<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><rss xmlns:atom='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' version='2.0'><channel><atom:id>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645</atom:id><lastBuildDate>Tue, 10 Nov 2009 04:19:24 +0000</lastBuildDate><title>テツママの「８カ国語喋る子供の育て方」</title><description></description><link>http://tetsumama.blogspot.com/</link><managingEditor>noreply@blogger.com (テツママ)</managingEditor><generator>Blogger</generator><openSearch:totalResults>86</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>25</openSearch:itemsPerPage><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-8259403030789706364</guid><pubDate>Mon, 26 Jan 2009 23:04:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-27T08:17:38.788+09:00</atom:updated><title>あとがき</title><description>皆様、長い間、つたないブログをご愛読くださり、ありがとうございました。お蔭さまで地球人は、2008年春、無事に社会人となり、私の多言語教育指導（成人してからは、維持向上へのアドヴァイス）もすべての役目を終えましたので、このブログもこのあとがきで、一旦終了させていただきたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このブログで、すでに大人になってからの、地球人の多言語常用と、維持の努力について触れたり、又、旅の色々な思い出に触れたのも、言葉の壁を、ある程度乗り越えると、多くの、「未知への挑戦」への勇気が、自然と広がることをお伝えしたかったからです。地球人は世界中を、ただ観光レベルだけではなく、一般の現地庶民生活レベルの目線で楽しんでおり、そんな地球人の様子を、少し、ご紹介したかったからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの人が多言語習得に挑戦しますが、私自身も含め、なかなか言葉は固定しにくく、子供時代、外国生活を経験し、大いに使っていた人々も、その後の不注意から、残念ながら固定せず、忘れてしまう人も多く見られます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それほど、言葉を高いレベルにまで引き上げ、固定させることは難しく、長い常用期間を維持してこそ、終生忘れえぬ言葉となることを、これまでの地球人の維持強化の努力や旅の体験も含め、ご紹介することによって、「多言語習得は、親子で果たす、長期プロジェクトである」と、強調したかったからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供さんが、適切な環境で、言葉の導入を果たしたら、親御さんも、維持、強化、固定への環境設定や支援を、ぜひ、考えてあげてほしいのです。子供は覚えるのも早いかわりに、忘れるのも、とても早いのですから、、、。勿論、大人なら、なお更、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実質的には、地球人の中学校の選定、フランス語の導入、そしてその後、英語の維持強化のため、学寮生活を実現させた時点で、私の積極的な多言語訓練の努力は終了しており、後は地球人本人が、語学訓練に欠かせぬ、環境、導入、常用、固定を繰り返し、今日に至っております。ポスドクの地を日本で過ごした地球人の日本語も、かなり高いレベルに到達し、母国日本の企業に就職までできて、今、親として、この上ない喜びを感じています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、日本に来た強い動機は、素晴らしい、専門分野の研究環境があったればこそですが、、、、。何度も言うように、多くの言葉を、終生忘れぬ言葉として、高いレベルに固定してゆくには、気の遠くなるような忍耐力を持って環境を作り、言葉の学習継続と、常用頻度を、バランスよく保つ努力を続けなければなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう書くと、「ああ、とても無理！！無理！！私とは別世界のお話！！」と簡単に諦めてしまう親御さんも居るかもしれません。しかし、そんな方は、ぜひ、地球人自身のブログに入って、「テツ流言語習得法の４」を読まれ、立ち止まってほしいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、彼の言う、「子供の立場から、親へのお願い」というところを読み、子供さんの為に、ぜひ、真面目に、考えてあげてほしいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は、自分自身の感想として、子供時代の言語パワーが、如何に素晴らしいものかを、書いています。そして、どんな子供でも持ち合わせている、この言語パワーを、「大人の常識で、過小評価しないでほしい！！」と、述べています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、「多くの言葉を同時進行して学んでも、混乱はない！！」と、断言しています。だから、皆さんも本当に真面目に、この問題に、向かい合ってみては如何でしょう！！お金や物を残して上げるより、貴重な活きた財産を、子供さんの未来の為に、残して上げたいと願う方は、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの言語学者も、「多言語による音の刺激が、スポーツ、知力、芸術感性、音感などの、潜在能力の開発に与える効果に、注目すべきだ！！」と述べています。人間の脳は、まだまだ未知の、解明できない神秘的な部分が多く、無限の可能性を秘めており、信じて試してみる価値は、おおありだと思うのですが、、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人の後の、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語などの導入が、比較的短時間で、簡単に、正確な発音がとれ、日常会話レベルにまで、学習できたのも、それらはすでに、幼少時に耳が開かれた音域内の言葉であり、多言語学習に対する、彼なりの自信や、ノウハウが生まれていたからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、やり方はどうあれ、子供の耳の鋭敏な11歳ぐらいまでに、皆さんは皆さんのやり方で、諦めずに多言語訓練を続けてあげたら、将来、きっと、子供さんの身を助け、可能性を大きく開いてあげられるのでは、、、、と考え、このブログで少し、体験談をお話して見ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;又、私自身の体験も振り返り、子供達が、外国生活を健全に続けるためには、言葉もさることながら、体力、精神力、判断力、生活力（金銭管理能力）を、事前に磨くことの重要性にも、ぜひ、目を向けてほしいと願って、かなり多言語訓練とは離れた、独立訓練にも触れました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜならば、多言語環境作りには、外国との交流が、すぐに、頭に浮かぶからです。将来は、子供さん一人で、外国への冒険や、挑戦をさせたい、と願っている親御さんも、沢山いらっしゃる事でしょうから、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子育ては本当に、時間を巻き戻すことができない、貴重な時間の連続です。だからこそ、色々なことを大人が想定して、子供と十分話し合い、励ましあいながら、計画的に挑戦することが、大切ではないでしょうか。そうすれば、多言語習得も、きっと、いつかは叶う夢だと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;郊外型の家に関する記述は、安全な環境を選び、更に厳しい訓練を体験させ、留学を間近に控えた地球人との、親子共同作業（動植物の世話など）も消化しつつ、体力、気力、精神力を鍛え上げ、独立訓練の完成を目指す為、便利さとは逆行する生き方を選んだ、体験談です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分で体験してみた結果、私は周りの皆さんの、「時間も、お金も無駄なのでは、、、、」というご心配に反し、地球人の精神的な強さと、頼もしさと、思いやりの心を磨け、本当に、ここでの生活は、有意義な時間の連続だったと、今でも心から思っています。お金では買えぬ、貴重な体験を地球人にさせられる、絶好の環境でしたから、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勇気を出して、一歩踏み出し、積極的に行動してみれば、何かが変わるかもしれないと、試行錯誤しながら、色々と模索した日々が、今ではとても懐かしく感じます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブログ前半の、私自身のエピソードのご紹介は、時期を逸してからの言語習得と、維持向上が、いかに困難であるかを、改めて皆さんとともに、考えて見たくて、体験談を書いてみたものです。きっと、多くの皆さんが、同じような経験と、感想を持っておられることでしょう。言葉の壁の高さと、維持の難しさを、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、こんな私自身の不甲斐ない体験こそ、地球人への多言語訓練と、その維持強化プランを生み出す、強い動機となったのです。長い将来を見据え、生まれてすぐから行わなければならぬ、「国際人養成の為の、必要不可欠な努力」として、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本人の母国語、日本語という、低音域の言葉の特異性に注目し、聴覚などの問題点を考え、多言語習得を子供さんに期待している多くのご両親には、ぜひ、母国語である日本語に、11歳ぐらいまでで耳が固定されてしまう前に、広い音域を確保する為、早めに多言語訓練を開始されることを、改めてお勧めし、長いブログの筆を、おかせていただきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この体験ブログが、現在子育て中のご両親や、将来の子育て予備軍の皆様に、幾分なりともお役に立つことを心から願いつつ、遥かカナダの地より、ご健闘をお祈りしております。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2009年春、テツママ　　（完）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;*******************************************************************************&lt;br /&gt;お知らせ：&lt;br /&gt;皆様方とは、又、引き続き、不定期ブログ、テツママの「独り言」でお会いしたいと思います。それまで、御機嫌よう、さようなら！！&lt;br /&gt;　　　　　　　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-8259403030789706364?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_27.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-3423369404760609758</guid><pubDate>Sat, 24 Jan 2009 22:26:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-25T08:34:56.187+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>新たなる夢への飛翔！！</title><description>さて、研究室では論文の作成のための実験、MBAでは沢山のレポートや試験に追われ、悲鳴を上げる毎日が続いた地球人は、MBA開始後一年が過ぎた2007年の夏、カナダのモントリオールの本校で、夏休み3週間の集中講義を受けることになった。日本のキャンパスからは13人の学生が参加した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は半年ぶりに我が家に戻り、一週間ぐらい休んで、（といっても、相変わらず、何やら分からぬ論文集のようなものを一杯抱えていたが、、、、）その後、モントリオールのアパートに移り住んだ。友人達とシェアして借りた3週間のアパート暮らしだ。このアパートは大学まで歩いて5分ぐらいの便利なところにあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昔、地球人はこの大学で科学を専攻し、4年生まで通った。歴史の古いこの大学は、モントリオールの街のど真ん中にあり、どこに行くにも地下鉄で行け、便利なところだ。地球人は週末に、友人数人と泊りがけで、我が家に戻ってきた。 夏の我が家のベランダは、色とりどりの花々に囲まれ、緑のゴルフ場とスキー場が目の前で、清清しい。私は、食事もベランダに準備し、解放的な食事で、もてなした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昔もよく、友人を連れて、週末戻ってきたものだ。今は、日本をベースにして、MBAの夏休みだけの集中講義に参加している。本当に不思議な感じがした。地球人は日曜日の午後、又、モントリオールに戻って行った。週日の昼間は、びっしりと講義が詰まっており、夜は友人達との飲み会など、充実した日々を過ごしているようだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人がMBAの夏の集中講義を受ける為、モントリオールに戻ってきたのには、訳があった。それは、日本での普通の2週末の授業だけでは、2年間で自分の勉強したい、全ての学科を取りきれず、2年半ぐらいかかってしまう恐れがあったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この頃、地球人には、新たな夢があった。それは、科学の知識と経営学の知識を基に、多言語が駆使できる科学者として、日本企業に就職し、社会人として挑戦をして見たい、という夢だった。自分より優秀な科学者が、世界中に沢山居ることは言うまでもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、「もし、自分のこれまでの知識と、経験と、語学力のすべてを発揮できるような仕事に就けたら、素晴らしいのではないだろうか？！」というのが、その頃の地球人の、大きな夢となっていた。「そのためには、なるべく早く、MBAの勉強を済ませておきたい！！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう願った地球人は、夏の集中講義の間も、本当に真剣に、勉強していた。そして、2年目の彼は、MBAコースの会長を務め、クラスのまとめ役にもなっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;二度のバイオキャンプへの参加、科学雑誌への論文発表、MBAの資格取得への努力、多言語の維持強化など、着々と、自分の夢と目標に向かって進んでいく地球人に、もはや、悩みや迷いはなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、地球人のこの夢の実現に向け、研究室の指導教授も、本当に、深いご理解を示してくださり、応援してくださった。夏のMBA集中講義を終えて、日本に戻った地球人は、新たな目標に向かって、具体的に動き始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでに、入りたいと希望している企業も決まっていた地球人の行動は、素早かった。試験と4回の面接を経て、2007年の年末には、希望していた企業への、「2008年4月入社」の内定も得ることができた。そして、地球人は、研究生活の最後の仕上げと、MBAの授業に、益々力を入れていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2008年3月末、地球人は、4年8ヶ月に及ぶ、ポスドク生活に別れをつげ、4月1日から始まる、社会人としての生活をスタートさせる為、住み慣れた研究室の側のアパートから、都心のアパートに、転居した。まだ、MBAの授業は5月末まであり、この頃が、地球人にとっては、一番、精神的に大変で、疲れたようだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、地球人は、5月末に、予定通りMBAの単位を取得し、無事、働きながら卒業した。一時は「死にそう！！」とまで、ねを上げていたMBAの授業だったが、終わった後は、「MBAを勉強すると決めて、本当によかった。すごく為になる授業だった。これは、これまでに、自分自身で下した決断の中で、最高のものだった！！」とまで言って、心から満足そうだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の一番望んでいた形で、希望の就職先に入れた地球人は、本当に、強運の持ち主だと思う。これまでにも、何度か、地球人の強運を感じることがあったが、今回の就職も、まさにそう感じた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら一方、運は自分で呼び込むもの、、、、というのが、私が地球人の人生を見ていて、心から感じる事だ。運も確かにあったかもしれないが、その前に、やはり、常に自分にも厳しいハードルを課し、自らを高めることに努力し、行動し続けた姿を目の当たりにして、我が子ながら、「凄い！！