら!!
2009年1月27日火曜日
2009年1月25日日曜日
新たなる夢への飛翔!!
さて、研究室では論文の作成のための実験、MBAでは沢山のレポートや試験に追われ、悲鳴を上げる毎日が続いた地球人は、MBA開始後一年が過ぎた2007年の夏、カナダのモントリオールの本校で、夏休み3週間の集中講義を受けることになった。日本のキャンパスからは13人の学生が参加した。
地球人は半年ぶりに我が家に戻り、一週間ぐらい休んで、(といっても、相変わらず、何やら分からぬ論文集のようなものを一杯抱えていたが、、、、)その後、モントリオールのアパートに移り住んだ。友人達とシェアして借りた3週間のアパート暮らしだ。このアパートは大学まで歩いて5分ぐらいの便利なところにあった。
昔、地球人はこの大学で科学を専攻し、4年生まで通った。歴史の古いこの大学は、モントリオールの街のど真ん中にあり、どこに行くにも地下鉄で行け、便利なところだ。地球人は週末に、友人数人と泊りがけで、我が家に戻ってきた。 夏の我が家のベランダは、色とりどりの花々に囲まれ、緑のゴルフ場とスキー場が目の前で、清清しい。私は、食事もベランダに準備し、解放的な食事で、もてなした。
昔もよく、友人を連れて、週末戻ってきたものだ。今は、日本をベースにして、MBAの夏休みだけの集中講義に参加している。本当に不思議な感じがした。地球人は日曜日の午後、又、モントリオールに戻って行った。週日の昼間は、びっしりと講義が詰まっており、夜は友人達との飲み会など、充実した日々を過ごしているようだった。
地球人がMBAの夏の集中講義を受ける為、モントリオールに戻ってきたのには、訳があった。それは、日本での普通の2週末の授業だけでは、2年間で自分の勉強したい、全ての学科を取りきれず、2年半ぐらいかかってしまう恐れがあったからだ。
この頃、地球人には、新たな夢があった。それは、科学の知識と経営学の知識を基に、多言語が駆使できる科学者として、日本企業に就職し、社会人として挑戦をして見たい、という夢だった。自分より優秀な科学者が、世界中に沢山居ることは言うまでもない。
しかし、「もし、自分のこれまでの知識と、経験と、語学力のすべてを発揮できるような仕事に就けたら、素晴らしいのではないだろうか?!」というのが、その頃の地球人の、大きな夢となっていた。「そのためには、なるべく早く、MBAの勉強を済ませておきたい!!」
そう願った地球人は、夏の集中講義の間も、本当に真剣に、勉強していた。そして、2年目の彼は、MBAコースの会長を務め、クラスのまとめ役にもなっていた。
二度のバイオキャンプへの参加、科学雑誌への論文発表、MBAの資格取得への努力、多言語の維持強化など、着々と、自分の夢と目標に向かって進んでいく地球人に、もはや、悩みや迷いはなかった。
そして、地球人のこの夢の実現に向け、研究室の指導教授も、本当に、深いご理解を示してくださり、応援してくださった。夏のMBA集中講義を終えて、日本に戻った地球人は、新たな目標に向かって、具体的に動き始めた。
すでに、入りたいと希望している企業も決まっていた地球人の行動は、素早かった。試験と4回の面接を経て、2007年の年末には、希望していた企業への、「2008年4月入社」の内定も得ることができた。そして、地球人は、研究生活の最後の仕上げと、MBAの授業に、益々力を入れていった。
2008年3月末、地球人は、4年8ヶ月に及ぶ、ポスドク生活に別れをつげ、4月1日から始まる、社会人としての生活をスタートさせる為、住み慣れた研究室の側のアパートから、都心のアパートに、転居した。まだ、MBAの授業は5月末まであり、この頃が、地球人にとっては、一番、精神的に大変で、疲れたようだった。
その後、地球人は、5月末に、予定通りMBAの単位を取得し、無事、働きながら卒業した。一時は「死にそう!!」とまで、ねを上げていたMBAの授業だったが、終わった後は、「MBAを勉強すると決めて、本当によかった。すごく為になる授業だった。これは、これまでに、自分自身で下した決断の中で、最高のものだった!!」とまで言って、心から満足そうだった。
自分の一番望んでいた形で、希望の就職先に入れた地球人は、本当に、強運の持ち主だと思う。これまでにも、何度か、地球人の強運を感じることがあったが、今回の就職も、まさにそう感じた。
しかしながら一方、運は自分で呼び込むもの、、、、というのが、私が地球人の人生を見ていて、心から感じる事だ。運も確かにあったかもしれないが、その前に、やはり、常に自分にも厳しいハードルを課し、自らを高めることに努力し、行動し続けた姿を目の当たりにして、我が子ながら、「凄い!!逞しいなあ!!」と思ったことが、何度もある。(これも親ばかかな、、、、)
こうして地球人は、2008年4月、多くの先生方のご指導の下、先輩、友人、家族らに見守られつつ、努力の末に築き上げた、自身の3本柱、科学、経営学、多言語を引っさげ、新たな職場で、社会人としてのスタートを切った。研究室のサヨナラパーティーの席上で、指導教授から、餞に贈られた言葉、「大志」を胸に、、、、、。
「さあ!!これからは、世界の人々の健康の為に、そして、自分自身の幸せな未来の為に、いつまでも、日本と、世界の架け橋として、大きく、伸び伸びと、羽ばたき続けてね!!改めて、就職おめでとう!!地球人!!」
地球人は半年ぶりに我が家に戻り、一週間ぐらい休んで、(といっても、相変わらず、何やら分からぬ論文集のようなものを一杯抱えていたが、、、、)その後、モントリオールのアパートに移り住んだ。友人達とシェアして借りた3週間のアパート暮らしだ。このアパートは大学まで歩いて5分ぐらいの便利なところにあった。
昔、地球人はこの大学で科学を専攻し、4年生まで通った。歴史の古いこの大学は、モントリオールの街のど真ん中にあり、どこに行くにも地下鉄で行け、便利なところだ。地球人は週末に、友人数人と泊りがけで、我が家に戻ってきた。 夏の我が家のベランダは、色とりどりの花々に囲まれ、緑のゴルフ場とスキー場が目の前で、清清しい。私は、食事もベランダに準備し、解放的な食事で、もてなした。
昔もよく、友人を連れて、週末戻ってきたものだ。今は、日本をベースにして、MBAの夏休みだけの集中講義に参加している。本当に不思議な感じがした。地球人は日曜日の午後、又、モントリオールに戻って行った。週日の昼間は、びっしりと講義が詰まっており、夜は友人達との飲み会など、充実した日々を過ごしているようだった。
地球人がMBAの夏の集中講義を受ける為、モントリオールに戻ってきたのには、訳があった。それは、日本での普通の2週末の授業だけでは、2年間で自分の勉強したい、全ての学科を取りきれず、2年半ぐらいかかってしまう恐れがあったからだ。
この頃、地球人には、新たな夢があった。それは、科学の知識と経営学の知識を基に、多言語が駆使できる科学者として、日本企業に就職し、社会人として挑戦をして見たい、という夢だった。自分より優秀な科学者が、世界中に沢山居ることは言うまでもない。
しかし、「もし、自分のこれまでの知識と、経験と、語学力のすべてを発揮できるような仕事に就けたら、素晴らしいのではないだろうか?!」というのが、その頃の地球人の、大きな夢となっていた。「そのためには、なるべく早く、MBAの勉強を済ませておきたい!!」
そう願った地球人は、夏の集中講義の間も、本当に真剣に、勉強していた。そして、2年目の彼は、MBAコースの会長を務め、クラスのまとめ役にもなっていた。
二度のバイオキャンプへの参加、科学雑誌への論文発表、MBAの資格取得への努力、多言語の維持強化など、着々と、自分の夢と目標に向かって進んでいく地球人に、もはや、悩みや迷いはなかった。
そして、地球人のこの夢の実現に向け、研究室の指導教授も、本当に、深いご理解を示してくださり、応援してくださった。夏のMBA集中講義を終えて、日本に戻った地球人は、新たな目標に向かって、具体的に動き始めた。
すでに、入りたいと希望している企業も決まっていた地球人の行動は、素早かった。試験と4回の面接を経て、2007年の年末には、希望していた企業への、「2008年4月入社」の内定も得ることができた。そして、地球人は、研究生活の最後の仕上げと、MBAの授業に、益々力を入れていった。
2008年3月末、地球人は、4年8ヶ月に及ぶ、ポスドク生活に別れをつげ、4月1日から始まる、社会人としての生活をスタートさせる為、住み慣れた研究室の側のアパートから、都心のアパートに、転居した。まだ、MBAの授業は5月末まであり、この頃が、地球人にとっては、一番、精神的に大変で、疲れたようだった。
その後、地球人は、5月末に、予定通りMBAの単位を取得し、無事、働きながら卒業した。一時は「死にそう!!」とまで、ねを上げていたMBAの授業だったが、終わった後は、「MBAを勉強すると決めて、本当によかった。すごく為になる授業だった。これは、これまでに、自分自身で下した決断の中で、最高のものだった!!」とまで言って、心から満足そうだった。
自分の一番望んでいた形で、希望の就職先に入れた地球人は、本当に、強運の持ち主だと思う。これまでにも、何度か、地球人の強運を感じることがあったが、今回の就職も、まさにそう感じた。
しかしながら一方、運は自分で呼び込むもの、、、、というのが、私が地球人の人生を見ていて、心から感じる事だ。運も確かにあったかもしれないが、その前に、やはり、常に自分にも厳しいハードルを課し、自らを高めることに努力し、行動し続けた姿を目の当たりにして、我が子ながら、「凄い!!逞しいなあ!!」と思ったことが、何度もある。(これも親ばかかな、、、、)
こうして地球人は、2008年4月、多くの先生方のご指導の下、先輩、友人、家族らに見守られつつ、努力の末に築き上げた、自身の3本柱、科学、経営学、多言語を引っさげ、新たな職場で、社会人としてのスタートを切った。研究室のサヨナラパーティーの席上で、指導教授から、餞に贈られた言葉、「大志」を胸に、、、、、。
「さあ!!これからは、世界の人々の健康の為に、そして、自分自身の幸せな未来の為に、いつまでも、日本と、世界の架け橋として、大きく、伸び伸びと、羽ばたき続けてね!!改めて、就職おめでとう!!地球人!!」
2009年1月23日金曜日
ポスドクの継続とMBA開始
研究生活、音楽活動(バンドに参加)、多言語の維持、スポーツクラブへの参加(卓球やローラーホッケークラブ)など、相変わらず、猛烈に忙しい毎日を送っていた地球人の、日本でのポスドク生活は、あっという間に、最初の奨学金給付期間の2年が過ぎようとしていた。
地球人は、最初の奨学金の期限が切れる前に、もう2~3年、この日本の研究室で、研究生活を続けたいと連絡してきた。彼自身の大人の決断。私にはさっぱり分からない遺伝子分野の研究に没頭している地球人の意志を尊重した。日本の奨学金は延長ができないとの事で、地球人は早速、カナダの厚生省の奨学金を申請した。
幸い、程なく、カナダの厚生省から奨学金授与が発表され、地球人は、日本での研究生活を続けることになった。そして、その間、相変わらず、音楽もスポーツも楽しみながら、日本の生活にすっかり馴染んでいた。スペイン語クラブの人たちとも、定期的に集まりを持ち、相変わらず、地球人の多言語維持の努力は続いていた。
英語は勿論、論文や海外での学会で始終使っているし、フランス語も、博士課程までの長期に渡って常用してきた言葉だから、忘れようがない。北京語も、幸い研究室に居る中国からの留学生と、常用する機会も続いており、すでに、固定された言葉になっている。
2度にわたる日本語検定試験への参加で、日本語の書き取りにも、大いに、自信が生まれたことだろう。こうして、地球人にとっては、多言語習得は、かけがえのない財産となりつつあった。
しかし、この頃から、「多言語が駆使できる、という才能が、地球人に逆に、迷いを与えたのではないか??」と、私は勝手に想像している。もし、科学の研究のみに的を絞らなければならない状態だったら、彼はもっとシンプルに、科学研究のみに、自分を追い込んで、のめり込んで行けたのかもしれない。勿論、才能があったかどうかは、別の問題として、、。
素晴らしい指導教授にも恵まれ、同じ研究室には、本当に優れた科学者が多く、地球人は常にそれらの人々を尊敬して、私にもよく話しを聞かせてくれた。彼もいつかは、優れた科学者と呼ばれ、成功したい、と望んでいたことは、間違いない。
しかし、カナダの奨学金を申請する頃から彼は、「もっと、自分の才能を出来る限り生かした、新たな科学者の道があるのでは、、、、」と考え始めるようになっていった。
そして、ポスドクの生活も2年半が過ぎる頃、彼は新たな挑戦の目標を、偶然ネットで発見した。それは、もう、勉強が嫌いになる程、苦しみぬいた大学生活を送ったモントリオールの母校が、日本で開いている「MBA (経営学修士)JAPAN」のホームページだった。
このコースは毎月の2週末、最短2年間で、クレジットを取得できれば卒業できる、というものだったが、勿論、超厳しい事で知られるこの大学。卒業はそう簡単ではない。
あんなに出るのが難しく、地球人を人間不信に陥らせるほど、勉強の虫のような排他的な学生が多いと評していた、モントリオールの母校への再挑戦。今度は経営学修士を目指して、、、、。若いときに、本当に自分から、勉強したくてたまらないものに出会えた地球人は、幸運な人だと言えよう。
私は、ただ、どうなることかと見守っていただけだが、地球人は早速、日本キャンパスの主任にアポイントを取り、出かけていった。履歴書を見た主任は、「とにかく試験を受けてもらい、その成績次第だが、貴方のような経歴の人には、是非、経営学修士の資格をとってほしいから、モントリオールの本校に早速連絡をとって見ましょう、、、試験の日は追って知らせます。」という返事だったそうだ。
その後、地球人は大学から通知された日に、試験を受けに行った。程なく、試験に合格し、研究生活と両立させながら、希望に燃えて、地球人の新たなMBA挑戦が始まった。しかし、私の予想どおり、この大学の厳しさは、経営学においても変わらなかった。
大学時代、科学を専攻中、あれ程痛めつけられたのだから、予想できたと思うが、半年ほどすると、「大変だあ!!厳しい!!死にそう!!」という、哀れな悲鳴が出始めた。
さもありなん!!地球人は、山と積まれた英語の経済新聞と、レポートや資料の山に埋まっていた。やっぱりこの大学は、そう簡単には、卒業させてはくれない。だからこそ、多くの事が学べ、卒業できれば価値があるんじゃないかな、、、、、、と私は思った。
地球人には、研究室での大切な研究生活がある。その上、論文も書かなければならない。そして、自ら望んで始めたこととはいえ、この厳しいMBA学習の道程。
しかし、自分からやりたいと言って始めたことは、地球人はこれまで、大抵やり遂げてきた。だから、「今度も、本当に大変そうだけど、多分、なんとかやり遂げるんじゃないかな?!」、、そう、希望的観測をしつつ、信じるしかない、凄まじく厳しい状況に、地球人は喘いでいた。
地球人は、最初の奨学金の期限が切れる前に、もう2~3年、この日本の研究室で、研究生活を続けたいと連絡してきた。彼自身の大人の決断。私にはさっぱり分からない遺伝子分野の研究に没頭している地球人の意志を尊重した。日本の奨学金は延長ができないとの事で、地球人は早速、カナダの厚生省の奨学金を申請した。
幸い、程なく、カナダの厚生省から奨学金授与が発表され、地球人は、日本での研究生活を続けることになった。そして、その間、相変わらず、音楽もスポーツも楽しみながら、日本の生活にすっかり馴染んでいた。スペイン語クラブの人たちとも、定期的に集まりを持ち、相変わらず、地球人の多言語維持の努力は続いていた。
英語は勿論、論文や海外での学会で始終使っているし、フランス語も、博士課程までの長期に渡って常用してきた言葉だから、忘れようがない。北京語も、幸い研究室に居る中国からの留学生と、常用する機会も続いており、すでに、固定された言葉になっている。
2度にわたる日本語検定試験への参加で、日本語の書き取りにも、大いに、自信が生まれたことだろう。こうして、地球人にとっては、多言語習得は、かけがえのない財産となりつつあった。
しかし、この頃から、「多言語が駆使できる、という才能が、地球人に逆に、迷いを与えたのではないか??」と、私は勝手に想像している。もし、科学の研究のみに的を絞らなければならない状態だったら、彼はもっとシンプルに、科学研究のみに、自分を追い込んで、のめり込んで行けたのかもしれない。勿論、才能があったかどうかは、別の問題として、、。
素晴らしい指導教授にも恵まれ、同じ研究室には、本当に優れた科学者が多く、地球人は常にそれらの人々を尊敬して、私にもよく話しを聞かせてくれた。彼もいつかは、優れた科学者と呼ばれ、成功したい、と望んでいたことは、間違いない。
しかし、カナダの奨学金を申請する頃から彼は、「もっと、自分の才能を出来る限り生かした、新たな科学者の道があるのでは、、、、」と考え始めるようになっていった。
そして、ポスドクの生活も2年半が過ぎる頃、彼は新たな挑戦の目標を、偶然ネットで発見した。それは、もう、勉強が嫌いになる程、苦しみぬいた大学生活を送ったモントリオールの母校が、日本で開いている「MBA (経営学修士)JAPAN」のホームページだった。
このコースは毎月の2週末、最短2年間で、クレジットを取得できれば卒業できる、というものだったが、勿論、超厳しい事で知られるこの大学。卒業はそう簡単ではない。
あんなに出るのが難しく、地球人を人間不信に陥らせるほど、勉強の虫のような排他的な学生が多いと評していた、モントリオールの母校への再挑戦。今度は経営学修士を目指して、、、、。若いときに、本当に自分から、勉強したくてたまらないものに出会えた地球人は、幸運な人だと言えよう。
私は、ただ、どうなることかと見守っていただけだが、地球人は早速、日本キャンパスの主任にアポイントを取り、出かけていった。履歴書を見た主任は、「とにかく試験を受けてもらい、その成績次第だが、貴方のような経歴の人には、是非、経営学修士の資格をとってほしいから、モントリオールの本校に早速連絡をとって見ましょう、、、試験の日は追って知らせます。」という返事だったそうだ。
その後、地球人は大学から通知された日に、試験を受けに行った。程なく、試験に合格し、研究生活と両立させながら、希望に燃えて、地球人の新たなMBA挑戦が始まった。しかし、私の予想どおり、この大学の厳しさは、経営学においても変わらなかった。
大学時代、科学を専攻中、あれ程痛めつけられたのだから、予想できたと思うが、半年ほどすると、「大変だあ!!厳しい!!死にそう!!」という、哀れな悲鳴が出始めた。
さもありなん!!地球人は、山と積まれた英語の経済新聞と、レポートや資料の山に埋まっていた。やっぱりこの大学は、そう簡単には、卒業させてはくれない。だからこそ、多くの事が学べ、卒業できれば価値があるんじゃないかな、、、、、、と私は思った。
地球人には、研究室での大切な研究生活がある。その上、論文も書かなければならない。そして、自ら望んで始めたこととはいえ、この厳しいMBA学習の道程。
しかし、自分からやりたいと言って始めたことは、地球人はこれまで、大抵やり遂げてきた。だから、「今度も、本当に大変そうだけど、多分、なんとかやり遂げるんじゃないかな?!」、、そう、希望的観測をしつつ、信じるしかない、凄まじく厳しい状況に、地球人は喘いでいた。
2009年1月21日水曜日
日本での研究生活開始
プラハへの家族旅行から戻り4日後、地球人と私は日本に向かった。取りあえず、研究室のそばにアパートを借り、当座の生活用品を準備する為だ。勿論、地球人一人で問題なかったが、なにしろ地球人はカナダ国籍。一応、外国人だ。
アパートなどを借りるとき、外国人だとなにかと厄介なので、私は友人との再会も兼ね、同行した。案の定、アパートを借りるとき、私が居て、かなり手間が省けた。部屋が決まり、すぐに簡単な家財道具を買い込んだ。
簡単なといっても、テレビ、ベッド、冷蔵庫その他、数えればキリがないほど揃える物は多い。アパートは駅から5分。周りにスーパーなどが多く、とても便利なところで、地球人の一人暮らしには申し分ない。
とにかく、住まいの確保と生活の準備の手伝いを済ませた私は、間もなく又、日本と台北への出張を控えていたが、ひとまずカナダの我が家に戻った。地球人は、その後、研究室の指導教授にご挨拶に伺い、程なくポスドクとして、日本での研究生活に入って行った。
1ヶ月後、次の出張の途中に、地球人のアパートに立ち寄った私は、驚いた。地球人は新にスクーターを買い込み、毎日、20分ぐらいスクーターに乗って、研究室に通っていた。「安定感のない、スクーターじゃ危ないでしょ?!なんで電車で通わないの??」という私の素朴な質問に、地球人はこう答えた。
「だって、電車は夜12時半が最終だから、、、、」と、、。 「エッ!!夜の12時半まであれば十分でしょう??どういう意味??」と訊いた私に、地球人は笑って、「だって、殆どの人がその時間にはまだ研究室に残っているんだよ。僕はペーペーだもん、、、、」とのこと。
地球人のホームページにその感想が載っているが、確かに日本の研究者は真面目で、夜中まで研究している人も多く、カナダの研究室とはエライ違いらしい。
従って、それからの私は、日本に行っても、ほとんど地球人と顔をあわせる時間はなかった。しかし、毎晩、夜中の2時ごろ、コトコトコトと鳴るスクーターのエンジン音が止み、部屋に入ってくる鍵の音がすると、本当に安心したものだ。小雨の日などは特に、、、、。スクーターのタイヤはスリップしやすいから、、、、、。
こうして、日本での地球人の、猛烈研究生活が始まった。ポスドクの間、基本的に一年に2回、カナダの自宅に戻る予定にしていた地球人だったが、1回しか戻れない年もあった。
しかし、幸い私は、ずっとコンサルタントの仕事を続けているので、年に平均5回ぐらいの出張があり、台北、大阪、東京などに出かける。その合間に地球人の様子を覗く時間もあり、あまり離れている実感はなく、ケベックシティに居たころと変わらない感じだ。
地球人は日本の研究室で、教授や本当に優れた先輩、同僚に囲まれ、良い刺激を受けたらしく、何度も、「この研究室で研究ができて、すごく良かった、、、。」と自分の幸運を喜んでいた。日本政府の奨学金の給付期間は2年だったが、入ってすぐから、もう少し長く研究したいと漏らしていた。
少し日本の研究生活のリズムにも慣れると、心に余裕ができたのか、地球人は又、音楽仲間を探して趣味を楽しんだり、大学の学生とローラーホッケーに興じたり、ケベック協会のメンバーやスペイン語同好会のメンバーになったりして、多言語の維持にも努めていた。日本語の読み書きの強化の為には、日本語検定試験に果敢に挑戦して、実力を高めていった。
もともと、日本語を書くのは苦手な筈の地球人が、最初の試験から、かなりよい成績をあげていたので不思議に思い、「どうやって書いたの???」ときいたら、「へへへ、平仮名書きまくったら、ちょっと減点されちゃったあ、、、、」と笑っていた。
幸い、今はパソコンという便利なものがあり、私ですら、手書きをすると、たまに漢字の書き方を忘れてしまう時代。発音はかなり正確な地球人は、パソコンを駆使すれば、不自由なく書けるらしい。まあ、時代が時代。これもありかな、、、、と思う。
ともあれ、研究の合間にも、日本でも意識的に多言語維持の環境づくりに努め、常用機会を積極的に探しながら、色々な活動に参加している地球人を目の当たりにして、「そう!!そう!!その調子!!」と私は大いに心の中で応援していた。
アパートなどを借りるとき、外国人だとなにかと厄介なので、私は友人との再会も兼ね、同行した。案の定、アパートを借りるとき、私が居て、かなり手間が省けた。部屋が決まり、すぐに簡単な家財道具を買い込んだ。
簡単なといっても、テレビ、ベッド、冷蔵庫その他、数えればキリがないほど揃える物は多い。アパートは駅から5分。周りにスーパーなどが多く、とても便利なところで、地球人の一人暮らしには申し分ない。
とにかく、住まいの確保と生活の準備の手伝いを済ませた私は、間もなく又、日本と台北への出張を控えていたが、ひとまずカナダの我が家に戻った。地球人は、その後、研究室の指導教授にご挨拶に伺い、程なくポスドクとして、日本での研究生活に入って行った。
1ヶ月後、次の出張の途中に、地球人のアパートに立ち寄った私は、驚いた。地球人は新にスクーターを買い込み、毎日、20分ぐらいスクーターに乗って、研究室に通っていた。「安定感のない、スクーターじゃ危ないでしょ?!なんで電車で通わないの??」という私の素朴な質問に、地球人はこう答えた。
「だって、電車は夜12時半が最終だから、、、、」と、、。 「エッ!!夜の12時半まであれば十分でしょう??どういう意味??」と訊いた私に、地球人は笑って、「だって、殆どの人がその時間にはまだ研究室に残っているんだよ。僕はペーペーだもん、、、、」とのこと。
地球人のホームページにその感想が載っているが、確かに日本の研究者は真面目で、夜中まで研究している人も多く、カナダの研究室とはエライ違いらしい。
従って、それからの私は、日本に行っても、ほとんど地球人と顔をあわせる時間はなかった。しかし、毎晩、夜中の2時ごろ、コトコトコトと鳴るスクーターのエンジン音が止み、部屋に入ってくる鍵の音がすると、本当に安心したものだ。小雨の日などは特に、、、、。スクーターのタイヤはスリップしやすいから、、、、、。
こうして、日本での地球人の、猛烈研究生活が始まった。ポスドクの間、基本的に一年に2回、カナダの自宅に戻る予定にしていた地球人だったが、1回しか戻れない年もあった。
しかし、幸い私は、ずっとコンサルタントの仕事を続けているので、年に平均5回ぐらいの出張があり、台北、大阪、東京などに出かける。その合間に地球人の様子を覗く時間もあり、あまり離れている実感はなく、ケベックシティに居たころと変わらない感じだ。
地球人は日本の研究室で、教授や本当に優れた先輩、同僚に囲まれ、良い刺激を受けたらしく、何度も、「この研究室で研究ができて、すごく良かった、、、。」と自分の幸運を喜んでいた。日本政府の奨学金の給付期間は2年だったが、入ってすぐから、もう少し長く研究したいと漏らしていた。
少し日本の研究生活のリズムにも慣れると、心に余裕ができたのか、地球人は又、音楽仲間を探して趣味を楽しんだり、大学の学生とローラーホッケーに興じたり、ケベック協会のメンバーやスペイン語同好会のメンバーになったりして、多言語の維持にも努めていた。日本語の読み書きの強化の為には、日本語検定試験に果敢に挑戦して、実力を高めていった。
もともと、日本語を書くのは苦手な筈の地球人が、最初の試験から、かなりよい成績をあげていたので不思議に思い、「どうやって書いたの???」ときいたら、「へへへ、平仮名書きまくったら、ちょっと減点されちゃったあ、、、、」と笑っていた。
幸い、今はパソコンという便利なものがあり、私ですら、手書きをすると、たまに漢字の書き方を忘れてしまう時代。発音はかなり正確な地球人は、パソコンを駆使すれば、不自由なく書けるらしい。まあ、時代が時代。これもありかな、、、、と思う。
ともあれ、研究の合間にも、日本でも意識的に多言語維持の環境づくりに努め、常用機会を積極的に探しながら、色々な活動に参加している地球人を目の当たりにして、「そう!!そう!!その調子!!」と私は大いに心の中で応援していた。
2009年1月19日月曜日
プラハ家族旅行
さて、めでたくポスドク開始の準備も整った地球人は、日本に向かう前に、家族旅行をしようと提案した。自分も博士号をとり、一段落してホッとし、約16年間住み慣れたカナダ東部の町を離れるに当って、家族と、のんびりした旅行がしたくなったらしい。
というより、無事に、博士課程を卒業できた、「親孝行、感謝旅行」とでもツアー名をつけようか、、、、。ブスッと無愛想な言い方だったが、「これまでの感謝の印に、パパとママに、飛行機の切符を買って上げるよ!!だから、行きたいところを決めて!!」というのだ。大学院時代に、奨学金やアルバイトの語学教師などで、貯めたお金で、思い出旅行をプレゼントしてくれるというのだ。ヤッター!!
勿論、ホテルの手配などは、相変わらず、私の役目。相談の末、この旅行の目的地はプラハに決まった。私は前から、チャンスがあったら是非、旧神聖ローマ帝国の首都であり、かつてはヨーロッパ最大の都市として「黄金のプラハ」と呼ばれたこの地を訪れ、ハプスブルグ家の栄華の跡を訪ねて見たかったのだ。
15世紀には、芸術、科学の都として、その繁栄は内外に知れわたっていた、この歴史の町、プラハへ、、、、、。 地球人の申し出は、又とないチャンス!!喜んで出かけることにした。
プラハについた私達は、レンタカーで、早速手配しておいたホテルに向かった。すでに街の様子は、かつての繁栄の跡は虚しいほどなく、17世紀から続いた、数々の戦争の傷跡が、そこここに残っている。宗教、文化、人種の弾圧を受け、1993年には、チェコとスロバキアが分断された、悲しい歴史の国、チェコ。
しかし、14世紀に建造された、モルダウ川に架かる、カレル橋(前プラハ橋)から眺めるプラハ城の美しい佇まいは圧巻で、さすが、「黄金のプラハ」と呼ばれただけある、と感動した。
ちなみに、このカレル橋は、英文名でCharles Bridgeと呼ばれ、ヨーロッパに現存する、最古の石橋だそうだ。その橋げたに並べられた彫刻が水面に写り、独特の美しさを見せていた。
モーツアルトが、交響曲38番を初演したコンサートホールや、天文時計台など、古い町並みによく映える美しい建物も多く、楽しい町の反面、ナチスドイツに占領され、5万人が虐殺された、悲惨な過去を感じさせる建造物も多く、人間の栄枯盛衰と業のようなものを目の当たりにし、考えさせられた。
一方、地球人はというと、あまり建物や歴史には興味がないらしく、もっぱら、街の中を走る電車や乗り物に乗りまくり、地元の人たちの集まりそうな場所を探し、現在の、ありのままのプラハを知ることに、大きな興味を抱いていた。勿論、プラハ城の美しさにも感動していたけれど、、、、、。
我々は、モルダウ川を走る観光船の中で、音楽付きのディナーを食べながら、川の上から、プラハ城や川沿いの景色を眺めることにした。船上から眺めたプラハ城は、丁度、夕陽に照らされていて、神々しいほどの美しさだった。
地球人はすでに、付近の探索も済ませており、「地元の人が集まる、街中のデパートに出かけよう!!」と、夫と私を誘った。プラハのデパートは、なんだか古い、日本のデパートのような感じだった。
物価は地球人によると、かなり安いとのこと。チェコのお金は、私にはすぐに換算できなかったので、いつも地球人にきいた。私は足が痛かったので、安いならこれ幸いとばかりに、夏のサンダル靴を2足買った。そして、案外素敵なスタイルのTシャツがあったので、これから日本に旅立つ地球人用に、何枚も買い込んだ。
食べ物は、付近のレストランで食べた記憶があるが、あまり印象にない。キッチン付のホテルだったので、自分でも簡単なものを作って食べた記憶がある。チェコを代表するお土産と言えば、ボヘミアングラスとガーネット。
ワイングラスなどのコレクションが好きな私は、以前から、チェコクリスタルはかなり集めていたので、この旅行では遠慮して、ガーネットを記念にいくつか買い込んだ。
これらの買い物の税金は、あとから空港で申し込むと返金されるとか、、、、、。面白がってやって見たら、一年後ぐらいの忘れた頃に、スズメの涙ほど戻ってきた。
ちなみに、それまでチェコというと、地球人の頭にすぐ浮かぶのは、自分が熱狂していたアイスホッケーの、NHLの名ゴールキーパー。長野オリンピックで優勝した、チェコの英雄、ドミニクハシェック選手の名前ぐらいだったらしい。彼の憧れの、名ゴールキーパーの一人だ。
ともあれ、地球人と一緒の旅は、単なる観光旅行と違い、すぐに現地の人々の中に飛び込む、面白いもの。この旅行も、日本に向かう前のひと時を、家族で面白おかしく、楽しく過ごした。地球人の心ばかりの親孝行旅行で訪れたプラハは、プラハ城の素晴らしい佇まいとともに、私にとって、是非もう一度出かけてみたい、思い出深い町となった。
というより、無事に、博士課程を卒業できた、「親孝行、感謝旅行」とでもツアー名をつけようか、、、、。ブスッと無愛想な言い方だったが、「これまでの感謝の印に、パパとママに、飛行機の切符を買って上げるよ!!だから、行きたいところを決めて!!」というのだ。大学院時代に、奨学金やアルバイトの語学教師などで、貯めたお金で、思い出旅行をプレゼントしてくれるというのだ。ヤッター!!