逞しいなあ！！」と思ったことが、何度もある。（これも親ばかかな、、、、）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして地球人は、2008年4月、多くの先生方のご指導の下、先輩、友人、家族らに見守られつつ、努力の末に築き上げた、自身の3本柱、科学、経営学、多言語を引っさげ、新たな職場で、社会人としてのスタートを切った。研究室のサヨナラパーティーの席上で、指導教授から、餞に贈られた言葉、「大志」を胸に、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「さあ！！これからは、世界の人々の健康の為に、そして、自分自身の幸せな未来の為に、いつまでも、日本と、世界の架け橋として、大きく、伸び伸びと、羽ばたき続けてね！！改めて、就職おめでとう！！地球人！！」&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-3423369404760609758?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_25.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-4530542843807809539</guid><pubDate>Thu, 22 Jan 2009 20:29:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-23T07:10:52.604+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>ポスドクの継続とMBA開始</title><description>研究生活、音楽活動（バンドに参加）、多言語の維持、スポーツクラブへの参加（卓球やローラーホッケークラブ）など、相変わらず、猛烈に忙しい毎日を送っていた地球人の、日本でのポスドク生活は、あっという間に、最初の奨学金給付期間の2年が過ぎようとしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は、最初の奨学金の期限が切れる前に、もう2~3年、この日本の研究室で、研究生活を続けたいと連絡してきた。彼自身の大人の決断。私にはさっぱり分からない遺伝子分野の研究に没頭している地球人の意志を尊重した。日本の奨学金は延長ができないとの事で、地球人は早速、カナダの厚生省の奨学金を申請した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸い、程なく、カナダの厚生省から奨学金授与が発表され、地球人は、日本での研究生活を続けることになった。そして、その間、相変わらず、音楽もスポーツも楽しみながら、日本の生活にすっかり馴染んでいた。スペイン語クラブの人たちとも、定期的に集まりを持ち、相変わらず、地球人の多言語維持の努力は続いていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英語は勿論、論文や海外での学会で始終使っているし、フランス語も、博士課程までの長期に渡って常用してきた言葉だから、忘れようがない。北京語も、幸い研究室に居る中国からの留学生と、常用する機会も続いており、すでに、固定された言葉になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2度にわたる日本語検定試験への参加で、日本語の書き取りにも、大いに、自信が生まれたことだろう。こうして、地球人にとっては、多言語習得は、かけがえのない財産となりつつあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、この頃から、「多言語が駆使できる、という才能が、地球人に逆に、迷いを与えたのではないか？？」と、私は勝手に想像している。もし、科学の研究のみに的を絞らなければならない状態だったら、彼はもっとシンプルに、科学研究のみに、自分を追い込んで、のめり込んで行けたのかもしれない。勿論、才能があったかどうかは、別の問題として、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;素晴らしい指導教授にも恵まれ、同じ研究室には、本当に優れた科学者が多く、地球人は常にそれらの人々を尊敬して、私にもよく話しを聞かせてくれた。彼もいつかは、優れた科学者と呼ばれ、成功したい、と望んでいたことは、間違いない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、カナダの奨学金を申請する頃から彼は、「もっと、自分の才能を出来る限り生かした、新たな科学者の道があるのでは、、、、」と考え始めるようになっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、ポスドクの生活も2年半が過ぎる頃、彼は新たな挑戦の目標を、偶然ネットで発見した。それは、もう、勉強が嫌いになる程、苦しみぬいた大学生活を送ったモントリオールの母校が、日本で開いている「MBA （経営学修士）JAPAN」のホームページだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このコースは毎月の2週末、最短2年間で、クレジットを取得できれば卒業できる、というものだったが、勿論、超厳しい事で知られるこの大学。卒業はそう簡単ではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あんなに出るのが難しく、地球人を人間不信に陥らせるほど、勉強の虫のような排他的な学生が多いと評していた、モントリオールの母校への再挑戦。今度は経営学修士を目指して、、、、。若いときに、本当に自分から、勉強したくてたまらないものに出会えた地球人は、幸運な人だと言えよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、ただ、どうなることかと見守っていただけだが、地球人は早速、日本キャンパスの主任にアポイントを取り、出かけていった。履歴書を見た主任は、「とにかく試験を受けてもらい、その成績次第だが、貴方のような経歴の人には、是非、経営学修士の資格をとってほしいから、モントリオールの本校に早速連絡をとって見ましょう、、、試験の日は追って知らせます。」という返事だったそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、地球人は大学から通知された日に、試験を受けに行った。程なく、試験に合格し、研究生活と両立させながら、希望に燃えて、地球人の新たなMBA挑戦が始まった。しかし、私の予想どおり、この大学の厳しさは、経営学においても変わらなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学時代、科学を専攻中、あれ程痛めつけられたのだから、予想できたと思うが、半年ほどすると、「大変だあ！！厳しい！！死にそう！！」という、哀れな悲鳴が出始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さもありなん！！地球人は、山と積まれた英語の経済新聞と、レポートや資料の山に埋まっていた。やっぱりこの大学は、そう簡単には、卒業させてはくれない。だからこそ、多くの事が学べ、卒業できれば価値があるんじゃないかな、、、、、、と私は思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人には、研究室での大切な研究生活がある。その上、論文も書かなければならない。そして、自ら望んで始めたこととはいえ、この厳しいMBA学習の道程。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、自分からやりたいと言って始めたことは、地球人はこれまで、大抵やり遂げてきた。だから、「今度も、本当に大変そうだけど、多分、なんとかやり遂げるんじゃないかな？！」、、そう、希望的観測をしつつ、信じるしかない、凄まじく厳しい状況に、地球人は喘いでいた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-4530542843807809539?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/mba.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-4753555633989705860</guid><pubDate>Tue, 20 Jan 2009 20:27:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-21T06:04:31.054+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>日本での研究生活開始</title><description>プラハへの家族旅行から戻り4日後、地球人と私は日本に向かった。取りあえず、研究室のそばにアパートを借り、当座の生活用品を準備する為だ。勿論、地球人一人で問題なかったが、なにしろ地球人はカナダ国籍。一応、外国人だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アパートなどを借りるとき、外国人だとなにかと厄介なので、私は友人との再会も兼ね、同行した。案の定、アパートを借りるとき、私が居て、かなり手間が省けた。部屋が決まり、すぐに簡単な家財道具を買い込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;簡単なといっても、テレビ、ベッド、冷蔵庫その他、数えればキリがないほど揃える物は多い。アパートは駅から5分。周りにスーパーなどが多く、とても便利なところで、地球人の一人暮らしには申し分ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかく、住まいの確保と生活の準備の手伝いを済ませた私は、間もなく又、日本と台北への出張を控えていたが、ひとまずカナダの我が家に戻った。地球人は、その後、研究室の指導教授にご挨拶に伺い、程なくポスドクとして、日本での研究生活に入って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1ヶ月後、次の出張の途中に、地球人のアパートに立ち寄った私は、驚いた。地球人は新にスクーターを買い込み、毎日、20分ぐらいスクーターに乗って、研究室に通っていた。「安定感のない、スクーターじゃ危ないでしょ？！なんで電車で通わないの？？」という私の素朴な質問に、地球人はこう答えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「だって、電車は夜12時半が最終だから、、、、」と、、。　「エッ！！夜の12時半まであれば十分でしょう？？どういう意味？？」と訊いた私に、地球人は笑って、「だって、殆どの人がその時間にはまだ研究室に残っているんだよ。僕はペーペーだもん、、、、」とのこと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人のホームページにその感想が載っているが、確かに日本の研究者は真面目で、夜中まで研究している人も多く、カナダの研究室とはエライ違いらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、それからの私は、日本に行っても、ほとんど地球人と顔をあわせる時間はなかった。しかし、毎晩、夜中の2時ごろ、コトコトコトと鳴るスクーターのエンジン音が止み、部屋に入ってくる鍵の音がすると、本当に安心したものだ。小雨の日などは特に、、、、。スクーターのタイヤはスリップしやすいから、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、日本での地球人の、猛烈研究生活が始まった。ポスドクの間、基本的に一年に2回、カナダの自宅に戻る予定にしていた地球人だったが、１回しか戻れない年もあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、幸い私は、ずっとコンサルタントの仕事を続けているので、年に平均5回ぐらいの出張があり、台北、大阪、東京などに出かける。その合間に地球人の様子を覗く時間もあり、あまり離れている実感はなく、ケベックシティに居たころと変わらない感じだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は日本の研究室で、教授や本当に優れた先輩、同僚に囲まれ、良い刺激を受けたらしく、何度も、「この研究室で研究ができて、すごく良かった、、、。」と自分の幸運を喜んでいた。日本政府の奨学金の給付期間は2年だったが、入ってすぐから、もう少し長く研究したいと漏らしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少し日本の研究生活のリズムにも慣れると、心に余裕ができたのか、地球人は又、音楽仲間を探して趣味を楽しんだり、大学の学生とローラーホッケーに興じたり、ケベック協会のメンバーやスペイン語同好会のメンバーになったりして、多言語の維持にも努めていた。日本語の読み書きの強化の為には、日本語検定試験に果敢に挑戦して、実力を高めていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もともと、日本語を書くのは苦手な筈の地球人が、最初の試験から、かなりよい成績をあげていたので不思議に思い、「どうやって書いたの？？？」ときいたら、「へへへ、平仮名書きまくったら、ちょっと減点されちゃったあ、、、、」と笑っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸い、今はパソコンという便利なものがあり、私ですら、手書きをすると、たまに漢字の書き方を忘れてしまう時代。発音はかなり正確な地球人は、パソコンを駆使すれば、不自由なく書けるらしい。まあ、時代が時代。これもありかな、、、、と思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともあれ、研究の合間にも、日本でも意識的に多言語維持の環境づくりに努め、常用機会を積極的に探しながら、色々な活動に参加している地球人を目の当たりにして、「そう！！そう！！その調子！！」と私は大いに心の中で応援していた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-4753555633989705860?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_21.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-7830971956396818154</guid><pubDate>Sun, 18 Jan 2009 21:19:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-19T06:25:10.683+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>プラハ家族旅行</title><description>さて、めでたくポスドク開始の準備も整った地球人は、日本に向かう前に、家族旅行をしようと提案した。自分も博士号をとり、一段落してホッとし、約16年間住み慣れたカナダ東部の町を離れるに当って、家族と、のんびりした旅行がしたくなったらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というより、無事に、博士課程を卒業できた、「親孝行、感謝旅行」とでもツアー名をつけようか、、、、。ブスッと無愛想な言い方だったが、「これまでの感謝の印に、パパとママに、飛行機の切符を買って上げるよ！！だから、行きたいところを決めて！！」というのだ。大学院時代に、奨学金やアルバイトの語学教師などで、貯めたお金で、思い出旅行をプレゼントしてくれるというのだ。ヤッター！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、ホテルの手配などは、相変わらず、私の役目。相談の末、この旅行の目的地はプラハに決まった。私は前から、チャンスがあったら是非、旧神聖ローマ帝国の首都であり、かつてはヨーロッパ最大の都市として「黄金のプラハ」と呼ばれたこの地を訪れ、ハプスブルグ家の栄華の跡を訪ねて見たかったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15世紀には、芸術、科学の都として、その繁栄は内外に知れわたっていた、この歴史の町、プラハへ、、、、、。 地球人の申し出は、又とないチャンス！！喜んで出かけることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;プラハについた私達は、レンタカーで、早速手配しておいたホテルに向かった。すでに街の様子は、かつての繁栄の跡は虚しいほどなく、17世紀から続いた、数々の戦争の傷跡が、そこここに残っている。宗教、文化、人種の弾圧を受け、1993年には、チェコとスロバキアが分断された、悲しい歴史の国、チェコ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、14世紀に建造された、モルダウ川に架かる、カレル橋（前プラハ橋）から眺めるプラハ城の美しい佇まいは圧巻で、さすが、「黄金のプラハ」と呼ばれただけある、と感動した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、このカレル橋は、英文名でCharles Bridgeと呼ばれ、ヨーロッパに現存する、最古の石橋だそうだ。その橋げたに並べられた彫刻が水面に写り、独特の美しさを見せていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;モーツアルトが、交響曲38番を初演したコンサートホールや、天文時計台など、古い町並みによく映える美しい建物も多く、楽しい町の反面、ナチスドイツに占領され、5万人が虐殺された、悲惨な過去を感じさせる建造物も多く、人間の栄枯盛衰と業のようなものを目の当たりにし、考えさせられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一方、地球人はというと、あまり建物や歴史には興味がないらしく、もっぱら、街の中を走る電車や乗り物に乗りまくり、地元の人たちの集まりそうな場所を探し、現在の、ありのままのプラハを知ることに、大きな興味を抱いていた。勿論、プラハ城の美しさにも感動していたけれど、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我々は、モルダウ川を走る観光船の中で、音楽付きのディナーを食べながら、川の上から、プラハ城や川沿いの景色を眺めることにした。