勿論、ホテルの手配などは、相変わらず、私の役目。相談の末、この旅行の目的地はプラハに決まった。私は前から、チャンスがあったら是非、旧神聖ローマ帝国の首都であり、かつてはヨーロッパ最大の都市として「黄金のプラハ」と呼ばれたこの地を訪れ、ハプスブルグ家の栄華の跡を訪ねて見たかったのだ。
15世紀には、芸術、科学の都として、その繁栄は内外に知れわたっていた、この歴史の町、プラハへ、、、、、。 地球人の申し出は、又とないチャンス!!喜んで出かけることにした。
プラハについた私達は、レンタカーで、早速手配しておいたホテルに向かった。すでに街の様子は、かつての繁栄の跡は虚しいほどなく、17世紀から続いた、数々の戦争の傷跡が、そこここに残っている。宗教、文化、人種の弾圧を受け、1993年には、チェコとスロバキアが分断された、悲しい歴史の国、チェコ。
しかし、14世紀に建造された、モルダウ川に架かる、カレル橋(前プラハ橋)から眺めるプラハ城の美しい佇まいは圧巻で、さすが、「黄金のプラハ」と呼ばれただけある、と感動した。
ちなみに、このカレル橋は、英文名でCharles Bridgeと呼ばれ、ヨーロッパに現存する、最古の石橋だそうだ。その橋げたに並べられた彫刻が水面に写り、独特の美しさを見せていた。
モーツアルトが、交響曲38番を初演したコンサートホールや、天文時計台など、古い町並みによく映える美しい建物も多く、楽しい町の反面、ナチスドイツに占領され、5万人が虐殺された、悲惨な過去を感じさせる建造物も多く、人間の栄枯盛衰と業のようなものを目の当たりにし、考えさせられた。
一方、地球人はというと、あまり建物や歴史には興味がないらしく、もっぱら、街の中を走る電車や乗り物に乗りまくり、地元の人たちの集まりそうな場所を探し、現在の、ありのままのプラハを知ることに、大きな興味を抱いていた。勿論、プラハ城の美しさにも感動していたけれど、、、、、。
我々は、モルダウ川を走る観光船の中で、音楽付きのディナーを食べながら、川の上から、プラハ城や川沿いの景色を眺めることにした。船上から眺めたプラハ城は、丁度、夕陽に照らされていて、神々しいほどの美しさだった。
地球人はすでに、付近の探索も済ませており、「地元の人が集まる、街中のデパートに出かけよう!!」と、夫と私を誘った。プラハのデパートは、なんだか古い、日本のデパートのような感じだった。
物価は地球人によると、かなり安いとのこと。チェコのお金は、私にはすぐに換算できなかったので、いつも地球人にきいた。私は足が痛かったので、安いならこれ幸いとばかりに、夏のサンダル靴を2足買った。そして、案外素敵なスタイルのTシャツがあったので、これから日本に旅立つ地球人用に、何枚も買い込んだ。
食べ物は、付近のレストランで食べた記憶があるが、あまり印象にない。キッチン付のホテルだったので、自分でも簡単なものを作って食べた記憶がある。チェコを代表するお土産と言えば、ボヘミアングラスとガーネット。
ワイングラスなどのコレクションが好きな私は、以前から、チェコクリスタルはかなり集めていたので、この旅行では遠慮して、ガーネットを記念にいくつか買い込んだ。
これらの買い物の税金は、あとから空港で申し込むと返金されるとか、、、、、。面白がってやって見たら、一年後ぐらいの忘れた頃に、スズメの涙ほど戻ってきた。
ちなみに、それまでチェコというと、地球人の頭にすぐ浮かぶのは、自分が熱狂していたアイスホッケーの、NHLの名ゴールキーパー。長野オリンピックで優勝した、チェコの英雄、ドミニクハシェック選手の名前ぐらいだったらしい。彼の憧れの、名ゴールキーパーの一人だ。
ともあれ、地球人と一緒の旅は、単なる観光旅行と違い、すぐに現地の人々の中に飛び込む、面白いもの。この旅行も、日本に向かう前のひと時を、家族で面白おかしく、楽しく過ごした。地球人の心ばかりの親孝行旅行で訪れたプラハは、プラハ城の素晴らしい佇まいとともに、私にとって、是非もう一度出かけてみたい、思い出深い町となった。
2009年1月17日土曜日
ポスドクの地、決定
さて、博士課程も、無事修了が見えてきた地球人の、次なる目標はポスドクで、それをどこでするかという問題に、直面していた。同じ研究室出身の仲間が、ポスドクをしているボストンの大学。
指導教授のおられた、アメリカ西海岸の大学などが、当時、地球人の目標になっていた。しかし、2001年に起きた911は全米のみならず、世界を震え上がらせ、当時、私は、アメリカの東海岸は要注意の場所に思えた。
そんな頃、地球人は、指導教授の推薦で、日本の某国立大学の、研究室の教授をご紹介いただいた。地球人は真剣に私の母国、日本での研究継続開始を模索し始めた。
私は、日本での研究継続開始には、二つの理由で大いに賛成だった。勿論、第一は、すばらしい遺伝子研究の教授をご紹介いただけたこと。そして、もう一つは、地球人の日本語能力の強化と、日本文化の更なる習得の為だった。
なにしろ、今まで地球人は、幼少時代、夏休みの短期訪問以外に、腰を据えて、日本という国に住んだ事がない。勿論、当然、留学経験もない。従って、地球人の日本語は、話したり聞いたりすることには問題がなかったが、読んだり書いたりする能力は、私から見て、まだまだ足りなかった。今の若さなら、言葉の吸収も早く、日本語をほぼ完璧にする、最初で最後の、絶好のチャンスではないか?!と私には思えた。
勿論、決めるのは地球人であり、彼の一生を左右することなので、彼の意志に任せていた。地球人は熟考の結果、自分でも、日本が最適と決断した。そして着々と、日本の教授に連絡をとり、多くのサポートをいただいた。ポスドクとして研究室に受け入れていただくばかりか、日本学術振興会からの奨学金や、教授の肩書きで、ビザもいただけるよう、手配していただいた。
2003年、幸い、日本学術振興会からの奨学金も無事おり、カナダ政府の手続きなど、面倒な作業も全て終え、正式に地球人の日本での研究続行が決まったのは、春も終わりに近い頃だった。
初夏を迎える頃、地球人へのサヨナラパーティが、大学病院の研究室仲間によって、開かれた。研究仲間の何人かは、我が家にも、何度も泊りがけで遊びに来て、顔見知りだったし、指導教授にも、これまでのご指導に対し、改めて、感謝とお礼を直接述べたくて、私はケベックシティ郊外の、この大学病院に向かった。
ケベックシティはこれまでの5年間に、何度も訪れた地だったが、これからは、そう度々訪れることはないだろうと、周りの景色を車の中から、これまでとはちがった、感傷的な気分で、眺めていた。
温かい送別の夕食会が終わり、私は指導教授に、心からのお礼と、今後の変わらぬご指導をお願いし、何度か訪れた、思い出深い地を後にした。これから又、地球人は、新たな出発に向け、旅立ってゆくが、自分の祖国、日本に向かうというだけで、私には何だか安心感があり、あまり心配はなかった。
地球人のポスドクのスタートは、日本の横浜にある、某国立大学の、生命フロンティアー研究所に決まり、カナダの大学院で始めた、「遺伝子発現及び修復のメカニズムの研究」を続行することとなった。こうして地球人は、少年時代とはまったく違った、新たな目標を胸に、日本に飛び立とうとしていた。
指導教授のおられた、アメリカ西海岸の大学などが、当時、地球人の目標になっていた。しかし、2001年に起きた911は全米のみならず、世界を震え上がらせ、当時、私は、アメリカの東海岸は要注意の場所に思えた。
そんな頃、地球人は、指導教授の推薦で、日本の某国立大学の、研究室の教授をご紹介いただいた。地球人は真剣に私の母国、日本での研究継続開始を模索し始めた。
私は、日本での研究継続開始には、二つの理由で大いに賛成だった。勿論、第一は、すばらしい遺伝子研究の教授をご紹介いただけたこと。そして、もう一つは、地球人の日本語能力の強化と、日本文化の更なる習得の為だった。
なにしろ、今まで地球人は、幼少時代、夏休みの短期訪問以外に、腰を据えて、日本という国に住んだ事がない。勿論、当然、留学経験もない。従って、地球人の日本語は、話したり聞いたりすることには問題がなかったが、読んだり書いたりする能力は、私から見て、まだまだ足りなかった。今の若さなら、言葉の吸収も早く、日本語をほぼ完璧にする、最初で最後の、絶好のチャンスではないか?!と私には思えた。
勿論、決めるのは地球人であり、彼の一生を左右することなので、彼の意志に任せていた。地球人は熟考の結果、自分でも、日本が最適と決断した。そして着々と、日本の教授に連絡をとり、多くのサポートをいただいた。ポスドクとして研究室に受け入れていただくばかりか、日本学術振興会からの奨学金や、教授の肩書きで、ビザもいただけるよう、手配していただいた。
2003年、幸い、日本学術振興会からの奨学金も無事おり、カナダ政府の手続きなど、面倒な作業も全て終え、正式に地球人の日本での研究続行が決まったのは、春も終わりに近い頃だった。
初夏を迎える頃、地球人へのサヨナラパーティが、大学病院の研究室仲間によって、開かれた。研究仲間の何人かは、我が家にも、何度も泊りがけで遊びに来て、顔見知りだったし、指導教授にも、これまでのご指導に対し、改めて、感謝とお礼を直接述べたくて、私はケベックシティ郊外の、この大学病院に向かった。
ケベックシティはこれまでの5年間に、何度も訪れた地だったが、これからは、そう度々訪れることはないだろうと、周りの景色を車の中から、これまでとはちがった、感傷的な気分で、眺めていた。
温かい送別の夕食会が終わり、私は指導教授に、心からのお礼と、今後の変わらぬご指導をお願いし、何度か訪れた、思い出深い地を後にした。これから又、地球人は、新たな出発に向け、旅立ってゆくが、自分の祖国、日本に向かうというだけで、私には何だか安心感があり、あまり心配はなかった。
地球人のポスドクのスタートは、日本の横浜にある、某国立大学の、生命フロンティアー研究所に決まり、カナダの大学院で始めた、「遺伝子発現及び修復のメカニズムの研究」を続行することとなった。こうして地球人は、少年時代とはまったく違った、新たな目標を胸に、日本に飛び立とうとしていた。
2009年1月15日木曜日
テツママ生涯最高の日
さて、大学院での研究、スポーツ、音楽活動、スペイン語強化(中南米からの学生との交流)などに、忙しい毎日を送っていた地球人も、すでに博士課程に入り、残すところケベックでの大学院生活もあと僅かとなってきた。しかし、あと僅かかどうかは、博士論文審査に通るかどうかということが、大きな鍵を握っていた。
そのころには、担当教授のお蔭様で、多少論文も手がけていた地球人は、いよいよ最後の仕上げの博士論文作成準備に入っていった。勿論、論文を書き始めるには、地道な実験の繰り返しで、結果を得てからでなければ書けない。
このころ用事で研究室に電話しても、なかなか話してもらえる時間がなかった。「今、実験中!!あとで電話する。」というのが、この頃の地球人の決まり文句になった。
地球人が博士課程に入った頃、夫は我が家の前庭に、新しい飾り門を創った。それは、すべて手づくりで、天辺の両端が斜めに天に向かって上がるように削られていて、門の中心には、家族繁栄の意味の漢詩を、自分で彫って、入れていた。
夫曰く、「今の我が家の入り口の方位より、この飾り門の方位の方が、テツの運勢をさらに強くすると、昔、香港の有名な占い師に言われたことを思い出したから、飾り門を創って、方位を変えてみた、、、。この家はテツの名義だし、、、、、、。」とのこと。飾り門の完成を記念して、珍しく、家族3人プラス愛犬で、写真を撮った。
2002年の秋。地球人の博士論文作成は、追い込み段階に入っていた。博士課程の3年目の冬、地球人は、ついに、卒業論文を完成し、学内、学外の教授の審査を受け始めていた。2003年2月7日、まだ雪深く、寒い一日、地球人は私に、研究室がある病院の講堂で行われる、博士論文の公開審査会場に来るよう、誘いがあった。
カナダの大学院の博士論文最終審査は、一般の人々にも公開して行われることすら知らなかった私は、どんなことが行われるのか、皆目、見当がつかなかった。生憎、丁度何かの用事が重なっていた夫の代わりに、地球人の親友達とともに、遥遥250キロ離れた病院へと向かい、午後2時から始まる予定の、地球人の博士論文公開審査会場に入った。
講堂の正面には大きなスクリーンがあり、向かって左端にスピーチ用の演壇。地球人の論文公開審査が始まる午後2時頃には、会場は知らない顔の聴衆で、一杯になっていた。主に、病院関係者と大学の関係者らしい。段々、不安感が込み上げ、地球人より、私の方が興奮してきた。
ケベック省、癌研究センターから、審査を担当する教授が一人、他の医大から審査を依頼された教授が一人、学内から審査を依頼された教授二人が静かに審査員席に着席するころには、満員の聴衆に囲まれ、私は本当に胸がドキドキしてきた。 すでに、昨年末には、論文パスの内定は知らされていたそうだが、いよいよ、正式な最終審査が始まるのだ。
地球人は落ち着いていた。(少なくとも私よりは、、、。そう見えた。)軽い挨拶から、すぐに論文の要点をパソコンから大きなスクリーンに映し出し、実験結果や研究結果を、淡々と英語で報告してゆく。約30分程のプレゼンは、チンプンカンプンで、さっぱり私には分からなかった。
プレゼンが終わって、続いて審査の先生方との、論文内容に関する、質疑応答が始まった。地球人はこの質疑応答に、英語とフランス語で対応していた。ある教授は、フランス語の方が英語より話しやすかったらしい。
約20分程の質疑応答が終わると、4人の審査教授がおもむろに立ち上がり、全員で結果を審議するため、別室に消えた。戻ってくるまでの10分ほどは、本当に長く感じられた。他の教授を従え、戻ってきた主任審査教授は、笑顔で地球人の方に手を伸ばし、「おめでとう!!貴方の論文は、審査教授、全員一致でパスしました。」と、握手を求めた。
握手をすませ、お礼を述べた地球人は、又、プレゼン用のスクリーンに、映像を映し始めた。これまでお世話になった指導教授、関係者、研究室仲間への感謝の言葉とお礼。この審査を担当してくださった、すべての教授へのお礼の言葉も、映し出された。
そして、最後の最後に、スクリーンに映し出された映像は??、、そう!!あの、自分の為に、父親が手づくりで創ってくれた、我が家の前庭の、飾り門の前で、並んで撮った家族写真。
映像が写ると、堂々と私の方を見つめ、「実は今日、この会場に母が来ています。家族のサポートなしでは、決して、この論文は生まれませんでした。心から感謝したいと思います。」と、英語で、私にもお礼を述べた。最後に、「かあちゃん!!ありがとう!!」という、日本語での、いつもどおりの地球人の、おどけた挨拶も添えて、、、、。
会場の前の方に座っていた人々は、ワザワザ、中ほどに座っていた私の方を振り向き、笑顔で拍手を送ってくれ、すぐ後ろのほうに座っていた人々は、私の肩を叩いて、祝ってくれた。会場は割れるような拍手に包まれた。
こんなに、深く感動する日が、この私の身に、訪れるなんて、、、、。泣き虫の私は、深い感動に堪え切れず、思わず大粒の涙をこぼし、すべてがボ~~ッと霞んで見えた。その後、私は会場から去る前にワザワザ、「おめでとう、おめでとう!!」と温かい声を掛けながら近づいてくる、多くの見知らぬ人々から、握手を求められた。その後、地球人の博士論文パスを祝って、病院内の別の会場で、研究室仲間による、手作りのパーティーが開かれた。
私はこのパーティに参加してくださった指導教授に、これまでの、5年間に渡るご指導を、心から感謝し、お礼を述べた。研究室仲間とも歓談でき、この日は、私の生涯で最高の、忘れえぬ、感動と感謝の一日となった。
それから2ヶ月ほどして、立派な表紙で、審査教授のコメントも添えられた、地球人の博士論文が出版された。フランス語のタイトルと、英語の前書きが書いてあり、論文が始まる最初のページは白紙で、右上に、「この論文を両親に捧ぐ!!」と、印刷されていた。またまた、新たな感動!!この本は、その日から我が家の、最高の宝物となった。
そのころには、担当教授のお蔭様で、多少論文も手がけていた地球人は、いよいよ最後の仕上げの博士論文作成準備に入っていった。勿論、論文を書き始めるには、地道な実験の繰り返しで、結果を得てからでなければ書けない。
このころ用事で研究室に電話しても、なかなか話してもらえる時間がなかった。「今、実験中!!あとで電話する。」というのが、この頃の地球人の決まり文句になった。
地球人が博士課程に入った頃、夫は我が家の前庭に、新しい飾り門を創った。それは、すべて手づくりで、天辺の両端が斜めに天に向かって上がるように削られていて、門の中心には、家族繁栄の意味の漢詩を、自分で彫って、入れていた。
夫曰く、「今の我が家の入り口の方位より、この飾り門の方位の方が、テツの運勢をさらに強くすると、昔、香港の有名な占い師に言われたことを思い出したから、飾り門を創って、方位を変えてみた、、、。この家はテツの名義だし、、、、、、。」とのこと。飾り門の完成を記念して、珍しく、家族3人プラス愛犬で、写真を撮った。
2002年の秋。地球人の博士論文作成は、追い込み段階に入っていた。博士課程の3年目の冬、地球人は、ついに、卒業論文を完成し、学内、学外の教授の審査を受け始めていた。2003年2月7日、まだ雪深く、寒い一日、地球人は私に、研究室がある病院の講堂で行われる、博士論文の公開審査会場に来るよう、誘いがあった。
カナダの大学院の博士論文最終審査は、一般の人々にも公開して行われることすら知らなかった私は、どんなことが行われるのか、皆目、見当がつかなかった。生憎、丁度何かの用事が重なっていた夫の代わりに、地球人の親友達とともに、遥遥250キロ離れた病院へと向かい、午後2時から始まる予定の、地球人の博士論文公開審査会場に入った。
講堂の正面には大きなスクリーンがあり、向かって左端にスピーチ用の演壇。地球人の論文公開審査が始まる午後2時頃には、会場は知らない顔の聴衆で、一杯になっていた。主に、病院関係者と大学の関係者らしい。段々、不安感が込み上げ、地球人より、私の方が興奮してきた。
ケベック省、癌研究センターから、審査を担当する教授が一人、他の医大から審査を依頼された教授が一人、学内から審査を依頼された教授二人が静かに審査員席に着席するころには、満員の聴衆に囲まれ、私は本当に胸がドキドキしてきた。 すでに、昨年末には、論文パスの内定は知らされていたそうだが、いよいよ、正式な最終審査が始まるのだ。
地球人は落ち着いていた。(少なくとも私よりは、、、。そう見えた。)軽い挨拶から、すぐに論文の要点をパソコンから大きなスクリーンに映し出し、実験結果や研究結果を、淡々と英語で報告してゆく。約30分程のプレゼンは、チンプンカンプンで、さっぱり私には分からなかった。
プレゼンが終わって、続いて審査の先生方との、論文内容に関する、質疑応答が始まった。地球人はこの質疑応答に、英語とフランス語で対応していた。ある教授は、フランス語の方が英語より話しやすかったらしい。
約20分程の質疑応答が終わると、4人の審査教授がおもむろに立ち上がり、全員で結果を審議するため、別室に消えた。戻ってくるまでの10分ほどは、本当に長く感じられた。他の教授を従え、戻ってきた主任審査教授は、笑顔で地球人の方に手を伸ばし、「おめでとう!!貴方の論文は、審査教授、全員一致でパスしました。」と、握手を求めた。
握手をすませ、お礼を述べた地球人は、又、プレゼン用のスクリーンに、映像を映し始めた。これまでお世話になった指導教授、関係者、研究室仲間への感謝の言葉とお礼。この審査を担当してくださった、すべての教授へのお礼の言葉も、映し出された。
そして、最後の最後に、スクリーンに映し出された映像は??、、そう!!あの、自分の為に、父親が手づくりで創ってくれた、我が家の前庭の、飾り門の前で、並んで撮った家族写真。
映像が写ると、堂々と私の方を見つめ、「実は今日、この会場に母が来ています。家族のサポートなしでは、決して、この論文は生まれませんでした。心から感謝したいと思います。」と、英語で、私にもお礼を述べた。最後に、「かあちゃん!!ありがとう!!」という、日本語での、いつもどおりの地球人の、おどけた挨拶も添えて、、、、。
会場の前の方に座っていた人々は、ワザワザ、中ほどに座っていた私の方を振り向き、笑顔で拍手を送ってくれ、すぐ後ろのほうに座っていた人々は、私の肩を叩いて、祝ってくれた。会場は割れるような拍手に包まれた。
こんなに、深く感動する日が、この私の身に、訪れるなんて、、、、。泣き虫の私は、深い感動に堪え切れず、思わず大粒の涙をこぼし、すべてがボ~~ッと霞んで見えた。その後、私は会場から去る前にワザワザ、「おめでとう、おめでとう!!」と温かい声を掛けながら近づいてくる、多くの見知らぬ人々から、握手を求められた。その後、地球人の博士論文パスを祝って、病院内の別の会場で、研究室仲間による、手作りのパーティーが開かれた。
私はこのパーティに参加してくださった指導教授に、これまでの、5年間に渡るご指導を、心から感謝し、お礼を述べた。研究室仲間とも歓談でき、この日は、私の生涯で最高の、忘れえぬ、感動と感謝の一日となった。
それから2ヶ月ほどして、立派な表紙で、審査教授のコメントも添えられた、地球人の博士論文が出版された。フランス語のタイトルと、英語の前書きが書いてあり、論文が始まる最初のページは白紙で、右上に、「この論文を両親に捧ぐ!!」と、印刷されていた。またまた、新たな感動!!この本は、その日から我が家の、最高の宝物となった。
2009年1月13日火曜日
忘れえぬ友、忘れえぬ国
1994年、地球人がまだ大学2年の時、夏休みを利用し、ヨーロッパに語学留学と、ぶらり旅に出かけたことは、すでにお話した。その時、ドイツでカナダのトロントから、ドイツ語を勉強に来ていた学生に出会い、友人になったことも、お話したと思う。地球人の殆どの友人は、我が家の友人でもある。
この彼は、地球人ととても気が合い、その後、トロントに戻っても、地球人と連絡を取り合っていた。実は彼は、そのドイツ短期留学中に、運命の女性と出会い、恋に落ちた。女性はノルウエー人で、偶然、友人との旅行中に彼と出会い、お互いに惹かれたそうだ。トロントに戻っても、彼の心はここにあらず。いつもノルウエーの彼女の話をしていた。
彼は帰国後まもなく、地球人に会いに、はるばるトロントから車で7時間ぐらい運転して、我が家に遊びに来た。地球人から聞いていた通り、陽気な好青年で、我が家の食卓を賑わしてくれた。
散々、彼女のお惚気話をしたあと、「必ず、ノルウエーに戻り、彼女と一緒に暮らす!!」と、我々に嬉しそうに告げた。そして間もなく、彼は本当に、ノルウエーに旅立って行った。
彼は旅立つ前に、近いうちに彼女を婚約者として、親に合わせにカナダに連れてくるから、その時には、私にも紹介してくれると約束した。その通りに、彼は2年ほどして、彼女を連れて戻ってきた。
勿論、一時帰国で、その時には、すでにノルウエーで就職もし、家も探し、近いうちに、正式に、彼女と結婚することを、幸せそうに話してくれた。異国の地、ノルウエーで、結婚式を挙げることを決意した彼は、地球人と我々(夫と私)にも、「出来たら結婚式に参加してほしい!!」と招待してくれた。
2000年6月、彼の結婚式に参加するため、我々は、ノルウエー行きの計画を立てた。色々考えて、私は初めてネットオークションで、夫の切符を買った。秒刻みに価格が変わるオークションを落札するのは、初めての経験で、とてもスリルがあって、面白かった。
私は、夫と地球人より、4日ほど先に出発し、アメリカの航空会社で、モントリオール、アムステルダム、オスローと飛んで、先に宿の手配をした。
4日後、地球人は、イギリスの航空会社でモントリオール、ロンドン、オスローと飛んで来た。夫は、モントリオール、トロント、フランクフルト、オスローとドイツの航空会社で飛んで来た。
つまり、この時は、3人共、全く違う航空会社で旅行し、オスローの空港で、待ち合わせをしたのだ。勿論、帰りも別々。モントリオールの空港で待ち合わせ。大体同じ時間に着く様に、私がアレンジしておいた。
さて、多少のずれはあったものの、ほぼ予定通り、オスローの空港で出会えた我々は、すぐにレンタカーを借りて、ノルウエーの古都、ベルゲンに向かった。
地球人の友人は、ベルゲンに住んでいるからだ。しかし、彼は、結婚式はオスローで挙げる。彼女の親族のほとんどが、オスローにすんでいるからだそうだ。従って、我々は、行きと帰りは別々のルートを回り、オスローから、ベルゲンまで、車で往復観光旅行をすることにしたのだ。
運転は、地球人と夫が、交代で頑張った。山の中を越え、片道、約12時間ぐらいの道程だ。空港で貰った道路マップをたよりに山道を行くが、なにしろ道は、国道とは思えぬ狭さ。
それに、道路標識もあまりない。「カナダの道は分かりやすいのに、、、、。」とか、頼りにしている地球人の口からも、心細い言葉が出てくるほど、道がわかり難い。
途中、山道で、ようやく出会った人に道を確認する為、地球人が車を降りて、訊きにいった。戻ってきた地球人の複雑な顔、、、、。8ヶ国語を誇る地球人にも、チンプンカンプンなノルウエー語。本当に世界は広い!!
大体の見当をつけて、先にすすみ、言葉が分かる人を捜しながら、先へ先へと進んだ。フィヨルドの美しい国、ノルウエー王国。段々、山々の間から、青々とした海が見え始め、旅の気分を満喫。途中、フェリーに乗り継いで、ようやく、ベルゲンの町の灯が見え始め、心からホッとした。
ベルゲンは、古い天然の良港のある港町。港では魚介類の市がたち、お土産にキャビアなどを買った。地球人は彼の家に泊まり、夫と私だけホテルに泊まった。港のまわりにある店には、北欧ならではのお人形や、洋服が飾られ、情緒のある町だった。
3日ほどベルゲンで過ごし、又車で、来た時とは別のルートを通り、約12時間の旅。オスローの付近のホテルに向かった。途中の山や海に囲まれたフィヨルドの景色は、想像どおりすばらしかった、、、、がしかし、、、、ノンビリ景色を楽しめぬ、緊急事態発生!!
山越え中、あまりにも長くガソリンスタンドが見つからず、もう少しでガス欠の危機にひんし、普段めったに緊張せぬ地球人も焦りまくり、ガソリンを節約する為、ついにエンジンブレーキで山を降り始めた。なにしろ、行きかう車もほとんどない、寂し~~い山の中。
景色も何も目に入らぬほど、ハラハラドキドキしながら、ひたすら、ガソリンスタンドを探した。かなり山を降りたところに、ようやくガソリンスタンドを見つけた時の、嬉しかった事、、、、、、。 ホッ!!
いよいよオスローで、彼の結婚式に参加する日が来た。古い由緒あるレストランで、素朴な中に温かさが漂う、素敵な結婚式だった。正装した彼も、ようやく6年越しの恋が実って、幸せそうだった。
彼女も頭に月桂樹の葉の冠を載せ、白のシンプルなドレスで優雅に微笑み、本当に幸せそうだった。私達もはるばるモントリオール郊外から、友人の一人として参加させてもらい、トロントから参加した彼のご両親やご兄弟とも会え、楽しいひと時を過ごした。
私達はその後、オスローの町をぶらぶらしたり、ノーベル賞の受賞会場などを見学したりして、別々に帰路についた。私は帰りのフライトの関係で、汽車に乗り、デンマークのコペンハーゲンに立ち寄って、一晩過ごした。次の日は帰路、アムステルダムで、6時間ぐらいの乗り継ぎの間に、シティツアーを済ませたりして、モントリオールに戻った。
その後、彼からは、二人の幸せそうな近況を知らせる手紙とともに、結婚式の思い出スナップ写真集が送られてきた。それからも、地球人は時々、彼の近況を教えてくれた。子供さんにも恵まれたとか、、、、。早く子供がほしいと言っていた彼の言葉を思い出し、「さぞ喜んでいるだろうな、、、」と私も胸が温かくなった。
2008年の春、地球人から電話が入った。いつものんびりした話し方の地球人だが、珍しく差し迫った声だ。「彼が、、、、フロリダ沖で、、、セスナ機の操縦訓練中、事故で、、、、」と暗い声。このところ連絡が途絶えていた彼に、久しぶりに連絡して見たら、なんとすでに、彼はこの世の人ではなかった。
「エッ!!本当??」と、私も、にわかには信じられなかった。「まだまだ、これからという若さで、何故プライベートジェットの操縦など、、、、」と、本当に残念に思ったが、事実とのこと。
残されたご家族のお気持ちをお察しすると、本当に胸が痛く、辛い話だ。地球人も、この耳を疑うような、非情なニュースに、ショックと動揺を隠せぬ声をしていた。
ちょっとポールニューマンに似た彼の、ハンサムでいたずらっぽい、陽気な笑顔とともに、ノルウエー王国は我が家にとって、忘れえぬ国となった。「安らかに、、、、、」と、地球人共々、心から彼のご冥福を祈らずにはいられない。
この彼は、地球人ととても気が合い、その後、トロントに戻っても、地球人と連絡を取り合っていた。実は彼は、そのドイツ短期留学中に、運命の女性と出会い、恋に落ちた。女性はノルウエー人で、偶然、友人との旅行中に彼と出会い、お互いに惹かれたそうだ。トロントに戻っても、彼の心はここにあらず。いつもノルウエーの彼女の話をしていた。
彼は帰国後まもなく、地球人に会いに、はるばるトロントから車で7時間ぐらい運転して、我が家に遊びに来た。地球人から聞いていた通り、陽気な好青年で、我が家の食卓を賑わしてくれた。
散々、彼女のお惚気話をしたあと、「必ず、ノルウエーに戻り、彼女と一緒に暮らす!!」と、我々に嬉しそうに告げた。そして間もなく、彼は本当に、ノルウエーに旅立って行った。
彼は旅立つ前に、近いうちに彼女を婚約者として、親に合わせにカナダに連れてくるから、その時には、私にも紹介してくれると約束した。その通りに、彼は2年ほどして、彼女を連れて戻ってきた。
勿論、一時帰国で、その時には、すでにノルウエーで就職もし、家も探し、近いうちに、正式に、彼女と結婚することを、幸せそうに話してくれた。異国の地、ノルウエーで、結婚式を挙げることを決意した彼は、地球人と我々(夫と私)にも、「出来たら結婚式に参加してほしい!!」と招待してくれた。
2000年6月、彼の結婚式に参加するため、我々は、ノルウエー行きの計画を立てた。色々考えて、私は初めてネットオークションで、夫の切符を買った。秒刻みに価格が変わるオークションを落札するのは、初めての経験で、とてもスリルがあって、面白かった。
私は、夫と地球人より、4日ほど先に出発し、アメリカの航空会社で、モントリオール、アムステルダム、オスローと飛んで、先に宿の手配をした。
4日後、地球人は、イギリスの航空会社でモントリオール、ロンドン、オスローと飛んで来た。夫は、モントリオール、トロント、フランクフルト、オスローとドイツの航空会社で飛んで来た。
つまり、この時は、3人共、全く違う航空会社で旅行し、オスローの空港で、待ち合わせをしたのだ。勿論、帰りも別々。モントリオールの空港で待ち合わせ。大体同じ時間に着く様に、私がアレンジしておいた。
さて、多少のずれはあったものの、ほぼ予定通り、オスローの空港で出会えた我々は、すぐにレンタカーを借りて、ノルウエーの古都、ベルゲンに向かった。
地球人の友人は、ベルゲンに住んでいるからだ。しかし、彼は、結婚式はオスローで挙げる。彼女の親族のほとんどが、オスローにすんでいるからだそうだ。従って、我々は、行きと帰りは別々のルートを回り、オスローから、ベルゲンまで、車で往復観光旅行をすることにしたのだ。
運転は、地球人と夫が、交代で頑張った。山の中を越え、片道、約12時間ぐらいの道程だ。空港で貰った道路マップをたよりに山道を行くが、なにしろ道は、国道とは思えぬ狭さ。
それに、道路標識もあまりない。「カナダの道は分かりやすいのに、、、、。」とか、頼りにしている地球人の口からも、心細い言葉が出てくるほど、道がわかり難い。
途中、山道で、ようやく出会った人に道を確認する為、地球人が車を降りて、訊きにいった。戻ってきた地球人の複雑な顔、、、、。8ヶ国語を誇る地球人にも、チンプンカンプンなノルウエー語。本当に世界は広い!!