船上から眺めたプラハ城は、丁度、夕陽に照らされていて、神々しいほどの美しさだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人はすでに、付近の探索も済ませており、「地元の人が集まる、街中のデパートに出かけよう！！」と、夫と私を誘った。プラハのデパートは、なんだか古い、日本のデパートのような感じだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;物価は地球人によると、かなり安いとのこと。チェコのお金は、私にはすぐに換算できなかったので、いつも地球人にきいた。私は足が痛かったので、安いならこれ幸いとばかりに、夏のサンダル靴を２足買った。そして、案外素敵なスタイルのＴシャツがあったので、これから日本に旅立つ地球人用に、何枚も買い込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;食べ物は、付近のレストランで食べた記憶があるが、あまり印象にない。キッチン付のホテルだったので、自分でも簡単なものを作って食べた記憶がある。チェコを代表するお土産と言えば、ボヘミアングラスとガーネット。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ワイングラスなどのコレクションが好きな私は、以前から、チェコクリスタルはかなり集めていたので、この旅行では遠慮して、ガーネットを記念にいくつか買い込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの買い物の税金は、あとから空港で申し込むと返金されるとか、、、、、。面白がってやって見たら、一年後ぐらいの忘れた頃に、スズメの涙ほど戻ってきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、それまでチェコというと、地球人の頭にすぐ浮かぶのは、自分が熱狂していたアイスホッケーの、NHLの名ゴールキーパー。長野オリンピックで優勝した、チェコの英雄、ドミニクハシェック選手の名前ぐらいだったらしい。彼の憧れの、名ゴールキーパーの一人だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともあれ、地球人と一緒の旅は、単なる観光旅行と違い、すぐに現地の人々の中に飛び込む、面白いもの。この旅行も、日本に向かう前のひと時を、家族で面白おかしく、楽しく過ごした。地球人の心ばかりの親孝行旅行で訪れたプラハは、プラハ城の素晴らしい佇まいとともに、私にとって、是非もう一度出かけてみたい、思い出深い町となった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-7830971956396818154?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_19.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-8527745166072400974</guid><pubDate>Fri, 16 Jan 2009 22:34:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-17T09:45:45.883+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>ポスドクの地、決定</title><description>さて、博士課程も、無事修了が見えてきた地球人の、次なる目標はポスドクで、それをどこでするかという問題に、直面していた。同じ研究室出身の仲間が、ポスドクをしているボストンの大学。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;指導教授のおられた、アメリカ西海岸の大学などが、当時、地球人の目標になっていた。しかし、2001年に起きた911は全米のみならず、世界を震え上がらせ、当時、私は、アメリカの東海岸は要注意の場所に思えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな頃、地球人は、指導教授の推薦で、日本の某国立大学の、研究室の教授をご紹介いただいた。地球人は真剣に私の母国、日本での研究継続開始を模索し始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、日本での研究継続開始には、二つの理由で大いに賛成だった。勿論、第一は、すばらしい遺伝子研究の教授をご紹介いただけたこと。そして、もう一つは、地球人の日本語能力の強化と、日本文化の更なる習得の為だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なにしろ、今まで地球人は、幼少時代、夏休みの短期訪問以外に、腰を据えて、日本という国に住んだ事がない。勿論、当然、留学経験もない。従って、地球人の日本語は、話したり聞いたりすることには問題がなかったが、読んだり書いたりする能力は、私から見て、まだまだ足りなかった。今の若さなら、言葉の吸収も早く、日本語をほぼ完璧にする、最初で最後の、絶好のチャンスではないか？！と私には思えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、決めるのは地球人であり、彼の一生を左右することなので、彼の意志に任せていた。地球人は熟考の結果、自分でも、日本が最適と決断した。そして着々と、日本の教授に連絡をとり、多くのサポートをいただいた。ポスドクとして研究室に受け入れていただくばかりか、日本学術振興会からの奨学金や、教授の肩書きで、ビザもいただけるよう、手配していただいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2003年、幸い、日本学術振興会からの奨学金も無事おり、カナダ政府の手続きなど、面倒な作業も全て終え、正式に地球人の日本での研究続行が決まったのは、春も終わりに近い頃だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;初夏を迎える頃、地球人へのサヨナラパーティが、大学病院の研究室仲間によって、開かれた。研究仲間の何人かは、我が家にも、何度も泊りがけで遊びに来て、顔見知りだったし、指導教授にも、これまでのご指導に対し、改めて、感謝とお礼を直接述べたくて、私はケベックシティ郊外の、この大学病院に向かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ケベックシティはこれまでの5年間に、何度も訪れた地だったが、これからは、そう度々訪れることはないだろうと、周りの景色を車の中から、これまでとはちがった、感傷的な気分で、眺めていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;温かい送別の夕食会が終わり、私は指導教授に、心からのお礼と、今後の変わらぬご指導をお願いし、何度か訪れた、思い出深い地を後にした。これから又、地球人は、新たな出発に向け、旅立ってゆくが、自分の祖国、日本に向かうというだけで、私には何だか安心感があり、あまり心配はなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人のポスドクのスタートは、日本の横浜にある、某国立大学の、生命フロンティアー研究所に決まり、カナダの大学院で始めた、「遺伝子発現及び修復のメカニズムの研究」を続行することとなった。こうして地球人は、少年時代とはまったく違った、新たな目標を胸に、日本に飛び立とうとしていた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-8527745166072400974?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_17.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-4828222617649549892</guid><pubDate>Wed, 14 Jan 2009 21:40:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-15T08:33:19.257+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>テツママ生涯最高の日</title><description>さて、大学院での研究、スポーツ、音楽活動、スペイン語強化（中南米からの学生との交流）などに、忙しい毎日を送っていた地球人も、すでに博士課程に入り、残すところケベックでの大学院生活もあと僅かとなってきた。しかし、あと僅かかどうかは、博士論文審査に通るかどうかということが、大きな鍵を握っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのころには、担当教授のお蔭様で、多少論文も手がけていた地球人は、いよいよ最後の仕上げの博士論文作成準備に入っていった。勿論、論文を書き始めるには、地道な実験の繰り返しで、結果を得てからでなければ書けない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このころ用事で研究室に電話しても、なかなか話してもらえる時間がなかった。「今、実験中！！あとで電話する。」というのが、この頃の地球人の決まり文句になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人が博士課程に入った頃、夫は我が家の前庭に、新しい飾り門を創った。それは、すべて手づくりで、天辺の両端が斜めに天に向かって上がるように削られていて、門の中心には、家族繁栄の意味の漢詩を、自分で彫って、入れていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;夫曰く、「今の我が家の入り口の方位より、この飾り門の方位の方が、テツの運勢をさらに強くすると、昔、香港の有名な占い師に言われたことを思い出したから、飾り門を創って、方位を変えてみた、、、。この家はテツの名義だし、、、、、、。」とのこと。飾り門の完成を記念して、珍しく、家族3人プラス愛犬で、写真を撮った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2002年の秋。地球人の博士論文作成は、追い込み段階に入っていた。博士課程の3年目の冬、地球人は、ついに、卒業論文を完成し、学内、学外の教授の審査を受け始めていた。2003年2月7日、まだ雪深く、寒い一日、地球人は私に、研究室がある病院の講堂で行われる、博士論文の公開審査会場に来るよう、誘いがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カナダの大学院の博士論文最終審査は、一般の人々にも公開して行われることすら知らなかった私は、どんなことが行われるのか、皆目、見当がつかなかった。生憎、丁度何かの用事が重なっていた夫の代わりに、地球人の親友達とともに、遥遥250キロ離れた病院へと向かい、午後2時から始まる予定の、地球人の博士論文公開審査会場に入った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;講堂の正面には大きなスクリーンがあり、向かって左端にスピーチ用の演壇。地球人の論文公開審査が始まる午後2時頃には、会場は知らない顔の聴衆で、一杯になっていた。主に、病院関係者と大学の関係者らしい。段々、不安感が込み上げ、地球人より、私の方が興奮してきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ケベック省、癌研究センターから、審査を担当する教授が一人、他の医大から審査を依頼された教授が一人、学内から審査を依頼された教授二人が静かに審査員席に着席するころには、満員の聴衆に囲まれ、私は本当に胸がドキドキしてきた。 すでに、昨年末には、論文パスの内定は知らされていたそうだが、いよいよ、正式な最終審査が始まるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は落ち着いていた。（少なくとも私よりは、、、。そう見えた。）軽い挨拶から、すぐに論文の要点をパソコンから大きなスクリーンに映し出し、実験結果や研究結果を、淡々と英語で報告してゆく。約30分程のプレゼンは、チンプンカンプンで、さっぱり私には分からなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;プレゼンが終わって、続いて審査の先生方との、論文内容に関する、質疑応答が始まった。地球人はこの質疑応答に、英語とフランス語で対応していた。ある教授は、フランス語の方が英語より話しやすかったらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;約20分程の質疑応答が終わると、4人の審査教授がおもむろに立ち上がり、全員で結果を審議するため、別室に消えた。戻ってくるまでの10分ほどは、本当に長く感じられた。他の教授を従え、戻ってきた主任審査教授は、笑顔で地球人の方に手を伸ばし、「おめでとう！！貴方の論文は、審査教授、全員一致でパスしました。」と、握手を求めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;握手をすませ、お礼を述べた地球人は、又、プレゼン用のスクリーンに、映像を映し始めた。これまでお世話になった指導教授、関係者、研究室仲間への感謝の言葉とお礼。この審査を担当してくださった、すべての教授へのお礼の言葉も、映し出された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、最後の最後に、スクリーンに映し出された映像は？？、、そう！！あの、自分の為に、父親が手づくりで創ってくれた、我が家の前庭の、飾り門の前で、並んで撮った家族写真。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;映像が写ると、堂々と私の方を見つめ、「実は今日、この会場に母が来ています。家族のサポートなしでは、決して、この論文は生まれませんでした。心から感謝したいと思います。」と、英語で、私にもお礼を述べた。最後に、「かあちゃん！！ありがとう！！」という、日本語での、いつもどおりの地球人の、おどけた挨拶も添えて、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;会場の前の方に座っていた人々は、ワザワザ、中ほどに座っていた私の方を振り向き、笑顔で拍手を送ってくれ、すぐ後ろのほうに座っていた人々は、私の肩を叩いて、祝ってくれた。会場は割れるような拍手に包まれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなに、深く感動する日が、この私の身に、訪れるなんて、、、、。泣き虫の私は、深い感動に堪え切れず、思わず大粒の涙をこぼし、すべてがボ～～ッと霞んで見えた。その後、私は会場から去る前にワザワザ、「おめでとう、おめでとう！！」と温かい声を掛けながら近づいてくる、多くの見知らぬ人々から、握手を求められた。その後、地球人の博士論文パスを祝って、病院内の別の会場で、研究室仲間による、手作りのパーティーが開かれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はこのパーティに参加してくださった指導教授に、これまでの、5年間に渡るご指導を、心から感謝し、お礼を述べた。研究室仲間とも歓談でき、この日は、私の生涯で最高の、忘れえぬ、感動と感謝の一日となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから2ヶ月ほどして、立派な表紙で、審査教授のコメントも添えられた、地球人の博士論文が出版された。フランス語のタイトルと、英語の前書きが書いてあり、論文が始まる最初のページは白紙で、右上に、「この論文を両親に捧ぐ！！」と、印刷されていた。またまた、新たな感動！！この本は、その日から我が家の、最高の宝物となった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-4828222617649549892?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_15.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>9</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-473057337556149657</guid><pubDate>Mon, 12 Jan 2009 22:25:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-13T08:30:33.154+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>忘れえぬ友、忘れえぬ国</title><description>1994年、地球人がまだ大学2年の時、夏休みを利用し、ヨーロッパに語学留学と、ぶらり旅に出かけたことは、すでにお話した。その時、ドイツでカナダのトロントから、ドイツ語を勉強に来ていた学生に出会い、友人になったことも、お話したと思う。地球人の殆どの友人は、我が家の友人でもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この彼は、地球人ととても気が合い、その後、トロントに戻っても、地球人と連絡を取り合っていた。実は彼は、そのドイツ短期留学中に、運命の女性と出会い、恋に落ちた。女性はノルウエー人で、偶然、友人との旅行中に彼と出会い、お互いに惹かれたそうだ。トロントに戻っても、彼の心はここにあらず。いつもノルウエーの彼女の話をしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は帰国後まもなく、地球人に会いに、はるばるトロントから車で7時間ぐらい運転して、我が家に遊びに来た。地球人から聞いていた通り、陽気な好青年で、我が家の食卓を賑わしてくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;散々、彼女のお惚気話をしたあと、「必ず、ノルウエーに戻り、彼女と一緒に暮らす！！」と、我々に嬉しそうに告げた。そして間もなく、彼は本当に、ノルウエーに旅立って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は旅立つ前に、近いうちに彼女を婚約者として、親に合わせにカナダに連れてくるから、その時には、私にも紹介してくれると約束した。