大体の見当をつけて、先にすすみ、言葉が分かる人を捜しながら、先へ先へと進んだ。フィヨルドの美しい国、ノルウエー王国。段々、山々の間から、青々とした海が見え始め、旅の気分を満喫。途中、フェリーに乗り継いで、ようやく、ベルゲンの町の灯が見え始め、心からホッとした。
ベルゲンは、古い天然の良港のある港町。港では魚介類の市がたち、お土産にキャビアなどを買った。地球人は彼の家に泊まり、夫と私だけホテルに泊まった。港のまわりにある店には、北欧ならではのお人形や、洋服が飾られ、情緒のある町だった。
3日ほどベルゲンで過ごし、又車で、来た時とは別のルートを通り、約12時間の旅。オスローの付近のホテルに向かった。途中の山や海に囲まれたフィヨルドの景色は、想像どおりすばらしかった、、、、がしかし、、、、ノンビリ景色を楽しめぬ、緊急事態発生!!
山越え中、あまりにも長くガソリンスタンドが見つからず、もう少しでガス欠の危機にひんし、普段めったに緊張せぬ地球人も焦りまくり、ガソリンを節約する為、ついにエンジンブレーキで山を降り始めた。なにしろ、行きかう車もほとんどない、寂し~~い山の中。
景色も何も目に入らぬほど、ハラハラドキドキしながら、ひたすら、ガソリンスタンドを探した。かなり山を降りたところに、ようやくガソリンスタンドを見つけた時の、嬉しかった事、、、、、、。 ホッ!!
いよいよオスローで、彼の結婚式に参加する日が来た。古い由緒あるレストランで、素朴な中に温かさが漂う、素敵な結婚式だった。正装した彼も、ようやく6年越しの恋が実って、幸せそうだった。
彼女も頭に月桂樹の葉の冠を載せ、白のシンプルなドレスで優雅に微笑み、本当に幸せそうだった。私達もはるばるモントリオール郊外から、友人の一人として参加させてもらい、トロントから参加した彼のご両親やご兄弟とも会え、楽しいひと時を過ごした。
私達はその後、オスローの町をぶらぶらしたり、ノーベル賞の受賞会場などを見学したりして、別々に帰路についた。私は帰りのフライトの関係で、汽車に乗り、デンマークのコペンハーゲンに立ち寄って、一晩過ごした。次の日は帰路、アムステルダムで、6時間ぐらいの乗り継ぎの間に、シティツアーを済ませたりして、モントリオールに戻った。
その後、彼からは、二人の幸せそうな近況を知らせる手紙とともに、結婚式の思い出スナップ写真集が送られてきた。それからも、地球人は時々、彼の近況を教えてくれた。子供さんにも恵まれたとか、、、、。早く子供がほしいと言っていた彼の言葉を思い出し、「さぞ喜んでいるだろうな、、、」と私も胸が温かくなった。
2008年の春、地球人から電話が入った。いつものんびりした話し方の地球人だが、珍しく差し迫った声だ。「彼が、、、、フロリダ沖で、、、セスナ機の操縦訓練中、事故で、、、、」と暗い声。このところ連絡が途絶えていた彼に、久しぶりに連絡して見たら、なんとすでに、彼はこの世の人ではなかった。
「エッ!!本当??」と、私も、にわかには信じられなかった。「まだまだ、これからという若さで、何故プライベートジェットの操縦など、、、、」と、本当に残念に思ったが、事実とのこと。
残されたご家族のお気持ちをお察しすると、本当に胸が痛く、辛い話だ。地球人も、この耳を疑うような、非情なニュースに、ショックと動揺を隠せぬ声をしていた。
ちょっとポールニューマンに似た彼の、ハンサムでいたずらっぽい、陽気な笑顔とともに、ノルウエー王国は我が家にとって、忘れえぬ国となった。「安らかに、、、、、」と、地球人共々、心から彼のご冥福を祈らずにはいられない。
2009年1月11日日曜日
ケベックシティの思い出
旅狂いの話題をしばらくお伝えしたが、地球人はこの頃、遊んでばかりではなかった。私の学費負担も学生ビザで勉強していた大学までで、大学院では、学費、生活費、遊びの費用を捻出するため、論文をかなり書き、ケベック省の奨学金を卒業まで貰い続け、教師や通訳のアルバイトもし、経済的にも独立していた。
これは単に地球人だけの問題ではなく、アメリカ、カナダの学生は、独立心が強い。大抵アルバイトしたり、休学して学費を貯めてから復学したりして、自分の生活を賄う学生が多い。勿論中には、完全に親掛かりの学生も居るが、少ない。
ただ、私の心配は、倹約しすぎて栄養失調になってはということだった。余計なお節介心を起こした私は、前にも触れたように、大学院生時代の5年間、自主的に3週間分のお弁当屋開業を申し入れ、地球人は3週間おきに、凄まじい量の空のお弁当箱を持ち帰るようになっていた。
又、自分の趣味を家族で楽しむことが好きな地球人は、いつもコンサートなどが開かれる度に知らせてきた。その度にはるばる250キロ離れた、ケベック市に応援かたがた、遊びにいった。皆様もよくご存知だと思うが、ケベック市には、古い城砦をホテルに作り変えたシャトードフロントナックというとても綺麗なホテルがある。
ケベック市はモントリオールに比べ、あまり大きくないコージーな町だが、夏ともなると、市内を馬車が走り、ホテルのテラスでは、大道芸人が技を披露し、音楽がながれる素敵な町になる。
ケベック市はフランス文化を色濃く残し、町のカフェは道に張り出し、正に私の大好きな絵画、ゴッホの「夜のカフェテラス」そのもののたたずまい。(話はそれるが、遺伝子とは凄い。大学時代、地球人のモントリオールのアパートに行ったら、部屋にこの「夜のカフェテラス」のコピー画が飾ってあった。地球人も特にこの絵が好きで、部屋の飾りに買ったのだとか。かつて一度も話したことがないのに、、、。ゾ~~~ッ!!)
対岸の島との間をフェリーが通い、その船上から眺めるシャトードフロントナックの景色は最高だ。ここから3時間程いったところに、鯨見物やラッコやアザラシの泳ぎも見られる観光名所がある。私は地球人がこの地で勉強している間、何度このコージーな町を散歩したことか。
地球人が日本に拠点を移してからは、とんとご無沙汰しているが、今思い出すと本当に懐かしい景色。町のそこここに似顔絵画家が出ていて、画商も多い。
ここには博物館もあって、以前とても面白い経験をした。博物館に入るには、大人、学生、子供の3種類の料金があるのだが、当時私は政府のフランス語無料学習コースに入っていた。ただ面白がって、「今、移民してきて、フランス語を勉強中なの。学生料金でいい??」と質問したところ、「OK!!」とあっさり何も見ないで、学生料金。このおば(あ)さんがですよ、、、、。
大人の半分以下の料金で入場できた私は、あまりの大らかさにビックリ!! 普通、「じゃ学生証でも見せて、、、、って、どこでも言うでしょう??」 ケベック省では、フランス語教育を本当に大切にしているが、特にケベックシティではフランス文化を守るプライドがモントリオールよりもかなり強く、殆どの人はあまり英語を話さない。
博物館の入場券の出来事は、しみじみ、「ケベック省の首都だなあ!!」と感じさせる忘れられないエピソードだった。
これは単に地球人だけの問題ではなく、アメリカ、カナダの学生は、独立心が強い。大抵アルバイトしたり、休学して学費を貯めてから復学したりして、自分の生活を賄う学生が多い。勿論中には、完全に親掛かりの学生も居るが、少ない。
ただ、私の心配は、倹約しすぎて栄養失調になってはということだった。余計なお節介心を起こした私は、前にも触れたように、大学院生時代の5年間、自主的に3週間分のお弁当屋開業を申し入れ、地球人は3週間おきに、凄まじい量の空のお弁当箱を持ち帰るようになっていた。
又、自分の趣味を家族で楽しむことが好きな地球人は、いつもコンサートなどが開かれる度に知らせてきた。その度にはるばる250キロ離れた、ケベック市に応援かたがた、遊びにいった。皆様もよくご存知だと思うが、ケベック市には、古い城砦をホテルに作り変えたシャトードフロントナックというとても綺麗なホテルがある。
ケベック市はモントリオールに比べ、あまり大きくないコージーな町だが、夏ともなると、市内を馬車が走り、ホテルのテラスでは、大道芸人が技を披露し、音楽がながれる素敵な町になる。
ケベック市はフランス文化を色濃く残し、町のカフェは道に張り出し、正に私の大好きな絵画、ゴッホの「夜のカフェテラス」そのもののたたずまい。(話はそれるが、遺伝子とは凄い。大学時代、地球人のモントリオールのアパートに行ったら、部屋にこの「夜のカフェテラス」のコピー画が飾ってあった。地球人も特にこの絵が好きで、部屋の飾りに買ったのだとか。かつて一度も話したことがないのに、、、。ゾ~~~ッ!!)
対岸の島との間をフェリーが通い、その船上から眺めるシャトードフロントナックの景色は最高だ。ここから3時間程いったところに、鯨見物やラッコやアザラシの泳ぎも見られる観光名所がある。私は地球人がこの地で勉強している間、何度このコージーな町を散歩したことか。
地球人が日本に拠点を移してからは、とんとご無沙汰しているが、今思い出すと本当に懐かしい景色。町のそこここに似顔絵画家が出ていて、画商も多い。
ここには博物館もあって、以前とても面白い経験をした。博物館に入るには、大人、学生、子供の3種類の料金があるのだが、当時私は政府のフランス語無料学習コースに入っていた。ただ面白がって、「今、移民してきて、フランス語を勉強中なの。学生料金でいい??」と質問したところ、「OK!!」とあっさり何も見ないで、学生料金。このおば(あ)さんがですよ、、、、。
大人の半分以下の料金で入場できた私は、あまりの大らかさにビックリ!! 普通、「じゃ学生証でも見せて、、、、って、どこでも言うでしょう??」 ケベック省では、フランス語教育を本当に大切にしているが、特にケベックシティではフランス文化を守るプライドがモントリオールよりもかなり強く、殆どの人はあまり英語を話さない。
博物館の入場券の出来事は、しみじみ、「ケベック省の首都だなあ!!」と感じさせる忘れられないエピソードだった。
2009年1月9日金曜日
地球人の旅狂い(中南米)
大学院時代、地球人の旅の興味は、主に中南米にあった。スペイン語の常用強化プランも含めた旅先の決定。1998年夏には、まずコスタリカを訪問。その後、1998年冬の、家族との最初のキューバ旅行に続き、その後又、一人でも2回行き、キューバには合計3回行った。そして、地元の人に密着した生活を体験した。当時のキューバには、まだ、大都市以外、多くの町にはバスも少なく、馬車の荷台に揺られて移動する人も多かったそうだ。
このころは既に、言葉を強固にするために欠かせぬ大切な要素として、私が地球人の子供時代に、意識的に取り組んでいた、環境、導入、常用、固定のプロセスを十分理解し、言葉の導入、常用環境の設定は自分でやり始めていた地球人を、私も大いに応援していた。
地球人が見た、当時のキューバは、トイレットペーバーなどもかなり贅沢品で、固い紙が多く、「腹具合でも悪くして何度もトイレに通ったら、皮でも擦り剥けて悲惨かも、、、、。」と変な想像をしていた。キューバのバンド仲間とも旧交を温め、色々と体験したらしいが、やはり、現実の庶民の生活は、想像を絶する厳しさだったようだ。しかし、澄んだ綺麗な素晴らしい海、明るい太陽、楽しい音楽、そして、医学も進んだ教育大国の一面と、人々の明るさには、考えさせられることが多かったようだ。
次には、研究室の仲間と、ペルーとブラジルに出かけた。雄大なマチュピチュへもバスで出かけ、途中の細くて険しい断崖絶壁の道を、バスの運転手さんがぎりぎりで運転して行き、スリル満点だったそうだ。地球人のホームページの、旅のところにその写真が載っているが、確かに、あんな高いところによく人間が住んだと思うような、神秘的なところだ。
アマゾン探検旅行では、初級コースでは物足りず、中級コースを取ったそうだ。上級コースとなると命は保証できないコースもあるそうで、「オイオイオイ!!せっかくここまで育てたのに、ワニや毒蛇の餌食にだけはなってくれるな!!」と釘をさした。
本当にこの頃は、旅の楽しさ、特にスペイン語やポルトガル語を使える旅行に行くのが、楽しくて仕方がなかったらしい。このアマゾン探検の旅行では、同行の友人(ものすごく背が高い)が夜寝るとき、テントからはみ出した足を出したまま寝ていたら、夜中にすっかり藪蚊に刺されまくり、翌朝、パンパンに腫上がり、猛烈な痒みで大変だったそうだ。
その上、もう少しで、親の私達が、例の別荘(わかるでしょ??どこか!!)に、「貰い下げ」にいかなきゃならないようなドジをやらかし、まあ結果的には、滑り込みセーフで飛行機に乗れたのだが、ひどい目にあったらしい。
勿論、自業自得だが、帰国前日、夜中遅くまで飲んだくれていた3人は、「あとは飛行機に乗るだけ!!いっそ朝まで飲み明かそう!!」と、たらふく飲んで、空港入り。荷物検査で友人の荷物が、「ビ~~~!!」 「何か刃物を持っていますね???」と訊かれても、「イエイエイエ!!」と否定しまくり、「ちょっと此方へ!!」と別室へ。
頭から、手持ちの荷物に、危険物など入れていない、と思い込んでいた友人は、勿論、否定しまくり。「これはナンですか??」と、果物ナイフを自分の荷物から出されて、ガクゼン!!色々言いたいが、英語もスペイン語も苦手で、その上、へべれけに酔っている。そこで、これまた、ベロンベロンに酔った地球人にSOS!!!!
オットリガタナで駆けつけた地球人も、眼はトロ~~~ン!!最初は何が何だかわからずポワ~~ン!!段々と話が進んで、事の重大さに、「もしかしたら帰れなくなるかも?!」と、ようやく気付き、ベロンベロンの意識もサ~~ッと回復。慌てて、「全然悪気はなく、ただ手違いで、、、、。」と、平謝りに謝り説明し、学生証を見せて、何とかパス。「本当にひどい目にあったよ!!」と、流石にちょっと焦ったらしい。
聞いてみると、ナイフが発見された当初は、すっかり、3人の怪しいハイジャック犯と間違えられ、もう少しで飛行機に乗り遅れるばかりか、異国の別荘入りの危機だったとか。でもね!!当時の3人は、みんなロンゲで髭ボウボウ。おまけに、夜通し飲んで、目はトロン!!酒臭い息でナイフ持ち。とても皆、大学院の研究者などという面影なし。そう疑われても仕方ない。(親が言うんだから間違いなし!!)