その通りに、彼は2年ほどして、彼女を連れて戻ってきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、一時帰国で、その時には、すでにノルウエーで就職もし、家も探し、近いうちに、正式に、彼女と結婚することを、幸せそうに話してくれた。異国の地、ノルウエーで、結婚式を挙げることを決意した彼は、地球人と我々（夫と私）にも、「出来たら結婚式に参加してほしい！！」と招待してくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2000年6月、彼の結婚式に参加するため、我々は、ノルウエー行きの計画を立てた。色々考えて、私は初めてネットオークションで、夫の切符を買った。秒刻みに価格が変わるオークションを落札するのは、初めての経験で、とてもスリルがあって、面白かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、夫と地球人より、4日ほど先に出発し、アメリカの航空会社で、モントリオール、アムステルダム、オスローと飛んで、先に宿の手配をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4日後、地球人は、イギリスの航空会社でモントリオール、ロンドン、オスローと飛んで来た。夫は、モントリオール、トロント、フランクフルト、オスローとドイツの航空会社で飛んで来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、この時は、3人共、全く違う航空会社で旅行し、オスローの空港で、待ち合わせをしたのだ。勿論、帰りも別々。モントリオールの空港で待ち合わせ。大体同じ時間に着く様に、私がアレンジしておいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、多少のずれはあったものの、ほぼ予定通り、オスローの空港で出会えた我々は、すぐにレンタカーを借りて、ノルウエーの古都、ベルゲンに向かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人の友人は、ベルゲンに住んでいるからだ。しかし、彼は、結婚式はオスローで挙げる。彼女の親族のほとんどが、オスローにすんでいるからだそうだ。従って、我々は、行きと帰りは別々のルートを回り、オスローから、ベルゲンまで、車で往復観光旅行をすることにしたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;運転は、地球人と夫が、交代で頑張った。山の中を越え、片道、約12時間ぐらいの道程だ。空港で貰った道路マップをたよりに山道を行くが、なにしろ道は、国道とは思えぬ狭さ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに、道路標識もあまりない。「カナダの道は分かりやすいのに、、、、。」とか、頼りにしている地球人の口からも、心細い言葉が出てくるほど、道がわかり難い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;途中、山道で、ようやく出会った人に道を確認する為、地球人が車を降りて、訊きにいった。戻ってきた地球人の複雑な顔、、、、。8ヶ国語を誇る地球人にも、チンプンカンプンなノルウエー語。本当に世界は広い！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大体の見当をつけて、先にすすみ、言葉が分かる人を捜しながら、先へ先へと進んだ。フィヨルドの美しい国、ノルウエー王国。段々、山々の間から、青々とした海が見え始め、旅の気分を満喫。途中、フェリーに乗り継いで、ようやく、ベルゲンの町の灯が見え始め、心からホッとした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ベルゲンは、古い天然の良港のある港町。港では魚介類の市がたち、お土産にキャビアなどを買った。地球人は彼の家に泊まり、夫と私だけホテルに泊まった。港のまわりにある店には、北欧ならではのお人形や、洋服が飾られ、情緒のある町だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3日ほどベルゲンで過ごし、又車で、来た時とは別のルートを通り、約12時間の旅。オスローの付近のホテルに向かった。途中の山や海に囲まれたフィヨルドの景色は、想像どおりすばらしかった、、、、がしかし、、、、ノンビリ景色を楽しめぬ、緊急事態発生！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山越え中、あまりにも長くガソリンスタンドが見つからず、もう少しでガス欠の危機にひんし、普段めったに緊張せぬ地球人も焦りまくり、ガソリンを節約する為、ついにエンジンブレーキで山を降り始めた。なにしろ、行きかう車もほとんどない、寂し～～い山の中。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;景色も何も目に入らぬほど、ハラハラドキドキしながら、ひたすら、ガソリンスタンドを探した。かなり山を降りたところに、ようやくガソリンスタンドを見つけた時の、嬉しかった事、、、、、、。 ホッ！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いよいよオスローで、彼の結婚式に参加する日が来た。古い由緒あるレストランで、素朴な中に温かさが漂う、素敵な結婚式だった。正装した彼も、ようやく6年越しの恋が実って、幸せそうだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼女も頭に月桂樹の葉の冠を載せ、白のシンプルなドレスで優雅に微笑み、本当に幸せそうだった。私達もはるばるモントリオール郊外から、友人の一人として参加させてもらい、トロントから参加した彼のご両親やご兄弟とも会え、楽しいひと時を過ごした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私達はその後、オスローの町をぶらぶらしたり、ノーベル賞の受賞会場などを見学したりして、別々に帰路についた。私は帰りのフライトの関係で、汽車に乗り、デンマークのコペンハーゲンに立ち寄って、一晩過ごした。次の日は帰路、アムステルダムで、6時間ぐらいの乗り継ぎの間に、シティツアーを済ませたりして、モントリオールに戻った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、彼からは、二人の幸せそうな近況を知らせる手紙とともに、結婚式の思い出スナップ写真集が送られてきた。それからも、地球人は時々、彼の近況を教えてくれた。子供さんにも恵まれたとか、、、、。早く子供がほしいと言っていた彼の言葉を思い出し、「さぞ喜んでいるだろうな、、、」と私も胸が温かくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2008年の春、地球人から電話が入った。いつものんびりした話し方の地球人だが、珍しく差し迫った声だ。「彼が、、、、フロリダ沖で、、、セスナ機の操縦訓練中、事故で、、、、」と暗い声。このところ連絡が途絶えていた彼に、久しぶりに連絡して見たら、なんとすでに、彼はこの世の人ではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「エッ！！本当？？」と、私も、にわかには信じられなかった。「まだまだ、これからという若さで、何故プライベートジェットの操縦など、、、、」と、本当に残念に思ったが、事実とのこと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;残されたご家族のお気持ちをお察しすると、本当に胸が痛く、辛い話だ。地球人も、この耳を疑うような、非情なニュースに、ショックと動揺を隠せぬ声をしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちょっとポールニューマンに似た彼の、ハンサムでいたずらっぽい、陽気な笑顔とともに、ノルウエー王国は我が家にとって、忘れえぬ国となった。「安らかに、、、、、」と、地球人共々、心から彼のご冥福を祈らずにはいられない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-473057337556149657?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_13.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-5507724192465850504</guid><pubDate>Sat, 10 Jan 2009 19:39:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-11T22:01:45.635+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>ケベックシティの思い出</title><description>旅狂いの話題をしばらくお伝えしたが、地球人はこの頃、遊んでばかりではなかった。私の学費負担も学生ビザで勉強していた大学までで、大学院では、学費、生活費、遊びの費用を捻出するため、論文をかなり書き、ケベック省の奨学金を卒業まで貰い続け、教師や通訳のアルバイトもし、経済的にも独立していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは単に地球人だけの問題ではなく、アメリカ、カナダの学生は、独立心が強い。大抵アルバイトしたり、休学して学費を貯めてから復学したりして、自分の生活を賄う学生が多い。勿論中には、完全に親掛かりの学生も居るが、少ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、私の心配は、倹約しすぎて栄養失調になってはということだった。余計なお節介心を起こした私は、前にも触れたように、大学院生時代の5年間、自主的に3週間分のお弁当屋開業を申し入れ、地球人は3週間おきに、凄まじい量の空のお弁当箱を持ち帰るようになっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;又、自分の趣味を家族で楽しむことが好きな地球人は、いつもコンサートなどが開かれる度に知らせてきた。その度にはるばる250キロ離れた、ケベック市に応援かたがた、遊びにいった。皆様もよくご存知だと思うが、ケベック市には、古い城砦をホテルに作り変えたシャトードフロントナックというとても綺麗なホテルがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ケベック市はモントリオールに比べ、あまり大きくないコージーな町だが、夏ともなると、市内を馬車が走り、ホテルのテラスでは、大道芸人が技を披露し、音楽がながれる素敵な町になる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ケベック市はフランス文化を色濃く残し、町のカフェは道に張り出し、正に私の大好きな絵画、ゴッホの「夜のカフェテラス」そのもののたたずまい。（話はそれるが、遺伝子とは凄い。大学時代、地球人のモントリオールのアパートに行ったら、部屋にこの「夜のカフェテラス」のコピー画が飾ってあった。地球人も特にこの絵が好きで、部屋の飾りに買ったのだとか。かつて一度も話したことがないのに、、、。ゾ～～～ッ！！）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;対岸の島との間をフェリーが通い、その船上から眺めるシャトードフロントナックの景色は最高だ。ここから3時間程いったところに、鯨見物やラッコやアザラシの泳ぎも見られる観光名所がある。私は地球人がこの地で勉強している間、何度このコージーな町を散歩したことか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人が日本に拠点を移してからは、とんとご無沙汰しているが、今思い出すと本当に懐かしい景色。町のそこここに似顔絵画家が出ていて、画商も多い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここには博物館もあって、以前とても面白い経験をした。博物館に入るには、大人、学生、子供の3種類の料金があるのだが、当時私は政府のフランス語無料学習コースに入っていた。ただ面白がって、「今、移民してきて、フランス語を勉強中なの。学生料金でいい？？」と質問したところ、「ＯＫ！！」とあっさり何も見ないで、学生料金。このおば（あ）さんがですよ、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大人の半分以下の料金で入場できた私は、あまりの大らかさにビックリ！！　普通、「じゃ学生証でも見せて、、、、って、どこでも言うでしょう？？」　ケベック省では、フランス語教育を本当に大切にしているが、特にケベックシティではフランス文化を守るプライドがモントリオールよりもかなり強く、殆どの人はあまり英語を話さない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;博物館の入場券の出来事は、しみじみ、「ケベック省の首都だなあ！！」と感じさせる忘れられないエピソードだった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-5507724192465850504?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_11.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-9078717854864571719</guid><pubDate>Thu, 08 Jan 2009 22:41:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-11T05:26:57.156+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>地球人の旅狂い（中南米）</title><description>大学院時代、地球人の旅の興味は、主に中南米にあった。スペイン語の常用強化プランも含めた旅先の決定。1998年夏には、まずコスタリカを訪問。その後、1998年冬の、家族との最初のキューバ旅行に続き、その後又、一人でも2回行き、キューバには合計３回行った。そして、地元の人に密着した生活を体験した。当時のキューバには、まだ、大都市以外、多くの町にはバスも少なく、馬車の荷台に揺られて移動する人も多かったそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このころは既に、言葉を強固にするために欠かせぬ大切な要素として、私が地球人の子供時代に、意識的に取り組んでいた、環境、導入、常用、固定のプロセスを十分理解し、言葉の導入、常用環境の設定は自分でやり始めていた地球人を、私も大いに応援していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人が見た、当時のキューバは、トイレットペーバーなどもかなり贅沢品で、固い紙が多く、「腹具合でも悪くして何度もトイレに通ったら、皮でも擦り剥けて悲惨かも、、、、。」と変な想像をしていた。キューバのバンド仲間とも旧交を温め、色々と体験したらしいが、やはり、現実の庶民の生活は、想像を絶する厳しさだったようだ。しかし、澄んだ綺麗な素晴らしい海、明るい太陽、楽しい音楽、そして、医学も進んだ教育大国の一面と、人々の明るさには、考えさせられることが多かったようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次には、研究室の仲間と、ペルーとブラジルに出かけた。雄大なマチュピチュへもバスで出かけ、途中の細くて険しい断崖絶壁の道を、バスの運転手さんがぎりぎりで運転して行き、スリル満点だったそうだ。地球人のホームページの、旅のところにその写真が載っているが、確かに、あんな高いところによく人間が住んだと思うような、神秘的なところだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アマゾン探検旅行では、初級コースでは物足りず、中級コースを取ったそうだ。上級コースとなると命は保証できないコースもあるそうで、「オイオイオイ！！せっかくここまで育てたのに、ワニや毒蛇の餌食にだけはなってくれるな！！」と釘をさした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本当にこの頃は、旅の楽しさ、特にスペイン語やポルトガル語を使える旅行に行くのが、楽しくて仕方がなかったらしい。このアマゾン探検の旅行では、同行の友人（ものすごく背が高い）が夜寝るとき、テントからはみ出した足を出したまま寝ていたら、夜中にすっかり藪蚊に刺されまくり、翌朝、パンパンに腫上がり、猛烈な痒みで大変だったそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その上、もう少しで、親の私達が、例の別荘（わかるでしょ？？どこか！！）に、「貰い下げ」にいかなきゃならないようなドジをやらかし、まあ結果的には、滑り込みセーフで飛行機に乗れたのだが、ひどい目にあったらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、自業自得だが、帰国前日、夜中遅くまで飲んだくれていた3人は、「あとは飛行機に乗るだけ！！いっそ朝まで飲み明かそう！！」と、たらふく飲んで、空港入り。荷物検査で友人の荷物が、「ビ～～～！！」　「何か刃物を持っていますね？？？」と訊かれても、「イエイエイエ！！」と否定しまくり、「ちょっと此方へ！！」と別室へ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頭から、手持ちの荷物に、危険物など入れていない、と思い込んでいた友人は、勿論、否定しまくり。「これはナンですか？？」と、果物ナイフを自分の荷物から出されて、ガクゼン！！色々言いたいが、英語もスペイン語も苦手で、その上、へべれけに酔っている。そこで、これまた、ベロンベロンに酔った地球人にSOS！！！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オットリガタナで駆けつけた地球人も、眼はトロ～～～ン！！最初は何が何だかわからずポワ～～ン！！段々と話が進んで、事の重大さに、「もしかしたら帰れなくなるかも？！」と、ようやく気付き、ベロンベロンの意識もサ～～ッと回復。慌てて、「全然悪気はなく、ただ手違いで、、、、。」と、平謝りに謝り説明し、学生証を見せて、何とかパス。「本当にひどい目にあったよ！！」と、流石にちょっと焦ったらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聞いてみると、ナイフが発見された当初は、すっかり、3人の怪しいハイジャック犯と間違えられ、もう少しで飛行機に乗り遅れるばかりか、異国の別荘入りの危機だったとか。でもね！！当時の3人は、みんなロンゲで髭ボウボウ。おまけに、夜通し飲んで、目はトロン！！酒臭い息でナイフ持ち。とても皆、大学院の研究者などという面影なし。そう疑われても仕方ない。（親が言うんだから間違いなし！！）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;帰りに、我が家で一泊してから、ケベック市にもどっていった、例の、蚊に刺されて脚がパンパンになった友人は、「もうアマゾンはこりごり！！」、　もう一人のナイフの彼は、｢いやあ、本当にどうなることかと思った！！」と、これも、かなりショックを隠せない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ノーテンキな地球人だけが、さして反省の色もなく、「今度はアマゾンの上級コースをとろうかな！！道を一歩間違えたら、永遠に中をさ迷い続けて、アマゾンの露と消えるけど、、、、、。」などと親の苦労も知らないで、トンでもない事を話していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、大学時代の親友と、カーニバル見物と称して、又ブラジルに出かけたり、大学院の間は、中南米からの学生と多く付き合い、我が家に泊まりにくる人々も、スペイン語でお喋りする友達が、圧倒的に増えていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、我が家の食卓は、英語、フランス語、スペイン語、北京語、日本語が飛び交う、会話している当人意外、お互いに、「意味プー？？」の状態に陥り、地球人だけが、どの話にも笑っている、変な食卓となっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、スペイン語に関しても、意識して、不足している常用の機会を自から求め、いつしか彼は、旅の費用を捻出するため、4カ国語の通訳として、世界的なチェーン展開をしている、歴史の長い、某国際語学塾にも登録し、通訳のアルバイトも始めていた。その間、ちゃっかり、教授法の訓練コースまで受けていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、研究室の仕事が終わった後、語学の先生としても、アルバイトをするようになっていった。この頃から、我が家に、意味不明な機関から、地球人への振込通知が届くようになり、通訳や語学教師としても忙しく、小遣い稼ぎをしていることが親にもバレた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;指導教授の関係者から、特別に頼まれ、ドミニカに通訳として、出張したときは、何と通訳の通訳という、誠に複雑な仕事で、日本、ドミニカ、フランス、ケベックが絡んだ仕事の通訳をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;各国の会社は、当然（日本語ー英語、スペイン語ー英語、フランス語ー英語）の有能な通訳を帯同してきた。しかし、日本の会社の人が、日本語で通訳に頼んだ内容を、通訳がどの程度正確に、英語で伝えているか、そして、次に、ドミニカの会社の人が、スペイン語で通訳に頼んだ内容を、通訳がどの程度正確に、英語で伝えているか、そして、それぞれの通訳が、質問の答えを、また顧客の母国語に、どれほど正確に通訳しているか、などがお互いの会社間ではわからない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同様に、フランスの会社の人と、ケベックの会社の人も、通訳との同様の問題にぶつかった。そこで、各通訳の内容を補佐する、公平な通訳が、この会議にはもう一人必要だ、という意見がだされたそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その通訳の通訳に求められる条件は、日本語、英語、フランス語、スペイン語の４カ国語を、同時に聞き分けられる事が、必要不可欠な条件だった。通訳の人選は難航を極め、会議に参加する、それぞれの会社に関係がある機関に、照会が出された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その事が、当時の地球人の指導教授の耳にも入り、教授の推薦により、地球人に白羽の矢が立てられた。3日ぐらいのスケジュールで、ドミニカに通訳の通訳に出かけた地球人は、上機嫌で戻ってきた。何しろ指導教授の公認休暇の下、初めてドミニカを訪問し、豪華なホテル、食事、すべてスポンサー付きで、とても優遇していただき、毎晩美味しいお料理とお酒も堪能。とても旅を楽しんだとか、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、その実労働時間に支払われた、「通訳の通訳」の時給は、なんと、一時間あたり二桁の万。（羨ましい。半分ぐらい、搾取したい！！ーー陰の声）　その収入はすべて、地球人のその後の、旅の費用として使われた事は、言うまでもない。こうして、旅のアニキは、ますます、世界中に飛び出していった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、スペイン語とポルトガル語の強化のために、地球人が1992年から2002年までに訪れた、中南米の国々と、都市名は以下の通り。（地球人の報告に基づく）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ecuador(Quito, Cuenca, Riobamba, Banos, etc....)&lt;br /&gt;Costa Rica(San Jose, Manuel Antonio, etc.....)&lt;br /&gt;Cuba(Nuevitas, Camaguey, Holguin, Havana)&lt;br /&gt;Dominican Republic(Santo Domingo etc.....)&lt;br /&gt;Peru(Lima, Cuzco, Macchu, Picchu, Iquitos)&lt;br /&gt;Brazil(Sao Paolo, Belo Horizonte, Ouro Preto, Salvador de Bahia, Rio de Janeiro, Amazon,etc.....)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-9078717854864571719?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_09.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-4615188527752705431</guid><pubDate>Tue, 06 Jan 2009 20:01:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-07T09:56:57.511+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>キューバ家族旅行</title><description>地球人が大学院の2年生になった冬、クリスマス休暇を家族でキューバで過ごすため、我々は遥遥出かけていった。この時は、ホテル、食事、ディナーショーなど、全てが含まれた一週間のパック旅行だった。ケベックの人達は、長い冬を嫌って、マイアミや、カリビアン諸国へ、ヴァカンスに出かける人が多い。この旅行も、飛行機はチャーターで、満員の盛況だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ホテルに着いて驚いた。ともかく、周りには殆ど目立った建物がなく、閑散とした通りに、ただ、ホテルだけが、ドカ～～～ンとあり、何から何まで、ホテル内で、お金を落とすように成っている。確かに、隣接して二つほど、姉妹ホテルがあり、歩いて中を見学したり、遊んだりは出来る。しかし、周りにまるで、生活臭がないのだ。 つまり、観光客の為のみの場所。ラスベガスより酷い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たまに車は通るが、とにかく、空港から、チャーターされたバスで運び込まれたこのホテルは、ただただ、寝て、食べて、プールか海で泳いで、夜はショーを楽しむ以外、（というより楽しまざるを得ない？？）何もすることがない。「ショッピング？？？」勿論ホテルの中。「バー？？」勿論ホテル以外見当たらない。「近所に歓楽街？？？」イエイエとんでもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供時代ひ弱で、マリンスポーツなど、やったことがなかった私には、海も無用の長物。暫く、ただただ砂浜で、ホテルが準備した椅子に寝っころがって、ボ～～～ッ！！！見渡すと、タクサンの人が、水中眼鏡を掛け、忍者のパイプのようなものを咥え、一心に海の中を覗いている。訊いてみると、すごく綺麗な魚が、ウヨウヨ泳いでいるそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;澄んだ綺麗な海、熱帯魚のような魚がウヨウヨと聞いて、「ソンジャ、一丁、魚見物といくか！！」と、張り切って水中眼鏡をかけ、忍者のブクブクのようなパイプを借りて咥え、止しゃあいいのに、ザンブと海へ、、、、。ところが普段、海なんぞじゃ、ついぞ泳いだことがなく、ほぼ確実に初心者の私は、パイプに気をとられると、泳ぐバランスがくずれ、自分の狙いも定まらない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;魚を見るどころか、バランスを取りながら、下を覗くのも難しい。アレヨアレヨという間に流されて、桟橋の下あたりに流れ着き、思わず怖くて、夢中で、橋げたを掴んでしまった。その橋げたにこびりついていた、変な貝を素手で掴んでしまった私は、突然、「ピリリ！！」という、鋭い感触にドッキリ！！アッという間に、手の平が、変な貝の毒でカブレ、腫れてきて、痛いの痒いの、我慢が出来ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;早々に海から退散して、まずは部屋にもどり、メンソレータムを塗ってみたが、手の平は赤く腫上り、熱を持ち、まるで効果なし。今でこそ、全く痒みがなくなったが、この後遺症は、数年続いた。ちょっと温まると、手の平がムズムズムズムズ。痛さはなくなったが、痒みはその後、3~4年もつきまとった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は？？というと、何せこの頃には、スペイン語がかなりお得意。それに、キューバといえばラテン音楽の宝庫。最初の晩のショーで、バンドメンバーと早速仲がよくなり、音楽談義に、ドラムの実技習得。朝、昼、晩とも、しっかり食べて、しっかり飲んで、それに、楽しい音楽満載となれば、毎日楽しそうに、「ウハウハウハウハ！！」本当に、「言葉が出来るって、国境がなくていいなあ！！」と、心から羨ましく思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次の日も、相変わらず手は痛痒い。隣のホテルも見飽きてきた。水でふやける程、プールで泳いでも、あまり面白くない。ただ、海は確かに綺麗で、透き通った水。砂浜は真っ白で、暖かい日差し。寒さを逃れ、明るい太陽を求めてやってきた、ケベックの人々は、結構楽しそうにしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;色々な国からの宿泊者は、毎晩、バンドのリズムに合わせて踊ったり、賑やかに飲んだり歌ったり、皆、もともと、子供時代から遊びなれているのだろう。その適応力が全然ちがう。我が子ながら、地球人も、食事の時以外は、殆ど顔を合わすことがないぐらい、適応力抜群で、この旅を、大いに楽しんでいる。バンドの人の小屋に入って、スペイン語でドラムの講習を受けたり、一緒に音楽談義を交わしたり、物凄く収穫の多い旅のようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎回、殆ど同じ食事メニューにも飽きてきて、「ああ、梅干に沢庵で、お茶漬けさらさらが食べたいなあ！！」などと、私は叶わぬ夢を見続けた。やっぱり、いくら旅慣れていても、子供時代の過ごし方が違う私には、1日か2日で十分な感じの旅だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;途中、いよいよ飽きてきたので、キューバの首都、ハバナ観光にでかけた。泊まっていたホテルからは、国内線の飛行機を利用すれば、1日日帰りコースで行けるという。早速、地球人にアレンジして貰って、皆ででかけた。しかし、これまで、数えきれない程、何度も色々な国の飛行機に乗ったことがある私だが、この飛行機は、凄い！！ただ、凄いとしかいいようがない。機内に入った途端、「この旅行、止めた方がいいのでは？！、、、、」と即座に思った程だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;古い！！古過ぎるのだ、機体が、、、。雨が滲みたらしい壁は、そこら中がカビだらけ。（まずどうして機体の中に雨が滲みるのか、それだけ考えてもゾ～～～ッ！！）　バルクヘッドの壁は一部破損。ボロボロ。「大丈夫かあ～～！！」と、飛ぶ前に思ったのは、数多いフライト経験で、この時が初めてだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、すでに、プロペラは回り始め、皆、座っている。もう、引き返せない。あとは、ただただ祈るのみ。40分程のフライトが、延々と続くのではないか、、、、と思う程、長く長く感じた。そして、予想通り、物凄い音と揺れ。アーメン！！いや、南無阿弥陀仏！！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;米ソ冷戦の、大きな傷跡をのこし、まだまだ、発展とは程遠いキューバだったが、ハバナでは、街中のカフェに音楽が流れ、とにかく、人々は陽気だ。バンドが入ってきて、ラテンの明るい音楽を演奏したと思ったら、自分で録音したテープを売りさばき、出ていった。チップがわりに私も買ったが、家に帰ってかけて見たら、音が割れていて、ひどい録音。ほとんど聴き取れない。詐欺だ～～～！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハバナで有名な葉巻をお土産に買い、たっぷりと陽気な音楽にひたり、憧れのヘミングウエイが晩年愛した景色を満喫し、又、命がけで、国内線に乗って、ホテルに帰った。それから2日後、モントリオールに戻ったときは、極寒の季節で、大雪の中だったにも拘わらず、「ああ、帰って来られて本当によかった！！」と、心底思った。この一週間、大いに飲み、食い、遊び、楽しみまくった地球人以外は、、、、。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-4615188527752705431?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_07.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-277897404360265547</guid><pubDate>Sun, 04 Jan 2009 22:28:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-05T07:44:15.459+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>御弁当屋開業と趣味のお付き合い</title><description>ケベック市の郊外の病院で研究生活を始めた地球人は、3週間に一度、週末に戻ってくるようになった。さすがに、250キロ離れた大学病院から、毎週末に家に戻るのは、きつかったのだろう。3週間目の金曜日に家に戻り、日曜日の午後、病院に戻る日日が始まった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その頃の私は、正に正に「御弁当屋開業！！」だった。地球人は大学内の寮に入ったが、寮や病院だけの食事では物足りず、毎回、3週間分のお弁当を寮に持ち帰っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は大きなキャンプ用のアイスボックス二つに3週間分のランチボックス（1日二食）を入れ、その外に果物やスープなども準備し、毎回、地球人が寮に戻る日は、忙しくしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらのお弁当は地球人が帰って来てから準備するのでは時間的に間に合わないので、3週間分のランチボックスを2セット準備し、一部は冷凍保存して置き、持ち帰ってきた空のお弁当箱は、次の帰宅用に使った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり6週間分のランチボックスが行ったり来たりしていたのだ。従って、我が家は家族3人なのに、大型冷凍庫ふたつ、大型冷蔵庫みっつがフル稼働していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでに私が出来ることはこの程度のことで、あとは、説明を聞いてもチンプンカンプンの専門領域の研究。当時はただただ地球人の健康管理のみ考えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その頃、すでにドラムに大いにのめり込んでいた地球人は、大学院に入っても、すぐ音楽仲間を探し出して、バンドを組んでは時折コンサートを開いていた。コンサート開催のたびによくケベックシティのコンサート会場にもでかけ、応援していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人はその頃、狭い寮の部屋ではサイレントドラムで練習し、家に戻ると、新に購入したドラムセットで、思いっきり楽しんでいた。その大音響は、震度3ぐらいの音の激震をもたらし、たびたび我が家の人々はその揺れの中にいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この頃には、すでに弟のドラムセットは隣の家に運ばれ、自分は更に専門的なものを探し出し、多くのシンバルやラテンの楽器も取り付け、まさに音楽活動にのめり込んでいた。