帰りに、我が家で一泊してから、ケベック市にもどっていった、例の、蚊に刺されて脚がパンパンになった友人は、「もうアマゾンはこりごり!!」、 もう一人のナイフの彼は、「いやあ、本当にどうなることかと思った!!」と、これも、かなりショックを隠せない。
ノーテンキな地球人だけが、さして反省の色もなく、「今度はアマゾンの上級コースをとろうかな!!道を一歩間違えたら、永遠に中をさ迷い続けて、アマゾンの露と消えるけど、、、、、。」などと親の苦労も知らないで、トンでもない事を話していた。
その後、大学時代の親友と、カーニバル見物と称して、又ブラジルに出かけたり、大学院の間は、中南米からの学生と多く付き合い、我が家に泊まりにくる人々も、スペイン語でお喋りする友達が、圧倒的に増えていった。
従って、我が家の食卓は、英語、フランス語、スペイン語、北京語、日本語が飛び交う、会話している当人意外、お互いに、「意味プー??」の状態に陥り、地球人だけが、どの話にも笑っている、変な食卓となっていった。
こうして、スペイン語に関しても、意識して、不足している常用の機会を自から求め、いつしか彼は、旅の費用を捻出するため、4カ国語の通訳として、世界的なチェーン展開をしている、歴史の長い、某国際語学塾にも登録し、通訳のアルバイトも始めていた。その間、ちゃっかり、教授法の訓練コースまで受けていた。
そして、研究室の仕事が終わった後、語学の先生としても、アルバイトをするようになっていった。この頃から、我が家に、意味不明な機関から、地球人への振込通知が届くようになり、通訳や語学教師としても忙しく、小遣い稼ぎをしていることが親にもバレた。
指導教授の関係者から、特別に頼まれ、ドミニカに通訳として、出張したときは、何と通訳の通訳という、誠に複雑な仕事で、日本、ドミニカ、フランス、ケベックが絡んだ仕事の通訳をした。
各国の会社は、当然(日本語ー英語、スペイン語ー英語、フランス語ー英語)の有能な通訳を帯同してきた。しかし、日本の会社の人が、日本語で通訳に頼んだ内容を、通訳がどの程度正確に、英語で伝えているか、そして、次に、ドミニカの会社の人が、スペイン語で通訳に頼んだ内容を、通訳がどの程度正確に、英語で伝えているか、そして、それぞれの通訳が、質問の答えを、また顧客の母国語に、どれほど正確に通訳しているか、などがお互いの会社間ではわからない。
同様に、フランスの会社の人と、ケベックの会社の人も、通訳との同様の問題にぶつかった。そこで、各通訳の内容を補佐する、公平な通訳が、この会議にはもう一人必要だ、という意見がだされたそうだ。
その通訳の通訳に求められる条件は、日本語、英語、フランス語、スペイン語の4カ国語を、同時に聞き分けられる事が、必要不可欠な条件だった。通訳の人選は難航を極め、会議に参加する、それぞれの会社に関係がある機関に、照会が出された。
その事が、当時の地球人の指導教授の耳にも入り、教授の推薦により、地球人に白羽の矢が立てられた。3日ぐらいのスケジュールで、ドミニカに通訳の通訳に出かけた地球人は、上機嫌で戻ってきた。何しろ指導教授の公認休暇の下、初めてドミニカを訪問し、豪華なホテル、食事、すべてスポンサー付きで、とても優遇していただき、毎晩美味しいお料理とお酒も堪能。とても旅を楽しんだとか、、、、。
そして、その実労働時間に支払われた、「通訳の通訳」の時給は、なんと、一時間あたり二桁の万。(羨ましい。半分ぐらい、搾取したい!!ーー陰の声) その収入はすべて、地球人のその後の、旅の費用として使われた事は、言うまでもない。こうして、旅のアニキは、ますます、世界中に飛び出していった。
ちなみに、スペイン語とポルトガル語の強化のために、地球人が1992年から2002年までに訪れた、中南米の国々と、都市名は以下の通り。(地球人の報告に基づく)
Ecuador(Quito, Cuenca, Riobamba, Banos, etc....)
Costa Rica(San Jose, Manuel Antonio, etc.....)
Cuba(Nuevitas, Camaguey, Holguin, Havana)
Dominican Republic(Santo Domingo etc.....)
Peru(Lima, Cuzco, Macchu, Picchu, Iquitos)
Brazil(Sao Paolo, Belo Horizonte, Ouro Preto, Salvador de Bahia, Rio de Janeiro, Amazon,etc.....)
以上
このころは既に、言葉を強固にするために欠かせぬ大切な要素として、私が地球人の子供時代に、意識的に取り組んでいた、環境、導入、常用、固定のプロセスを十分理解し、言葉の導入、常用環境の設定は自分でやり始めていた地球人を、私も大いに応援していた。
地球人が見た、当時のキューバは、トイレットペーバーなどもかなり贅沢品で、固い紙が多く、「腹具合でも悪くして何度もトイレに通ったら、皮でも擦り剥けて悲惨かも、、、、。」と変な想像をしていた。キューバのバンド仲間とも旧交を温め、色々と体験したらしいが、やはり、現実の庶民の生活は、想像を絶する厳しさだったようだ。しかし、澄んだ綺麗な素晴らしい海、明るい太陽、楽しい音楽、そして、医学も進んだ教育大国の一面と、人々の明るさには、考えさせられることが多かったようだ。
次には、研究室の仲間と、ペルーとブラジルに出かけた。雄大なマチュピチュへもバスで出かけ、途中の細くて険しい断崖絶壁の道を、バスの運転手さんがぎりぎりで運転して行き、スリル満点だったそうだ。地球人のホームページの、旅のところにその写真が載っているが、確かに、あんな高いところによく人間が住んだと思うような、神秘的なところだ。
アマゾン探検旅行では、初級コースでは物足りず、中級コースを取ったそうだ。上級コースとなると命は保証できないコースもあるそうで、「オイオイオイ!!せっかくここまで育てたのに、ワニや毒蛇の餌食にだけはなってくれるな!!」と釘をさした。
本当にこの頃は、旅の楽しさ、特にスペイン語やポルトガル語を使える旅行に行くのが、楽しくて仕方がなかったらしい。このアマゾン探検の旅行では、同行の友人(ものすごく背が高い)が夜寝るとき、テントからはみ出した足を出したまま寝ていたら、夜中にすっかり藪蚊に刺されまくり、翌朝、パンパンに腫上がり、猛烈な痒みで大変だったそうだ。
その上、もう少しで、親の私達が、例の別荘(わかるでしょ??どこか!!)に、「貰い下げ」にいかなきゃならないようなドジをやらかし、まあ結果的には、滑り込みセーフで飛行機に乗れたのだが、ひどい目にあったらしい。
勿論、自業自得だが、帰国前日、夜中遅くまで飲んだくれていた3人は、「あとは飛行機に乗るだけ!!いっそ朝まで飲み明かそう!!」と、たらふく飲んで、空港入り。荷物検査で友人の荷物が、「ビ~~~!!」 「何か刃物を持っていますね???」と訊かれても、「イエイエイエ!!」と否定しまくり、「ちょっと此方へ!!」と別室へ。
頭から、手持ちの荷物に、危険物など入れていない、と思い込んでいた友人は、勿論、否定しまくり。「これはナンですか??」と、果物ナイフを自分の荷物から出されて、ガクゼン!!色々言いたいが、英語もスペイン語も苦手で、その上、へべれけに酔っている。そこで、これまた、ベロンベロンに酔った地球人にSOS!!!!
オットリガタナで駆けつけた地球人も、眼はトロ~~~ン!!最初は何が何だかわからずポワ~~ン!!段々と話が進んで、事の重大さに、「もしかしたら帰れなくなるかも?!」と、ようやく気付き、ベロンベロンの意識もサ~~ッと回復。慌てて、「全然悪気はなく、ただ手違いで、、、、。」と、平謝りに謝り説明し、学生証を見せて、何とかパス。「本当にひどい目にあったよ!!」と、流石にちょっと焦ったらしい。
聞いてみると、ナイフが発見された当初は、すっかり、3人の怪しいハイジャック犯と間違えられ、もう少しで飛行機に乗り遅れるばかりか、異国の別荘入りの危機だったとか。でもね!!当時の3人は、みんなロンゲで髭ボウボウ。おまけに、夜通し飲んで、目はトロン!!酒臭い息でナイフ持ち。とても皆、大学院の研究者などという面影なし。そう疑われても仕方ない。(親が言うんだから間違いなし!!)
帰りに、我が家で一泊してから、ケベック市にもどっていった、例の、蚊に刺されて脚がパンパンになった友人は、「もうアマゾンはこりごり!!」、 もう一人のナイフの彼は、「いやあ、本当にどうなることかと思った!!」と、これも、かなりショックを隠せない。
ノーテンキな地球人だけが、さして反省の色もなく、「今度はアマゾンの上級コースをとろうかな!!道を一歩間違えたら、永遠に中をさ迷い続けて、アマゾンの露と消えるけど、、、、、。」などと親の苦労も知らないで、トンでもない事を話していた。
その後、大学時代の親友と、カーニバル見物と称して、又ブラジルに出かけたり、大学院の間は、中南米からの学生と多く付き合い、我が家に泊まりにくる人々も、スペイン語でお喋りする友達が、圧倒的に増えていった。
従って、我が家の食卓は、英語、フランス語、スペイン語、北京語、日本語が飛び交う、会話している当人意外、お互いに、「意味プー??」の状態に陥り、地球人だけが、どの話にも笑っている、変な食卓となっていった。
こうして、スペイン語に関しても、意識して、不足している常用の機会を自から求め、いつしか彼は、旅の費用を捻出するため、4カ国語の通訳として、世界的なチェーン展開をしている、歴史の長い、某国際語学塾にも登録し、通訳のアルバイトも始めていた。その間、ちゃっかり、教授法の訓練コースまで受けていた。
そして、研究室の仕事が終わった後、語学の先生としても、アルバイトをするようになっていった。この頃から、我が家に、意味不明な機関から、地球人への振込通知が届くようになり、通訳や語学教師としても忙しく、小遣い稼ぎをしていることが親にもバレた。
指導教授の関係者から、特別に頼まれ、ドミニカに通訳として、出張したときは、何と通訳の通訳という、誠に複雑な仕事で、日本、ドミニカ、フランス、ケベックが絡んだ仕事の通訳をした。
各国の会社は、当然(日本語ー英語、スペイン語ー英語、フランス語ー英語)の有能な通訳を帯同してきた。しかし、日本の会社の人が、日本語で通訳に頼んだ内容を、通訳がどの程度正確に、英語で伝えているか、そして、次に、ドミニカの会社の人が、スペイン語で通訳に頼んだ内容を、通訳がどの程度正確に、英語で伝えているか、そして、それぞれの通訳が、質問の答えを、また顧客の母国語に、どれほど正確に通訳しているか、などがお互いの会社間ではわからない。
同様に、フランスの会社の人と、ケベックの会社の人も、通訳との同様の問題にぶつかった。そこで、各通訳の内容を補佐する、公平な通訳が、この会議にはもう一人必要だ、という意見がだされたそうだ。
その通訳の通訳に求められる条件は、日本語、英語、フランス語、スペイン語の4カ国語を、同時に聞き分けられる事が、必要不可欠な条件だった。通訳の人選は難航を極め、会議に参加する、それぞれの会社に関係がある機関に、照会が出された。
その事が、当時の地球人の指導教授の耳にも入り、教授の推薦により、地球人に白羽の矢が立てられた。3日ぐらいのスケジュールで、ドミニカに通訳の通訳に出かけた地球人は、上機嫌で戻ってきた。何しろ指導教授の公認休暇の下、初めてドミニカを訪問し、豪華なホテル、食事、すべてスポンサー付きで、とても優遇していただき、毎晩美味しいお料理とお酒も堪能。とても旅を楽しんだとか、、、、。
そして、その実労働時間に支払われた、「通訳の通訳」の時給は、なんと、一時間あたり二桁の万。(羨ましい。半分ぐらい、搾取したい!!ーー陰の声) その収入はすべて、地球人のその後の、旅の費用として使われた事は、言うまでもない。こうして、旅のアニキは、ますます、世界中に飛び出していった。
ちなみに、スペイン語とポルトガル語の強化のために、地球人が1992年から2002年までに訪れた、中南米の国々と、都市名は以下の通り。(地球人の報告に基づく)
Ecuador(Quito, Cuenca, Riobamba, Banos, etc....)
Costa Rica(San Jose, Manuel Antonio, etc.....)
Cuba(Nuevitas, Camaguey, Holguin, Havana)
Dominican Republic(Santo Domingo etc.....)
Peru(Lima, Cuzco, Macchu, Picchu, Iquitos)
Brazil(Sao Paolo, Belo Horizonte, Ouro Preto, Salvador de Bahia, Rio de Janeiro, Amazon,etc.....)
以上
2009年1月7日水曜日
キューバ家族旅行
地球人が大学院の2年生になった冬、クリスマス休暇を家族でキューバで過ごすため、我々は遥遥出かけていった。この時は、ホテル、食事、ディナーショーなど、全てが含まれた一週間のパック旅行だった。ケベックの人達は、長い冬を嫌って、マイアミや、カリビアン諸国へ、ヴァカンスに出かける人が多い。この旅行も、飛行機はチャーターで、満員の盛況だった。
ホテルに着いて驚いた。ともかく、周りには殆ど目立った建物がなく、閑散とした通りに、ただ、ホテルだけが、ドカ~~~ンとあり、何から何まで、ホテル内で、お金を落とすように成っている。確かに、隣接して二つほど、姉妹ホテルがあり、歩いて中を見学したり、遊んだりは出来る。しかし、周りにまるで、生活臭がないのだ。 つまり、観光客の為のみの場所。ラスベガスより酷い。
たまに車は通るが、とにかく、空港から、チャーターされたバスで運び込まれたこのホテルは、ただただ、寝て、食べて、プールか海で泳いで、夜はショーを楽しむ以外、(というより楽しまざるを得ない??)何もすることがない。「ショッピング???」勿論ホテルの中。「バー??」勿論ホテル以外見当たらない。「近所に歓楽街???」イエイエとんでもない。
子供時代ひ弱で、マリンスポーツなど、やったことがなかった私には、海も無用の長物。暫く、ただただ砂浜で、ホテルが準備した椅子に寝っころがって、ボ~~~ッ!!!見渡すと、タクサンの人が、水中眼鏡を掛け、忍者のパイプのようなものを咥え、一心に海の中を覗いている。訊いてみると、すごく綺麗な魚が、ウヨウヨ泳いでいるそうだ。
澄んだ綺麗な海、熱帯魚のような魚がウヨウヨと聞いて、「ソンジャ、一丁、魚見物といくか!!」と、張り切って水中眼鏡をかけ、忍者のブクブクのようなパイプを借りて咥え、止しゃあいいのに、ザンブと海へ、、、、。ところが普段、海なんぞじゃ、ついぞ泳いだことがなく、ほぼ確実に初心者の私は、パイプに気をとられると、泳ぐバランスがくずれ、自分の狙いも定まらない。
魚を見るどころか、バランスを取りながら、下を覗くのも難しい。アレヨアレヨという間に流されて、桟橋の下あたりに流れ着き、思わず怖くて、夢中で、橋げたを掴んでしまった。その橋げたにこびりついていた、変な貝を素手で掴んでしまった私は、突然、「ピリリ!!」という、鋭い感触にドッキリ!!アッという間に、手の平が、変な貝の毒でカブレ、腫れてきて、痛いの痒いの、我慢が出来ない。
早々に海から退散して、まずは部屋にもどり、メンソレータムを塗ってみたが、手の平は赤く腫上り、熱を持ち、まるで効果なし。今でこそ、全く痒みがなくなったが、この後遺症は、数年続いた。ちょっと温まると、手の平がムズムズムズムズ。痛さはなくなったが、痒みはその後、3~4年もつきまとった。
地球人は??というと、何せこの頃には、スペイン語がかなりお得意。それに、キューバといえばラテン音楽の宝庫。最初の晩のショーで、バンドメンバーと早速仲がよくなり、音楽談義に、ドラムの実技習得。朝、昼、晩とも、しっかり食べて、しっかり飲んで、それに、楽しい音楽満載となれば、毎日楽しそうに、「ウハウハウハウハ!!」本当に、「言葉が出来るって、国境がなくていいなあ!!」と、心から羨ましく思った。
次の日も、相変わらず手は痛痒い。隣のホテルも見飽きてきた。水でふやける程、プールで泳いでも、あまり面白くない。ただ、海は確かに綺麗で、透き通った水。砂浜は真っ白で、暖かい日差し。寒さを逃れ、明るい太陽を求めてやってきた、ケベックの人々は、結構楽しそうにしていた。
色々な国からの宿泊者は、毎晩、バンドのリズムに合わせて踊ったり、賑やかに飲んだり歌ったり、皆、もともと、子供時代から遊びなれているのだろう。その適応力が全然ちがう。我が子ながら、地球人も、食事の時以外は、殆ど顔を合わすことがないぐらい、適応力抜群で、この旅を、大いに楽しんでいる。バンドの人の小屋に入って、スペイン語でドラムの講習を受けたり、一緒に音楽談義を交わしたり、物凄く収穫の多い旅のようだ。
毎回、殆ど同じ食事メニューにも飽きてきて、「ああ、梅干に沢庵で、お茶漬けさらさらが食べたいなあ!!」などと、私は叶わぬ夢を見続けた。やっぱり、いくら旅慣れていても、子供時代の過ごし方が違う私には、1日か2日で十分な感じの旅だった。
途中、いよいよ飽きてきたので、キューバの首都、ハバナ観光にでかけた。泊まっていたホテルからは、国内線の飛行機を利用すれば、1日日帰りコースで行けるという。早速、地球人にアレンジして貰って、皆ででかけた。しかし、これまで、数えきれない程、何度も色々な国の飛行機に乗ったことがある私だが、この飛行機は、凄い!!ただ、凄いとしかいいようがない。機内に入った途端、「この旅行、止めた方がいいのでは?!、、、、」と即座に思った程だ。
古い!!古過ぎるのだ、機体が、、、。雨が滲みたらしい壁は、そこら中がカビだらけ。(まずどうして機体の中に雨が滲みるのか、それだけ考えてもゾ~~~ッ!!) バルクヘッドの壁は一部破損。ボロボロ。「大丈夫かあ~~!!」と、飛ぶ前に思ったのは、数多いフライト経験で、この時が初めてだった。
しかし、すでに、プロペラは回り始め、皆、座っている。もう、引き返せない。あとは、ただただ祈るのみ。40分程のフライトが、延々と続くのではないか、、、、と思う程、長く長く感じた。そして、予想通り、物凄い音と揺れ。アーメン!!いや、南無阿弥陀仏!!!