学校内のお祭りには、メンバーと一緒に積極的に参加し、日頃の成果を披露し、学内新聞にも取り上げられるようになっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎年一度のプロ中のプロの音楽の祭典、「モントリオールドラムフェスティバル」や、「モントリオールジャズフェスティバル」には、必ず出かけて行き、私もよく一緒に通った。名前も覚えきれない数々のドラムの名手や、素晴らしいドラムセットを初めて紹介されたのも、この頃だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中学高校から大学時代のアイスホッケー熱の時には、地球人は勿論、地元のプロホッケーチームのモントリオールカナディアンズを応援し、度々本拠地アリーナに出かけ、当時の名手、憧れのゴールキーパー、パトリックロワの素晴らしい技に陶酔していた。私がカナダに行き、同行するときはネットで先に手に入りにくい切符を手配し、準備しておいてくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;当日の入場券を買うため、零下の寒空に長い列を幾重にも作って並んでいるファンを見て、改めてカナダ人のホッケー熱の凄さには感心した。これらの人々は入れても席はなく、ほとんど2時間ぐらい立ち見するので、アリーナの中はいつも満員御礼。毎回凄まじい熱気に包まれていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たまに同行した私は、その素晴らしいプロの技のぶつかり合いと、ド迫力、音楽や足踏みをしながら興奮を高めてゆくNHL（ナショナルホッケーリーグ。世界最高峰のプロホッケーのメジャーリーグ）の演出の見事さに、「さすがプロ！！」と眼をむいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした世界一流の音楽の祭典やプロホッケーNHLの世界は、すべて地球人が私に開いてくれた未知の世界で、すでにこの頃には何事も、「老いては子に従え！！」を実践していた私に、大きな感動を与えてくれた。こうして、地球人は大学院でも研究に、スポーツに、音楽にと、意欲的な毎日が、相変わらず続いていった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-277897404360265547?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_05.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>3</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-4628846424498999330</guid><pubDate>Fri, 02 Jan 2009 22:34:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-03T13:06:48.649+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>５。大学院時代（含、秘話）</category><title>大学院での研究開始</title><description>大学を無事卒業した地球人の、新たな目標となったのは、ケベック省内の4つの医学部を持つ大学の中で、唯一、医科学研究コースが医学部内にある、ケベックシティ郊外の大学だった。この大学は、北米大陸最古のフランス語系大学として、ケベック省の首都ケベックシティの郊外に位置しており、ケベック人はこの大学をとても重視していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、この大学の医科学研究にも、ケベック省政府はかなり力を入れており、研究費も多かった。大学構内は広大で、素晴らしい設備を誇っていた。そして大学付属の6つの病院が、大学の周りに点在していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この大学の施設として、何よりも特筆すべきは、寒い冬に備えた地下施設で、学生は講義に出るのに、一度も地上に出なくても、殆どすべての教室に行くことができ、勿論、レストラン、銀行、コンビニ、理髪店、スポーツ施設などなど、ありとあらゆる生活に必要な施設が地下にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;冬の間中、一度も外に出ないで、暖かい地下施設で夏のＴシャツで生活した、という学生も居る程だ。バス駅も構内に多数あり、その広大な敷地が、すべて地下で繋がっているのだから驚く。 私のホームドクターも、ここの出身で、ケベック省の人にとっては、フランス語のみで講義するこの大学は、文化的にもとても重要なのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話はそれるが、ケベックに移民した人は、1000時間の無料フランス語授業が受けられ、投資移民を除く、他の移民者たちは、ベビーシッターや交通費、生活補助費まで支給され、1年間勉強しながら生活補助が受けられる程、フランス語を維持することに、力を入れている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;姪たちは、技術移民の名目で移民したので、この恩恵にあずかり、夫婦別々の時期に勉強して、援助を受けた。収入が少ない場合、こども一人につき年間6000ドルまで補助が受けられ、5人ぐらいの子持ちで、遥遥、アフガンやイラクから、難民としてケベックに入った家族は、結構いい生活をしている。まあ全て、我々の血税が使われていることを考えると、思いは複雑だが、、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、話を戻すと、地球人は、この大学の医科学研究コースに入りたいと考え、色々下調べして、ケベックシティ郊外の、この大学を訪問し、具体的によく理解したいと願っていた。私も暇だったので、地球人の車に乗せてもらって、観光も兼ね、初めてケベックシティ郊外の、この大学に出かけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず、癌センターとか、色々な施設と研究室の説明を受け、すぐに、地球人は会ってくれる教授の下を、尋ねることになった。 初めに、一つの癌関連の研究室と、人工血管の研究室を訪れ、それぞれの教授のお話を聞いた。 しかし、地球人は、納得の行くまで、自分の行く道を探す為、又、大学前の病院に戻った。そしてそこで、思いがけない情報を、得ることができた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、つい最近、「遺伝子研究」を専門にしている教授が、アメリカの西海岸からこの大学に赴任してきて、丁度今、助手を探している、という情報だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は直ちに、その先生と連絡をとった。偶然その日、その時間に、教授もお時間があり、すぐ面接となった。そして、それが、地球人の日本でのポスドクにまで繋がる、大きな出会いとなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教授は、快く受け入れてくださり、地球人はこの教授の下で、科学者としてのイロハから、ご指導いただくこととなった。何よりも、教授に感謝したいことは、地球人はここで、研究に関するご指導以外に、論文の書き方までも、懇切丁寧にご指導いただけたことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、地球人は、大学の前にある、大きな大学付属病院内の研究室の一室で、遺伝子の研究をスタートさせることが決定した。 研究内容は、癌などを含む、多くの病気の発病要因となる、遺伝子の発現及び修復のメカニズムに関する研究だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学卒業後の夏休み終了を目前にし、地球人は、この新たな地、ケベックシティ郊外の大学と、その付属病院の研究室で、勉強と研究をスタートさせる準備を、着々と、進めていった。授業開始に向け、又、学寮に入寮する日は、もう、すぐそこに迫っていた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-4628846424498999330?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post_03.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-1930755418650005758</guid><pubDate>Wed, 31 Dec 2008 18:15:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-01T06:12:43.837+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>４。大学時代(含、秘話）</category><title>移民入境後の生活</title><description>1996年7月、無事移民の許可が下り、我々は家族でカナダに正式のランディングをした。初めは皆、観光ビザで入り、移民のビザを入手すると同時に、カナダとアメリカのボーダーを越えて一度、アメリカに入り、又、カナダに正式な移民者として、戻ってきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我が家からは一番近いアメリカのボーダーは40分ぐらいで、地続き。アメリカとの行き来はとても簡単だ。 ボストンやニューヨークはトロントより近く、一泊どまりぐらいで、簡単に往復できる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、我が家の移民という一大ミッションは遂行され、1997年の冬から、私は、本格的に拠点をカナダのモントリオール郊外に移した。地球人は大学3年生の終わりを迎え、そろそろ最後の一年に掛る頃だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が1997年1月、拠点をこちらに移し、本格的に住み始めてからは、地球人の友人が引きも切らずに訪れるようになっていった。英語教育の小学校時代の再来で、地球人はとにかく友達を家に呼ぶのが大好きだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでに、モントリオールのアパート時代も、私が滞在している間は、気の合った仲間達を食事に招くのが好きだった地球人は、家を持って、益々友達を大勢招くようになった。週末になると、私は地球人の友人の来訪に備える日日が始まった。地元でも、ホッケー仲間などの来訪も多かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その頃からは、家から遠いモントリオールの大学に、効率よく出かける為に、授業をとる日を3日ぐらいに集中させて、残りの日々は、家を中心に地元のホッケークラブに参加して試合をしたり、アルバイトをしたり、チビッコホッケーチームのコーチをしたりして過ごしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;相変わらず、じっとしていない地球人は、向かいのスキー場へもシーズンパスを買って、よく出かけていた。やはり、スポーツ好きの地球人にとっては、ここはパラダイスだったのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;初夏になると、ゴルフを始めた。最初の年は、我が家の前のゴルフ場のクラブメンバーになり、すでにこの頃には、日本の旅館をたたんで、隣の家（地続き）に一家で住んでいた兄と、近所の人たちを交え、ゴルフもよく楽しんでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この頃からは、銀行や公共機関との交渉事、あらゆる家の手続き（保険その他）などは、地球人の名義で行われ、隣の兄達一家のお世話も含め、地球人は完全に一家の中心人物で、実質的な主だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、私の大学の同僚の息子さんが、10歳で、モントリオールの郊外の私立校に留学する際には、保証人兼親代わりとして入学交渉に臨み、校長先生の心配に対して、「自分自身の経験から来る感想と考え」を力説し、入学許可を取得した。この時は、「留学経験者の貴方が親代わりになるならＯＫする！！」と言われ、20歳そこそこで、パパがわりになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こちらの学寮は大抵、週末は子供を預かってくれない。週末は適当な保護者の家に戻ることが義務付けられている。そこで、この少年のご両親が正式に移民してくるまで、我が家に一年間、この少年を預かり、同居した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともあれ、移民後、地球人は隣の家に住む私の兄の家族も含め、自宅を中心に、スポーツ、音楽、趣味、アルバイトと色々な活動に、更に熱心に取り組んでいた。この時、地球人の意見を訊いて、又、ピアノをかった。すでに、こちらで勉強を始めていた弟にも、ドラムセットをプレゼントして、そのドラムは我が家に置かれた。（喧しい音を兄が好まなかったので、我が家に置かれた）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何事にも興味を持つ地球人は、ドラムにも大いに興味を持ち、本来は弟の為に買い与えたドラムを、購入後すぐから、弟よりも余程熱心に、練習し始めた。そして、瞬くうちに、ドラムの魅力にとり付かれた地球人は、朝から晩まで、色々な雑誌を読んだり、勉強したりしながら、ドラムを叩き続けるようになっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、弟が楽しむときには、ピアノで伴奏したり、ギターであわせたりしながら、楽しそうに遊んでいた。この頃から、地球人のドラマー人生が始まった。地球人のブログをご覧になったことがある人は、今、所属しているバンドの記事を、よく目にされると思うが、ドラムに開眼したのは、この頃からだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして我が家は又、地球人の友人の溜まり場になり、いつも音楽が鳴り響く、賑やか過ぎる家へと変貌していった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-1930755418650005758?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2009/01/blog-post.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-1280282537337861120</guid><pubDate>Mon, 29 Dec 2008 15:57:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-31T04:15:02.823+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>４。大学時代(含、秘話）</category><title>移民手続き開始と新居購入</title><description>地球人が「旅好きな兄貴」に変身したころ、我が家では、新しい、そして、重大なミッションのスタートが切られた。それはカナダへの、家族移民の遂行だった。どんなに早くても、手続きには約一年半はかかる。（今は更に長いと聞いたが、案件による）地球人が大学を終える前に、移民の手続きを終え、家族でモントリオール郊外に拠点を移す計画だったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最大の理由は、学生ビザで大学に居ると、切り替え時期には、又、書類を整え、ビザが下りるまで時間がかかり、万一ドジを踏むと、一度、外国へ出なければ成らない。この頃には、良い大学に入るのは、カナダもかなり狭き門で、大学院に至っては、もっと面倒だということがわかっていた。普通の学科はわからないが、当時ケベックには、科学研究が優れた大学は４校しかなく、順調に進めるかどうかわからない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我々も、いずれはカナダへ移民を、と思っていたので、それなら、この辺りで、地球人を枝葉末節な問題に煩わされることなく、勉強に専念させるべき、正念場の時ではないか、と思ったからだ。学費も学生ビザの留学生と、現地の学生とは、倍ぐらい違う。勿論、移民ビザがおりれば、かなり学費負担も軽くなるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前にも述べたとおり、何事もやってみなきゃわからない。そこで、早めに、投資移民の申請書をだした。すでに歳がかなり行っていた我々にとって、一番簡単な永久居留権の取得方法は、投資移民だった。これは、5年間、すずめの涙ほどの利子で、カナダの銀行に一定額を預金し、使わせるかわりに、カナダ政府から居留権を貰うというもの。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5年経つと元金は全て戻ってくるので、日本のように、利子の少ないところなら、いっそ、カナダに置いて、居留権をとってみるのも面白いかも、、、、。ただし、居留権をとっても、カナダ国籍をとるまでは、最低、年半分はカナダに居留することが、義務付けられるので、その点は要注意。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、知人の中には、お父さんは上陸後、仕事の関係でどうしてもカナダに長期滞在することができなくなり、この規定に違反。しかし、お母さんと子供は居留権を剥奪されず、お父さんからの仕送りで居留継続。そして後に、人権保護により、夫婦親子の同居権を理由に、再申請して、お父さんの居留権も復活した人の前例もきいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、我々にとっては、かなり前から、すでに予定のルーティン。移民の申請が受理されると同時に、投資資金の確保の為、前に述べた郊外型の家を手放し、準備万端整えて、ビザの下りるのを待っていた。この移民の手続には、間に移民専門の弁護士が入っており、ほぼ確実に、移民許可が下りると聞いていたからだ。許可が下りれば、正式に家族一緒に永久居留ビザで上陸し、政府指定の銀行に投資額を貸付、移民へのすべての必要な手続きは完了する予定。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、地球人が大学2年を終えた7月、私は地球人に、「モントリオールの近郊に家を買うから、推薦できる物件を用意するよう！！　家を内覧できる日程は2日のみ！！だから、不動産屋と交渉して、準備しておいて！！」と伝えた。そして、早速、又、遥遥とモントリオールへ向かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この頃までには、地球人の口座に、毎年、かなりの額を振り込んでおり、家を購入するには、ほぼ十分な金額がすでにカナダの口座に置いてあり、私と地球人の小切手で切れる。私は、家を買うことに迷いはなかった。「だめなら売りゃいいじゃん！！」と又、肝っ玉母さん譲りのノーテンキ病だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不動産屋（北米で知名度の高い、一流の不動産屋で安心）が私の内覧の為に準備した家は32軒。モントリオールのすぐ側と、ちょっと離れた郊外と二箇所。まず最初のモントリオールのすぐ側の家を内覧し始めた。多分ここでは、17軒ぐらい見た。一目外観を見て、「次、お願いします！！」と言ったところも多かった。そして、結果的には、一軒も私の理想にはあわなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少し離れた、2箇所目の場所に移った。人間が何かを決める時なんて、ほんの少しの偶然が左右することが多い。私は、高速道路の両側を眺めながら、目的地に向かった。段々、緑と山々の景色が多くなり、高速道路から町に入った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その時、川に架かった小さな橋の欄干に、実に綺麗な花かごが飾られ、ライトの上にもフラワーバスケット。色とりどりの花々の中に、いきなり、白馬や、綺麗な馬に跨った一団が、格好いい真っ赤な制服とキャスク、乗馬ブーツで颯爽と行進してゆく姿が、目に飛び込んできた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「何あれ？？」ときくと、「ここは1976年、モントリオールオリンピックの時、乗馬会場として使われた町で、あの一団は、この町で一番大きな乗馬クラブのメンバーですよ！！時々、犬を連れて狐狩りにも行き、そのコースがこの川沿いにあります。」という説明。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正面に、当時21コース（今はもっと多い）のスキーゲレンデを持つ山の緑。溢れる様な鮮やかな彩りの花々。そして、その大自然の緑の中を行進する、綺麗な馬の軍団。秋には紅葉も美しく、今では日本の、大手旅行社のツアー宿泊地にも指定されている美しい町。快晴の綺麗な青空の中で、偶然、この光景を見た私は、すぐ、「気に入った、ママ、ここに家を買う！！」と宣言した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここでは、15軒ぐらい見た。決めたのは最後の一軒だった。それも家の中というより、そこから眺める大自然の光景が気に入ったからだ。すると、不動産屋が、意外なことを言い始めた。「ここが好きなのは景色がいいからですか？？それなら、隣の家の方が、もっといいですよ。この前、一緒にゴルフをしたとき、隣の主人が、近々家を売りたいと言っていたから、明日の朝、もう一度きて、見せてもらったらどうですか？？この家より、かなり新しくて、中もキチンと作っていますから、、、。」という話。ひとまずこの日は引き上げて、明日、最終決定をすることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次の日の朝、不動産屋が勧める隣の家を見た。確かに景色は、隣の家より素晴らしかった。間取りも、スクリーン状のドアで、色々と変えられる仕組み。部屋を大きくも小さくも使える、私が好きなタイプだった。そこで、私はすぐ交渉に入った。とりあえず暫くは、のんびり家具などもそろえていられず、じょじょに好きなものに替えて行く予定だったので、全て家具つきの、居抜きの値段で、交渉してもらった。実に内覧、33軒目の家だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それが高かったのか、安かったのかは、未だにわからない。地球人に、「どうして、この場所を選んだの？？」と訊いたら、「高校の時、ここのスキー場にきたことがあるし、色々な人に訊いたら、ゴルフ場も多く、ここはリタイアした人たちに、夢の町と呼ばれているところらしいから、いいんじゃない？？」ということだった。しかし、冬は、スキー、スノーボード、スケート、ホッケー、アイスフィッシング、スノーモービル、ノルディックスキーなどが楽しめるここは、多分、地球人の趣味にも、ぴったりだったのかも、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともかく、家の裏庭は、PGAツアーの指定ゴルフ場の10番ホールに繋がっていて、10分以内にゴルフ場が6つ。前の山は、ワールドカップのマウンテンバイクと、アルペンスキーのコースが20数本。乗馬場は、付近に10箇所以上。大人用の乗馬学校も多数ある。湖では、モーターボート、ヨット、カヤック、水泳、釣りなどを楽しむ人々で夏は一杯。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカからキャンピングカーを引いて、付近に点在するキャンプ場に入ってくる観光客も多い。夏は子供達には、楽しいキャンプライフ。乗馬教室はもとより、ミニゴルフ場、全長125キロのサイクリングコースとローラーブレードコース、マウンテンバイクとフリーマーケット内のサーカス小屋。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山の傾斜を利用した、スキー場の一角には子供遊園地があり、夏は、プールやジャンプ場。タイヤスライディングコースなど、雄大な景色を楽しみながらの水遊び。山の中でのバギー遊びやハイキング、マウンテンバイクコース。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平地では、大きな競輪場のような自転車の競技場もあり、湖遊びも含めれば、子供用にもまだまだ大きな施設が一杯。スポーツ好きには至れり尽くせりの感がある。やっぱり、ここは、老人がただ景色を眺めているより、若者が思いっきり、スポーツを楽しむところだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、毎年地元の小学生は、学校の学習強化スポーツリストの中から、自分で好きなものを選び、好きなスポーツに挑戦できる。だから、勿論、スキー、スケート、ホッケー、乗馬、ゴルフ、サッカー、などなど、体育の授業として、楽しみながら訓練してもらい、多才な、スポーツ好きの青年が多く出来上がるわけだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地元からは、色々な分野のオリンピック選手も出ており、町ぐるみでスポーツ好き。冬は立派な室内サッカー場も付近に持っている、この地元の小学生チームが、今年（2008年度）のケベック優勝チームとなったとか、、、、。とにかく、小学校から多くのスポーツに、勉強に、とバランスよく、強化する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カナダ生まれで、すでに移民している姪の息子は、すでに11歳で、2008年9月からの小学校のスポーツは、乗馬とゴルフを選んだそうだ。その外に、町の小学生代表で、今年はサッカーチームに所属。アイスホッケーや空手もやり、勉強以外にも活動が多く、姪夫婦も忙しくて大変そうだ。しかし、小学生のスポーツ強化科目に乗馬とゴルフというのは、本当にこの地元の利を生かした豪華版。「めったにできないよね！！」と姪は大喜び。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、我が家の移民手続きの場合は、地球人が中学から長くケベックに滞在し、フランス語も問題なく、家や生活費の準備も整っていたせいか、普通、必ずあると言われている、最終面接は免除され、直接上陸許可証が弁護士の元に送られてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今はよく分からないが、居留ビザ発給の為の最終面接は、当時、この辺ではアメリカのバッファローか、運が良い場合はモントリオールの移民局で行われていた。アジアでは最近、フィリピンなどで行われるケースも多いそうだ。友人達、兄夫婦、姪夫婦も全員、最終面接に参加した。その後、上陸許可証送付までには、約2ヶ月ぐらいかかるのが普通である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともあれ、こうして、移民許可がまもなく下りるという時に、モントリオール郊外の、風光明媚な田舎町に我が家を購入したのは、1995年の、夏の暑い日のことだった。綺麗な花々と、雄大な自然にかこまれた新居への、正式な拠点変更プランは、いよいよ最終章を迎え、後は一番頭の痛い、国際引越し荷物の整理発送を迎えるばかりとなっていった。地球人の引越しも、その後を含め、香港から台湾、リゴー（モントリオール郊外、地球人の中学高校の所在地）、オタワ、モントリオール、ブロモント（自宅、モントリオール郊外）、ケベックシティ、横浜、東京と、ますます範囲を拡大していった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-1280282537337861120?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_30.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-667496238922745238</guid><pubDate>Sun, 28 Dec 2008 03:15:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-29T05:05:18.844+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>４。大学時代(含、秘話）</category><title>語学留学と多言語強化の旅</title><description>&lt;div align="justify"&gt;さて、厳しい大学一年を終える頃から、地球人は海外旅行に大きく目覚めていった。もともと飛行機には乗りなれているが、留学後はただ、東京とモントリオールの往復が多かった地球人は、当時エクアドルに短期留学していた親友の元を訪れる時、モントリオールから、エクアドルへの往復に、ワシントンやマイアミなども途中見学しながら、ぶらぶら一人旅をして、初めて、旅の楽しさを本当に理解したらしい。&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;確かその時は、わずか300ドル前後の所持金しか持たず、貧乏な旅をした。クリスマス休暇を利用し、バックパック一つで、モントリオールからマイアミまでは汽車の鈍行にのり、のんびりとした旅をしたようだ。 あとで聞くと、結構私の一人旅と同じく、色々親切な人に巡りあい、助けられたらしい。&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;この親友訪問旅行で、旅の楽しさを満喫した地球人は、大学の授業のストレスもあったのだろう。「ねえ、俺、よく考えたら、やっぱり言葉を習うのって、本当に楽しいし、向いていると思うから、短期語学留学に行きたいんだけど、、、、どう思う？？？」と、訊いてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ドイツに6週間。Kasselという耳慣れないところにある大学と、地球人が勉強している大学との間に、交換留学制度があり、ドイツ語の単位取得にもなるとかで、興味があるらしい。でも、終わってから、又掛け持ちで、スペインのRondaというところにある大学でも3週間、スペイン語を勉強したいという。「その両方、プラス、一人旅の軍資金を援助してくれないか？？」という希望。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;若いときの苦しい旅は、必ず多くのことを学べるから、勿論、私には異存がない。そこで、早速、地球人は、短期留学の手配をし、ドイツにむかった。そこで、地球人はトロントから留学していたカナダ人と友達になり、色々なところへ遊びにいったらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この短期留学の旅には、もう一つの楽しみがあった。それは、私の兄夫婦と合流し、旅の案内をすることだった。6週間のドイツ語コースが終わり、スペインに向かう途中、地球人はパリのドゴール空港で、兄夫婦を迎え、すぐタクシーで、リヨン駅に向かった。（兄の記憶による）&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;リヨン駅前のレストランで、好物のかきをたらふく食べた地球人は、兄に言わせると、半ズボンのお尻が破れた、よれよれのジーパンを履き、浮浪者みたいだったという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかく、地球人はほとんど「しゃれっ気」がなく、身なりを構わない。（まあ、今は社会人になって、かなりきちんとしているけど、、、。根は、おしゃれには、あまり興味がない。）いつも、「ぼろは着てても～～、心の錦～～～！！」とかいう、誰かの歌を、自分の主題歌にしていた。 &lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;この一行は、リヨン駅前のレストランに入って、「さて、これからどうしようか？？」と相談を始めるまで、全く、行き先も何も決めていない、行き当たりばったりの旅だった、というのだからスゴイ！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;兄が地球人の意見を求めたところ、「パリなんて、ごみごみしていて、別に大して見るところないよ！！」という意見だったそうで、「それなら、いっそ、スイスの山でも見に行くか！！」と意見が決まり、リヨン駅から、汽車で、まず、スイスのジュネーブを目ざし、出発した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジュネーブに一泊した後、ユングフロー、ツエールマット、マッターホルンなどの、雄大な山々を眺めながら、途中3泊したそうだが、その時、兄が持っていたクレジットカードは、マスターカードだけで、使えるホテルがなかなかなく、ようやく見つけたホテルは、超豪華なスイートのみ。執事室までついた、3室続きの部屋しかなく、兄は泣く泣くそこに、大枚を叩いて、泊まったとのこと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは、よく聞くはなしで、日本では、結構幅をきかせているカードも、外国では使えない、というか、拒否されるものもあり、旅行する人には、要注意事項。まあ、別に、私はビザカードの回し者ではないけど、一番、どこでも使え、便利なのは、ビザカードだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この旅行は、兄夫婦は、まったく地球人という案内人に、言葉はお任せ。汽車で移動の時、前の汽車の脱線事故に遭遇し、途中で乗った汽車が止まってしまい、バスで迂回したりする交渉事などは、すべて地球人が全部、鉄道員に話を訊きに行き、解決したそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジュネーブから、グリンデルワールドに向かう汽車の中では、最初はフランス語で話す人が多く、続いて、イタリア語に変わり、その後、ドイツ語に変わるなど、様々に変わる言葉を、地球人はじっと聴いていた。&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt; &lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;そして、「ナンだ！！ほとんど同じだ！！」というなり、フランス語を話している人とはフランス語、イタリア語を話している人とはイタリア語、ドイツ語を話している人とはドイツ語で、べらべらと話し始めたらしい。そんな地球人を見て兄は、「こいつの頭の中は、どうなっているんだろう？？」と、ビックリ仰天したそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、ベニスに一泊して、イタリアを楽しみ、そこで、地球人の兄夫婦へのご案内は終了。地球人は次の短期留学先の、スペインのRondaを目ざし、旅を続けていった。そして、3週間のスペイン語研修中には、色々なところへ遊びに行き、スペイン語やドイツ語を、実践的につかいつつ、旅を楽しんだ。&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;スペイン語の学習が終わってからは、ポルトガル、モロッコなども回って、カナダに戻った。地球人のスペイン語学習は、その後も続けられ、大学院の時は、メキシコや、中南米からの学生との交流で、大いに磨かれていった。 &lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;ちなみに1994年の夏、地球人によって決行された、ヨーロッパ短期語学留学、及び、ぶらり旅の訪問国は8カ国、主な訪問都市は、約30都市にも及んでいた。以下は本人の記憶に基づいての報告。