米ソ冷戦の、大きな傷跡をのこし、まだまだ、発展とは程遠いキューバだったが、ハバナでは、街中のカフェに音楽が流れ、とにかく、人々は陽気だ。バンドが入ってきて、ラテンの明るい音楽を演奏したと思ったら、自分で録音したテープを売りさばき、出ていった。チップがわりに私も買ったが、家に帰ってかけて見たら、音が割れていて、ひどい録音。ほとんど聴き取れない。詐欺だ~~~!!
ハバナで有名な葉巻をお土産に買い、たっぷりと陽気な音楽にひたり、憧れのヘミングウエイが晩年愛した景色を満喫し、又、命がけで、国内線に乗って、ホテルに帰った。それから2日後、モントリオールに戻ったときは、極寒の季節で、大雪の中だったにも拘わらず、「ああ、帰って来られて本当によかった!!」と、心底思った。この一週間、大いに飲み、食い、遊び、楽しみまくった地球人以外は、、、、。
ホテルに着いて驚いた。ともかく、周りには殆ど目立った建物がなく、閑散とした通りに、ただ、ホテルだけが、ドカ~~~ンとあり、何から何まで、ホテル内で、お金を落とすように成っている。確かに、隣接して二つほど、姉妹ホテルがあり、歩いて中を見学したり、遊んだりは出来る。しかし、周りにまるで、生活臭がないのだ。 つまり、観光客の為のみの場所。ラスベガスより酷い。
たまに車は通るが、とにかく、空港から、チャーターされたバスで運び込まれたこのホテルは、ただただ、寝て、食べて、プールか海で泳いで、夜はショーを楽しむ以外、(というより楽しまざるを得ない??)何もすることがない。「ショッピング???」勿論ホテルの中。「バー??」勿論ホテル以外見当たらない。「近所に歓楽街???」イエイエとんでもない。
子供時代ひ弱で、マリンスポーツなど、やったことがなかった私には、海も無用の長物。暫く、ただただ砂浜で、ホテルが準備した椅子に寝っころがって、ボ~~~ッ!!!見渡すと、タクサンの人が、水中眼鏡を掛け、忍者のパイプのようなものを咥え、一心に海の中を覗いている。訊いてみると、すごく綺麗な魚が、ウヨウヨ泳いでいるそうだ。
澄んだ綺麗な海、熱帯魚のような魚がウヨウヨと聞いて、「ソンジャ、一丁、魚見物といくか!!」と、張り切って水中眼鏡をかけ、忍者のブクブクのようなパイプを借りて咥え、止しゃあいいのに、ザンブと海へ、、、、。ところが普段、海なんぞじゃ、ついぞ泳いだことがなく、ほぼ確実に初心者の私は、パイプに気をとられると、泳ぐバランスがくずれ、自分の狙いも定まらない。
魚を見るどころか、バランスを取りながら、下を覗くのも難しい。アレヨアレヨという間に流されて、桟橋の下あたりに流れ着き、思わず怖くて、夢中で、橋げたを掴んでしまった。その橋げたにこびりついていた、変な貝を素手で掴んでしまった私は、突然、「ピリリ!!」という、鋭い感触にドッキリ!!アッという間に、手の平が、変な貝の毒でカブレ、腫れてきて、痛いの痒いの、我慢が出来ない。
早々に海から退散して、まずは部屋にもどり、メンソレータムを塗ってみたが、手の平は赤く腫上り、熱を持ち、まるで効果なし。今でこそ、全く痒みがなくなったが、この後遺症は、数年続いた。ちょっと温まると、手の平がムズムズムズムズ。痛さはなくなったが、痒みはその後、3~4年もつきまとった。
地球人は??というと、何せこの頃には、スペイン語がかなりお得意。それに、キューバといえばラテン音楽の宝庫。最初の晩のショーで、バンドメンバーと早速仲がよくなり、音楽談義に、ドラムの実技習得。朝、昼、晩とも、しっかり食べて、しっかり飲んで、それに、楽しい音楽満載となれば、毎日楽しそうに、「ウハウハウハウハ!!」本当に、「言葉が出来るって、国境がなくていいなあ!!」と、心から羨ましく思った。
次の日も、相変わらず手は痛痒い。隣のホテルも見飽きてきた。水でふやける程、プールで泳いでも、あまり面白くない。ただ、海は確かに綺麗で、透き通った水。砂浜は真っ白で、暖かい日差し。寒さを逃れ、明るい太陽を求めてやってきた、ケベックの人々は、結構楽しそうにしていた。
色々な国からの宿泊者は、毎晩、バンドのリズムに合わせて踊ったり、賑やかに飲んだり歌ったり、皆、もともと、子供時代から遊びなれているのだろう。その適応力が全然ちがう。我が子ながら、地球人も、食事の時以外は、殆ど顔を合わすことがないぐらい、適応力抜群で、この旅を、大いに楽しんでいる。バンドの人の小屋に入って、スペイン語でドラムの講習を受けたり、一緒に音楽談義を交わしたり、物凄く収穫の多い旅のようだ。
毎回、殆ど同じ食事メニューにも飽きてきて、「ああ、梅干に沢庵で、お茶漬けさらさらが食べたいなあ!!」などと、私は叶わぬ夢を見続けた。やっぱり、いくら旅慣れていても、子供時代の過ごし方が違う私には、1日か2日で十分な感じの旅だった。
途中、いよいよ飽きてきたので、キューバの首都、ハバナ観光にでかけた。泊まっていたホテルからは、国内線の飛行機を利用すれば、1日日帰りコースで行けるという。早速、地球人にアレンジして貰って、皆ででかけた。しかし、これまで、数えきれない程、何度も色々な国の飛行機に乗ったことがある私だが、この飛行機は、凄い!!ただ、凄いとしかいいようがない。機内に入った途端、「この旅行、止めた方がいいのでは?!、、、、」と即座に思った程だ。
古い!!古過ぎるのだ、機体が、、、。雨が滲みたらしい壁は、そこら中がカビだらけ。(まずどうして機体の中に雨が滲みるのか、それだけ考えてもゾ~~~ッ!!) バルクヘッドの壁は一部破損。ボロボロ。「大丈夫かあ~~!!」と、飛ぶ前に思ったのは、数多いフライト経験で、この時が初めてだった。
しかし、すでに、プロペラは回り始め、皆、座っている。もう、引き返せない。あとは、ただただ祈るのみ。40分程のフライトが、延々と続くのではないか、、、、と思う程、長く長く感じた。そして、予想通り、物凄い音と揺れ。アーメン!!いや、南無阿弥陀仏!!!
米ソ冷戦の、大きな傷跡をのこし、まだまだ、発展とは程遠いキューバだったが、ハバナでは、街中のカフェに音楽が流れ、とにかく、人々は陽気だ。バンドが入ってきて、ラテンの明るい音楽を演奏したと思ったら、自分で録音したテープを売りさばき、出ていった。チップがわりに私も買ったが、家に帰ってかけて見たら、音が割れていて、ひどい録音。ほとんど聴き取れない。詐欺だ~~~!!
ハバナで有名な葉巻をお土産に買い、たっぷりと陽気な音楽にひたり、憧れのヘミングウエイが晩年愛した景色を満喫し、又、命がけで、国内線に乗って、ホテルに帰った。それから2日後、モントリオールに戻ったときは、極寒の季節で、大雪の中だったにも拘わらず、「ああ、帰って来られて本当によかった!!」と、心底思った。この一週間、大いに飲み、食い、遊び、楽しみまくった地球人以外は、、、、。
2009年1月5日月曜日
御弁当屋開業と趣味のお付き合い
ケベック市の郊外の病院で研究生活を始めた地球人は、3週間に一度、週末に戻ってくるようになった。さすがに、250キロ離れた大学病院から、毎週末に家に戻るのは、きつかったのだろう。3週間目の金曜日に家に戻り、日曜日の午後、病院に戻る日日が始まった。
その頃の私は、正に正に「御弁当屋開業!!」だった。地球人は大学内の寮に入ったが、寮や病院だけの食事では物足りず、毎回、3週間分のお弁当を寮に持ち帰っていた。
私は大きなキャンプ用のアイスボックス二つに3週間分のランチボックス(1日二食)を入れ、その外に果物やスープなども準備し、毎回、地球人が寮に戻る日は、忙しくしていた。
これらのお弁当は地球人が帰って来てから準備するのでは時間的に間に合わないので、3週間分のランチボックスを2セット準備し、一部は冷凍保存して置き、持ち帰ってきた空のお弁当箱は、次の帰宅用に使った。
つまり6週間分のランチボックスが行ったり来たりしていたのだ。従って、我が家は家族3人なのに、大型冷凍庫ふたつ、大型冷蔵庫みっつがフル稼働していた。
すでに私が出来ることはこの程度のことで、あとは、説明を聞いてもチンプンカンプンの専門領域の研究。当時はただただ地球人の健康管理のみ考えていた。
その頃、すでにドラムに大いにのめり込んでいた地球人は、大学院に入っても、すぐ音楽仲間を探し出して、バンドを組んでは時折コンサートを開いていた。コンサート開催のたびによくケベックシティのコンサート会場にもでかけ、応援していた。
地球人はその頃、狭い寮の部屋ではサイレントドラムで練習し、家に戻ると、新に購入したドラムセットで、思いっきり楽しんでいた。その大音響は、震度3ぐらいの音の激震をもたらし、たびたび我が家の人々はその揺れの中にいた。
この頃には、すでに弟のドラムセットは隣の家に運ばれ、自分は更に専門的なものを探し出し、多くのシンバルやラテンの楽器も取り付け、まさに音楽活動にのめり込んでいた。学校内のお祭りには、メンバーと一緒に積極的に参加し、日頃の成果を披露し、学内新聞にも取り上げられるようになっていった。
毎年一度のプロ中のプロの音楽の祭典、「モントリオールドラムフェスティバル」や、「モントリオールジャズフェスティバル」には、必ず出かけて行き、私もよく一緒に通った。名前も覚えきれない数々のドラムの名手や、素晴らしいドラムセットを初めて紹介されたのも、この頃だ。
中学高校から大学時代のアイスホッケー熱の時には、地球人は勿論、地元のプロホッケーチームのモントリオールカナディアンズを応援し、度々本拠地アリーナに出かけ、当時の名手、憧れのゴールキーパー、パトリックロワの素晴らしい技に陶酔していた。私がカナダに行き、同行するときはネットで先に手に入りにくい切符を手配し、準備しておいてくれた。
当日の入場券を買うため、零下の寒空に長い列を幾重にも作って並んでいるファンを見て、改めてカナダ人のホッケー熱の凄さには感心した。これらの人々は入れても席はなく、ほとんど2時間ぐらい立ち見するので、アリーナの中はいつも満員御礼。毎回凄まじい熱気に包まれていた。
たまに同行した私は、その素晴らしいプロの技のぶつかり合いと、ド迫力、音楽や足踏みをしながら興奮を高めてゆくNHL(ナショナルホッケーリーグ。世界最高峰のプロホッケーのメジャーリーグ)の演出の見事さに、「さすがプロ!!」と眼をむいた。
こうした世界一流の音楽の祭典やプロホッケーNHLの世界は、すべて地球人が私に開いてくれた未知の世界で、すでにこの頃には何事も、「老いては子に従え!!」を実践していた私に、大きな感動を与えてくれた。こうして、地球人は大学院でも研究に、スポーツに、音楽にと、意欲的な毎日が、相変わらず続いていった。
その頃の私は、正に正に「御弁当屋開業!!」だった。地球人は大学内の寮に入ったが、寮や病院だけの食事では物足りず、毎回、3週間分のお弁当を寮に持ち帰っていた。
私は大きなキャンプ用のアイスボックス二つに3週間分のランチボックス(1日二食)を入れ、その外に果物やスープなども準備し、毎回、地球人が寮に戻る日は、忙しくしていた。
これらのお弁当は地球人が帰って来てから準備するのでは時間的に間に合わないので、3週間分のランチボックスを2セット準備し、一部は冷凍保存して置き、持ち帰ってきた空のお弁当箱は、次の帰宅用に使った。
つまり6週間分のランチボックスが行ったり来たりしていたのだ。従って、我が家は家族3人なのに、大型冷凍庫ふたつ、大型冷蔵庫みっつがフル稼働していた。
すでに私が出来ることはこの程度のことで、あとは、説明を聞いてもチンプンカンプンの専門領域の研究。当時はただただ地球人の健康管理のみ考えていた。
その頃、すでにドラムに大いにのめり込んでいた地球人は、大学院に入っても、すぐ音楽仲間を探し出して、バンドを組んでは時折コンサートを開いていた。コンサート開催のたびによくケベックシティのコンサート会場にもでかけ、応援していた。
地球人はその頃、狭い寮の部屋ではサイレントドラムで練習し、家に戻ると、新に購入したドラムセットで、思いっきり楽しんでいた。その大音響は、震度3ぐらいの音の激震をもたらし、たびたび我が家の人々はその揺れの中にいた。
この頃には、すでに弟のドラムセットは隣の家に運ばれ、自分は更に専門的なものを探し出し、多くのシンバルやラテンの楽器も取り付け、まさに音楽活動にのめり込んでいた。学校内のお祭りには、メンバーと一緒に積極的に参加し、日頃の成果を披露し、学内新聞にも取り上げられるようになっていった。
毎年一度のプロ中のプロの音楽の祭典、「モントリオールドラムフェスティバル」や、「モントリオールジャズフェスティバル」には、必ず出かけて行き、私もよく一緒に通った。名前も覚えきれない数々のドラムの名手や、素晴らしいドラムセットを初めて紹介されたのも、この頃だ。
中学高校から大学時代のアイスホッケー熱の時には、地球人は勿論、地元のプロホッケーチームのモントリオールカナディアンズを応援し、度々本拠地アリーナに出かけ、当時の名手、憧れのゴールキーパー、パトリックロワの素晴らしい技に陶酔していた。私がカナダに行き、同行するときはネットで先に手に入りにくい切符を手配し、準備しておいてくれた。
当日の入場券を買うため、零下の寒空に長い列を幾重にも作って並んでいるファンを見て、改めてカナダ人のホッケー熱の凄さには感心した。これらの人々は入れても席はなく、ほとんど2時間ぐらい立ち見するので、アリーナの中はいつも満員御礼。毎回凄まじい熱気に包まれていた。
たまに同行した私は、その素晴らしいプロの技のぶつかり合いと、ド迫力、音楽や足踏みをしながら興奮を高めてゆくNHL(ナショナルホッケーリーグ。世界最高峰のプロホッケーのメジャーリーグ)の演出の見事さに、「さすがプロ!!」と眼をむいた。
こうした世界一流の音楽の祭典やプロホッケーNHLの世界は、すべて地球人が私に開いてくれた未知の世界で、すでにこの頃には何事も、「老いては子に従え!!」を実践していた私に、大きな感動を与えてくれた。こうして、地球人は大学院でも研究に、スポーツに、音楽にと、意欲的な毎日が、相変わらず続いていった。
2009年1月3日土曜日
大学院での研究開始
大学を無事卒業した地球人の、新たな目標となったのは、ケベック省内の4つの医学部を持つ大学の中で、唯一、医科学研究コースが医学部内にある、ケベックシティ郊外の大学だった。この大学は、北米大陸最古のフランス語系大学として、ケベック省の首都ケベックシティの郊外に位置しており、ケベック人はこの大学をとても重視していた。
従って、この大学の医科学研究にも、ケベック省政府はかなり力を入れており、研究費も多かった。大学構内は広大で、素晴らしい設備を誇っていた。そして大学付属の6つの病院が、大学の周りに点在していた。
この大学の施設として、何よりも特筆すべきは、寒い冬に備えた地下施設で、学生は講義に出るのに、一度も地上に出なくても、殆どすべての教室に行くことができ、勿論、レストラン、銀行、コンビニ、理髪店、スポーツ施設などなど、ありとあらゆる生活に必要な施設が地下にあった。
冬の間中、一度も外に出ないで、暖かい地下施設で夏のTシャツで生活した、という学生も居る程だ。バス駅も構内に多数あり、その広大な敷地が、すべて地下で繋がっているのだから驚く。 私のホームドクターも、ここの出身で、ケベック省の人にとっては、フランス語のみで講義するこの大学は、文化的にもとても重要なのだろう。
話はそれるが、ケベックに移民した人は、1000時間の無料フランス語授業が受けられ、投資移民を除く、他の移民者たちは、ベビーシッターや交通費、生活補助費まで支給され、1年間勉強しながら生活補助が受けられる程、フランス語を維持することに、力を入れている。
姪たちは、技術移民の名目で移民したので、この恩恵にあずかり、夫婦別々の時期に勉強して、援助を受けた。収入が少ない場合、こども一人につき年間6000ドルまで補助が受けられ、5人ぐらいの子持ちで、遥遥、アフガンやイラクから、難民としてケベックに入った家族は、結構いい生活をしている。まあ全て、我々の血税が使われていることを考えると、思いは複雑だが、、、、、。
さて、話を戻すと、地球人は、この大学の医科学研究コースに入りたいと考え、色々下調べして、ケベックシティ郊外の、この大学を訪問し、具体的によく理解したいと願っていた。私も暇だったので、地球人の車に乗せてもらって、観光も兼ね、初めてケベックシティ郊外の、この大学に出かけた。
まず、癌センターとか、色々な施設と研究室の説明を受け、すぐに、地球人は会ってくれる教授の下を、尋ねることになった。 初めに、一つの癌関連の研究室と、人工血管の研究室を訪れ、それぞれの教授のお話を聞いた。 しかし、地球人は、納得の行くまで、自分の行く道を探す為、又、大学前の病院に戻った。そしてそこで、思いがけない情報を、得ることができた。
それは、つい最近、「遺伝子研究」を専門にしている教授が、アメリカの西海岸からこの大学に赴任してきて、丁度今、助手を探している、という情報だった。
地球人は直ちに、その先生と連絡をとった。偶然その日、その時間に、教授もお時間があり、すぐ面接となった。そして、それが、地球人の日本でのポスドクにまで繋がる、大きな出会いとなった。
教授は、快く受け入れてくださり、地球人はこの教授の下で、科学者としてのイロハから、ご指導いただくこととなった。何よりも、教授に感謝したいことは、地球人はここで、研究に関するご指導以外に、論文の書き方までも、懇切丁寧にご指導いただけたことだ。
こうして、地球人は、大学の前にある、大きな大学付属病院内の研究室の一室で、遺伝子の研究をスタートさせることが決定した。 研究内容は、癌などを含む、多くの病気の発病要因となる、遺伝子の発現及び修復のメカニズムに関する研究だった。
大学卒業後の夏休み終了を目前にし、地球人は、この新たな地、ケベックシティ郊外の大学と、その付属病院の研究室で、勉強と研究をスタートさせる準備を、着々と、進めていった。授業開始に向け、又、学寮に入寮する日は、もう、すぐそこに迫っていた。
従って、この大学の医科学研究にも、ケベック省政府はかなり力を入れており、研究費も多かった。大学構内は広大で、素晴らしい設備を誇っていた。そして大学付属の6つの病院が、大学の周りに点在していた。
この大学の施設として、何よりも特筆すべきは、寒い冬に備えた地下施設で、学生は講義に出るのに、一度も地上に出なくても、殆どすべての教室に行くことができ、勿論、レストラン、銀行、コンビニ、理髪店、スポーツ施設などなど、ありとあらゆる生活に必要な施設が地下にあった。
冬の間中、一度も外に出ないで、暖かい地下施設で夏のTシャツで生活した、という学生も居る程だ。バス駅も構内に多数あり、その広大な敷地が、すべて地下で繋がっているのだから驚く。 私のホームドクターも、ここの出身で、ケベック省の人にとっては、フランス語のみで講義するこの大学は、文化的にもとても重要なのだろう。
話はそれるが、ケベックに移民した人は、1000時間の無料フランス語授業が受けられ、投資移民を除く、他の移民者たちは、ベビーシッターや交通費、生活補助費まで支給され、1年間勉強しながら生活補助が受けられる程、フランス語を維持することに、力を入れている。
姪たちは、技術移民の名目で移民したので、この恩恵にあずかり、夫婦別々の時期に勉強して、援助を受けた。収入が少ない場合、こども一人につき年間6000ドルまで補助が受けられ、5人ぐらいの子持ちで、遥遥、アフガンやイラクから、難民としてケベックに入った家族は、結構いい生活をしている。まあ全て、我々の血税が使われていることを考えると、思いは複雑だが、、、、、。
さて、話を戻すと、地球人は、この大学の医科学研究コースに入りたいと考え、色々下調べして、ケベックシティ郊外の、この大学を訪問し、具体的によく理解したいと願っていた。私も暇だったので、地球人の車に乗せてもらって、観光も兼ね、初めてケベックシティ郊外の、この大学に出かけた。
まず、癌センターとか、色々な施設と研究室の説明を受け、すぐに、地球人は会ってくれる教授の下を、尋ねることになった。 初めに、一つの癌関連の研究室と、人工血管の研究室を訪れ、それぞれの教授のお話を聞いた。 しかし、地球人は、納得の行くまで、自分の行く道を探す為、又、大学前の病院に戻った。そしてそこで、思いがけない情報を、得ることができた。
それは、つい最近、「遺伝子研究」を専門にしている教授が、アメリカの西海岸からこの大学に赴任してきて、丁度今、助手を探している、という情報だった。
地球人は直ちに、その先生と連絡をとった。偶然その日、その時間に、教授もお時間があり、すぐ面接となった。そして、それが、地球人の日本でのポスドクにまで繋がる、大きな出会いとなった。
教授は、快く受け入れてくださり、地球人はこの教授の下で、科学者としてのイロハから、ご指導いただくこととなった。何よりも、教授に感謝したいことは、地球人はここで、研究に関するご指導以外に、論文の書き方までも、懇切丁寧にご指導いただけたことだ。
こうして、地球人は、大学の前にある、大きな大学付属病院内の研究室の一室で、遺伝子の研究をスタートさせることが決定した。 研究内容は、癌などを含む、多くの病気の発病要因となる、遺伝子の発現及び修復のメカニズムに関する研究だった。
大学卒業後の夏休み終了を目前にし、地球人は、この新たな地、ケベックシティ郊外の大学と、その付属病院の研究室で、勉強と研究をスタートさせる準備を、着々と、進めていった。授業開始に向け、又、学寮に入寮する日は、もう、すぐそこに迫っていた。
2009年1月1日木曜日
移民入境後の生活
1996年7月、無事移民の許可が下り、我々は家族でカナダに正式のランディングをした。初めは皆、観光ビザで入り、移民のビザを入手すると同時に、カナダとアメリカのボーダーを越えて一度、アメリカに入り、又、カナダに正式な移民者として、戻ってきた。
我が家からは一番近いアメリカのボーダーは40分ぐらいで、地続き。アメリカとの行き来はとても簡単だ。 ボストンやニューヨークはトロントより近く、一泊どまりぐらいで、簡単に往復できる。
こうして、我が家の移民という一大ミッションは遂行され、1997年の冬から、私は、本格的に拠点をカナダのモントリオール郊外に移した。地球人は大学3年生の終わりを迎え、そろそろ最後の一年に掛る頃だった。
私が1997年1月、拠点をこちらに移し、本格的に住み始めてからは、地球人の友人が引きも切らずに訪れるようになっていった。英語教育の小学校時代の再来で、地球人はとにかく友達を家に呼ぶのが大好きだった。
すでに、モントリオールのアパート時代も、私が滞在している間は、気の合った仲間達を食事に招くのが好きだった地球人は、家を持って、益々友達を大勢招くようになった。週末になると、私は地球人の友人の来訪に備える日日が始まった。地元でも、ホッケー仲間などの来訪も多かった。
その頃からは、家から遠いモントリオールの大学に、効率よく出かける為に、授業をとる日を3日ぐらいに集中させて、残りの日々は、家を中心に地元のホッケークラブに参加して試合をしたり、アルバイトをしたり、チビッコホッケーチームのコーチをしたりして過ごしていた。
相変わらず、じっとしていない地球人は、向かいのスキー場へもシーズンパスを買って、よく出かけていた。やはり、スポーツ好きの地球人にとっては、ここはパラダイスだったのだろう。
初夏になると、ゴルフを始めた。最初の年は、我が家の前のゴルフ場のクラブメンバーになり、すでにこの頃には、日本の旅館をたたんで、隣の家(地続き)に一家で住んでいた兄と、近所の人たちを交え、ゴルフもよく楽しんでいた。
この頃からは、銀行や公共機関との交渉事、あらゆる家の手続き(保険その他)などは、地球人の名義で行われ、隣の兄達一家のお世話も含め、地球人は完全に一家の中心人物で、実質的な主だった。
そして、私の大学の同僚の息子さんが、10歳で、モントリオールの郊外の私立校に留学する際には、保証人兼親代わりとして入学交渉に臨み、校長先生の心配に対して、「自分自身の経験から来る感想と考え」を力説し、入学許可を取得した。この時は、「留学経験者の貴方が親代わりになるならOKする!!」と言われ、20歳そこそこで、パパがわりになった。
こちらの学寮は大抵、週末は子供を預かってくれない。週末は適当な保護者の家に戻ることが義務付けられている。そこで、この少年のご両親が正式に移民してくるまで、我が家に一年間、この少年を預かり、同居した。
ともあれ、移民後、地球人は隣の家に住む私の兄の家族も含め、自宅を中心に、スポーツ、音楽、趣味、アルバイトと色々な活動に、更に熱心に取り組んでいた。この時、地球人の意見を訊いて、又、ピアノをかった。すでに、こちらで勉強を始めていた弟にも、ドラムセットをプレゼントして、そのドラムは我が家に置かれた。(喧しい音を兄が好まなかったので、我が家に置かれた)。
何事にも興味を持つ地球人は、ドラムにも大いに興味を持ち、本来は弟の為に買い与えたドラムを、購入後すぐから、弟よりも余程熱心に、練習し始めた。そして、瞬くうちに、ドラムの魅力にとり付かれた地球人は、朝から晩まで、色々な雑誌を読んだり、勉強したりしながら、ドラムを叩き続けるようになっていった。
そして、弟が楽しむときには、ピアノで伴奏したり、ギターであわせたりしながら、楽しそうに遊んでいた。この頃から、地球人のドラマー人生が始まった。地球人のブログをご覧になったことがある人は、今、所属しているバンドの記事を、よく目にされると思うが、ドラムに開眼したのは、この頃からだった。
こうして我が家は又、地球人の友人の溜まり場になり、いつも音楽が鳴り響く、賑やか過ぎる家へと変貌していった。
我が家からは一番近いアメリカのボーダーは40分ぐらいで、地続き。アメリカとの行き来はとても簡単だ。 ボストンやニューヨークはトロントより近く、一泊どまりぐらいで、簡単に往復できる。
こうして、我が家の移民という一大ミッションは遂行され、1997年の冬から、私は、本格的に拠点をカナダのモントリオール郊外に移した。地球人は大学3年生の終わりを迎え、そろそろ最後の一年に掛る頃だった。
私が1997年1月、拠点をこちらに移し、本格的に住み始めてからは、地球人の友人が引きも切らずに訪れるようになっていった。英語教育の小学校時代の再来で、地球人はとにかく友達を家に呼ぶのが大好きだった。
すでに、モントリオールのアパート時代も、私が滞在している間は、気の合った仲間達を食事に招くのが好きだった地球人は、家を持って、益々友達を大勢招くようになった。週末になると、私は地球人の友人の来訪に備える日日が始まった。地元でも、ホッケー仲間などの来訪も多かった。
その頃からは、家から遠いモントリオールの大学に、効率よく出かける為に、授業をとる日を3日ぐらいに集中させて、残りの日々は、家を中心に地元のホッケークラブに参加して試合をしたり、アルバイトをしたり、チビッコホッケーチームのコーチをしたりして過ごしていた。
相変わらず、じっとしていない地球人は、向かいのスキー場へもシーズンパスを買って、よく出かけていた。やはり、スポーツ好きの地球人にとっては、ここはパラダイスだったのだろう。
初夏になると、ゴルフを始めた。最初の年は、我が家の前のゴルフ場のクラブメンバーになり、すでにこの頃には、日本の旅館をたたんで、隣の家(地続き)に一家で住んでいた兄と、近所の人たちを交え、ゴルフもよく楽しんでいた。
この頃からは、銀行や公共機関との交渉事、あらゆる家の手続き(保険その他)などは、地球人の名義で行われ、隣の兄達一家のお世話も含め、地球人は完全に一家の中心人物で、実質的な主だった。
そして、私の大学の同僚の息子さんが、10歳で、モントリオールの郊外の私立校に留学する際には、保証人兼親代わりとして入学交渉に臨み、校長先生の心配に対して、「自分自身の経験から来る感想と考え」を力説し、入学許可を取得した。この時は、「留学経験者の貴方が親代わりになるならOKする!!」と言われ、20歳そこそこで、パパがわりになった。
こちらの学寮は大抵、週末は子供を預かってくれない。週末は適当な保護者の家に戻ることが義務付けられている。そこで、この少年のご両親が正式に移民してくるまで、我が家に一年間、この少年を預かり、同居した。
ともあれ、移民後、地球人は隣の家に住む私の兄の家族も含め、自宅を中心に、スポーツ、音楽、趣味、アルバイトと色々な活動に、更に熱心に取り組んでいた。この時、地球人の意見を訊いて、又、ピアノをかった。すでに、こちらで勉強を始めていた弟にも、ドラムセットをプレゼントして、そのドラムは我が家に置かれた。(喧しい音を兄が好まなかったので、我が家に置かれた)。
何事にも興味を持つ地球人は、ドラムにも大いに興味を持ち、本来は弟の為に買い与えたドラムを、購入後すぐから、弟よりも余程熱心に、練習し始めた。そして、瞬くうちに、ドラムの魅力にとり付かれた地球人は、朝から晩まで、色々な雑誌を読んだり、勉強したりしながら、ドラムを叩き続けるようになっていった。
そして、弟が楽しむときには、ピアノで伴奏したり、ギターであわせたりしながら、楽しそうに遊んでいた。この頃から、地球人のドラマー人生が始まった。地球人のブログをご覧になったことがある人は、今、所属しているバンドの記事を、よく目にされると思うが、ドラムに開眼したのは、この頃からだった。
こうして我が家は又、地球人の友人の溜まり場になり、いつも音楽が鳴り響く、賑やか過ぎる家へと変貌していった。
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