&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;France (Paris),&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Holland (Amsterdam),&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Germany (Frankfurt, Kassel, Bonn, Koln, Berlin, Weimar, etc......),&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Italy (Venice, Firenze, Rome, Pisa, Sorrento/Capri Island, etc......),&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Switzerland (Geneva, Zurich, Altendorf, Zermatt, Jung Frau Joch, etc....), &lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Spain (Madrid, Malaga, Ronda, Sevilla, Barcelona, Marbella, Algeciras, etc.....),&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Morocco (Tangier, Fez),&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;Portugal (Lagos, Lisbon, Porto)&lt;/div&gt;&lt;div align="justify"&gt;&lt;br /&gt;今、地球人の履歴書には、特技として、「言葉」とあり、「流暢」として、5ヶ国語。「中級」として、3ヶ国語を列記しているが、これは偽りのない真実だと思う。これからも、大切に、この特技を守り続けてほしいと願っている。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-667496238922745238?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/10/300-6kasselronda3-frankfurt-berlin-koln.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-2508368149869297762</guid><pubDate>Fri, 26 Dec 2008 22:08:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-27T09:21:13.171+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>４。大学時代(含、秘話）</category><title>大学入学！！さてその感想は！！</title><description>さて、オタワのPresience course（2年コース）の単位を一年で取得した地球人は、二つの大学に進学希望の願書をおくった。その前に、私が勧めたボストンの名門大学も、見学と調査の為、車で訪問したが、地球人にはこの時すでに、自分の青春を燃やしたカナダが第一希望になっており、最終的に自分でカナダに決めて二つに絞った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一希望はモントリオールの大学で、国際校として海外からはもとより、カナダでは、バンクーバーなどの西部からも、ワザワザ留学する学生が多い人気校だった。前身は医学校で、科学は強かった。彼にとっては、総合的に（学費も含めて）素晴らしいとの判断を下したようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうひとつは、オタワの大学で、Presience courseから直接上がっていける大学だった。この大学も、カナダの首都、オタワを代表する大学で、勿論、遜色はなかったが、こと科学だけを比較するなら、当時地球人の判断では、モントリオールの大学の方に軍配が上がった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、第一希望のモントリオールの大学からは、Presience courseが終了間近となっても、返事がなかった。そして、地球人から私に電話で相談があった。元々は義弟の勧めで、義弟の娘も通っていたオタワの大学に入るつもりだった地球人には、決めかねる問題だったらしい。なぜなら、オタワの大学に入るなら、早速500ドルの前払い金を納めなければならないタイムリミットが迫っていたからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人に意見を訊いたら、「やはり、第一志望はモントリオールの大学だが、今の状況では、どうなるか分からない」という返事だった。それを聞いた私は、即座に、「それなら、500ドルぐらい、別に無駄になってもいいから、取りあえず納めておいて、もしモントリオールの大学にパスしたら、そっちに行けば？？？」と提案した。地球人は「わかった。じゃそうする。」と短く答えて、電話を切り、前払い金を納めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7月一杯には、まだ返事がなく、そろそろ諦めかけていた時、突然、モントリオールの大学から、入学許可が下りた。この大学には、東南アジアからの留学生も多く、選択に時間が掛っていたらしい。この頃、この大学は、まず地元のカナダの学生を50%優先、そしてアメリカからの学生を25%優先、残りの25%をヨーロッパ、アジア、その他全ての地域の学生に割り当てるらしい、との噂があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人のように、学生ビザで滞在している東洋の学生は、残りの25%の中の、更に少ない%の一人と数えられ、とてもとても狭き門だった。トロント、バンクーバー、南北アメリカ、ヨーロッパにも人気があったこの大学は、ますます地球人の憧れとなっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;入学許可を受け取った地球人は、正に大喜びで、即座にこの大学に進学することを決めた。500ドルは無駄になったが、私も地球人が一番希望する大学に入れて、心から祝福した。こうして、希望に胸を膨らませ、地球人は大学一年生になった。この学校は、モントリオールの街のど真ん中にあり、正門から見える古いドームが、この大学の、長い歴史を物語っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;後に、地球人の大好きなアイスホッケーの「正式な試合ルール」を完成したのも、昔昔の、この大学の在校生だったと知った地球人は、大いに興奮して喜んでいた。カナダでは、遥か昔から、教授の交流、研究生の交流、ホッケー試合の交流などが度々行われていたボストンの名門大学とは、姉妹校と呼ばれていた。地球人は晴れ晴れとした顔で、入学を許可された自分の幸運を喜び、授業開始を待ちかねていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;モントリオールでの生活を始める為、地球人が、あの凄まじく古いオタワのアパートから、モントリオールのアパートに引越しすると決まり、私は又、遥遥と太平洋を越えて出かけていった。なぜなら、これから最低4年間は、モントリオールでアパート暮らしをすることが決まり、少し家具や電化製品など、必要なものを買い揃え、暮らしやすくしてやらねばと思ったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今度地球人が見つけたアパートは、前のアパートより、余程新しかった。ここは部屋が3室あり、3人共同生活で、それぞれ一つづつ個室を使い、応接間、キッチン、お風呂などは共用のアパートだった。ここで、地球人は他の二人の住人とワンフロアーをシェアして暮らすことになった。部屋がかなり広かったので、私は、ソファとか、テレビや勉強机などを買い揃えて部屋を整えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;待ちかねていた授業が始まって暫くすると、あんなに喜んで入った大学なのに、何だか地球人の様子がおかしい。訊いてみると、「俺、この大学で勉強している奴、あんまり好きになれないかも、、、、、、」と意外なことをいい始めた。流石にどの学生も物凄い勉強家が多く、クラスが勉強一色で、ぴりぴりしているらしいのだ。初め70名でスタートしたクラスが、あっという間に、半分ぐらい脱落してゆくほど、スゴイと暗い顔をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これまで、勉強も本当に順調に来ていて、まったく楽勝の感をもっていた地球人が、初めて、「スゴイ奴は世界に多い！！」と実感したのも、この頃だっただろう。地球人はブログの名言集で、｢男は自分の能力以上のものに挑戦しなければ、本当の力を出し切ることはない、、、、（ちょっと違うかもしれないけど、こんな意味）」と言っていたが、きっと、初めて、スゴイ軍団に入った気分がしたのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;学生の多くは、何か話しかけたり、ちょっとノリで冗談を言っても通じず、教えてもらいたいことがあっても、まるで敵を見るように、すぐ身構えるのだそうだ。甘い顔をしていたら、自分が落とされるかもしれないと、まるでお堀を深く掘って、他人を近づかせないようなムードで、ピリピリしている学生達に、地球人は大いに失望したらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;朝5分遅刻しても教室に入れないとかで、本当に、あんなに緊張して、毎朝学校に駆けつける地球人を私は初めて見た。欧米の大学は、無事卒業するのが大変と言われているが、本当らしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;入るのも大変、出るのも大変な、厳しい大学での生活は、地球人を大いに悩ませた。そして、好むと好まざるにかかわらず、地球人は、物凄い勉強家の軍団を相手に、学問でも、熾烈な競争に巻き込まれていった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-2508368149869297762?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_27.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-5625452833838303308</guid><pubDate>Tue, 23 Dec 2008 17:53:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-01-19T06:16:38.055+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>４。大学時代(含、秘話）</category><title>スペイン語強化と多言語維持の努力</title><description>地球人がオタワで、科学を専門的に学び始めたころ、中学2年生から、始終行動をともにしていた親友は、エクアドルに、一年間の語学留学に向かっていった。地球人はとても淋しがり、クリスマス休暇を利用して、この親友に会いに行ってもよいかどうか、私に許可を求めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、少しでも、若いうちに世界を広げておくことには大賛成だった私は、問題なくＯＫした。自分で生活費をやり繰りして、航空券を買い、地球人は親友の元に出かけていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼のことは地球人の親友のところで詳しく述べたが、今回は、地球人のスペイン語への興味と、多言語の維持強化への努力を中心に、書いてみたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その親友の学ぶエクアドルを訪れ、地球人は、すっかり、スペイン語に魅了されて、真剣に習得することを決意した。滞在中、積極的に、スペイン語を使っているうちに、文法や発音など、かなりフランス語と似通っているスペイン語を、自分の常用語のひとつに加えたくなってきたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たしかに、ケベックのフランス語系の大学には、メキシコや、中南米からの留学生が凄く多い。多分、耳慣れるのが、早いのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;早速、強化の為、スペイン語のテープやビデオ、辞書などを買い込んで、カナダに戻ったあとも独学で、スペイン語を勉強し続けた。こうして、新しい言葉に対する興味も、圧倒的に強い地球人の耳は、発音もかなり正確にとらえることができた。 ちなみに、このエクアドル旅行中には、Quito, Cuenca, Riobamba, Banos, などを訪れたそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後地球人は、1994年の夏、大学2年生の時、大学の交換留学制度を使い、正式に、スペインの大学とドイツの大学に短期語学留学し、戻ってからも、ケベック市の大学院で、メキシコや、中南米の学生と、積極的に交わり、スペイン語を常用し続けていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今の地球人に、もし、語学的に成功できた原因をさぐるとすれば、私が子供時代から習慣づけた、言葉は環境、導入、常用、固定というプロセスを繰り返すことにより、強固なものになってゆくことを、自分でもよく理解していて、成人以後も、弛まず常用し続けていることが、最大の勝因だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、2003年から現在まで、日本に滞在中だが、地球人はスペイン語スピーキングクラブのメンバーとして、度々スペイン語を使っているし、フランス語も、多くのケベック人の友人と、使い続けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;北京語も、幸い研究室にいた中国からの留学生と、ずっと使い続けることができたし、日本語に至っては、日本語検定試験などにも参加しつつ、自分の実力を冷静に判断し、足りないところを補足しながら、未だに勉強し続けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、スポーツの世界大会などでは、ボランティアーとして、大会の通訳を引き受け、実践の場も設けている。ちなみに数年前の空手大会では、五ヶ国語の同時通訳として、少しは大会参加者のお役に立てたそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よく私が言うように、言葉は慣れだから、多言語習得は、幼少時から訓練する気さえあれば、どんな子供にも訓練はできる。子供の耳には本当に無限の可能性があるのだから、、、、、。勿論、習得の速さや語彙量には多少の差が出るとしても、、、、、。そして、バランスよく常用環境を設定してやれば、かなりのレベルまで、誘導はできる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、習得した多言語を、維持強化し続け、固定してゆくには、常用環境を作り続ける、本人の強い意志も不可欠で、親という立場を離れ、客観的にみても、常に言葉の常用環境を求め、多言語維持強化の努力を怠らなかった、地球人の行動力を、高く評価しなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、何より、「好きこそものの上手なれ！！」という言葉どおり、地球人自身が、多言語を習得することが好きだったからこそ、ここまで、歩んでこられたのであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「没頭できる何か」を持っている人は幸せだ。地球人がいつまでも、未知の領域、未知の世界、未知の文化への興味を忘れず、一生、何かに没頭できる人であってほしいと、親として、改めて心から願う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-5625452833838303308?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_24.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-8151082626756904762</guid><pubDate>Sun, 21 Dec 2008 16:42:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-24T06:14:42.579+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>４。大学時代(含、秘話）</category><title>地球人オタワに移動</title><description>さて、高校を卒業するころまでには、地球人は自分の得意な学科、不得意な学科が見えていて、文学系はどうも自信がなかったらしい。数学、物理、科学（化学）には、かなりの自信をもっていて、大学では科学を専攻することを決めていた。そこで彼は、取りあえず、大学入学前の専門学校をオタワの大学のPresience courseで学ぶことを自分で決意し、私に知らせてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オタワで勉強を始めるということは、そく即ち、英語で大学前の専門コースを履修するということで、フランス語教育は一旦離れるということを意味する。しかし、勿論、オタワはケベックと連接しており、多くの人はバイリンガルだし、モントリオールの友人とフランス語を話すチャンスも多く、英語がメイン、フランス語がサブという、これまでとは正反対の二つの言葉の常用が始まった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本語と北京語の常用環境も続いており、これで専門的な英語による科学の語彙の強化もすることができ、理想的なコンビネーションとなっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は自分でアパートを探し出し、引っ越してから私に住所を知らせてきた。初めてのアパート暮らし。「足りないものは？？どんなところだろう？？」と心配になった私は、さっそく、大学の学期が始まる前の時間を利用して、オタワのアパートに出かけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;案の定、まだそこらじゅう散らかっていて、足りないものばかり。このアパートの周りの環境はあまり覚えていないが、アパートの建物自体の古さは特筆もの。なにしろ、部屋からトイレに行く途中の廊下が、完全に真ん中が盛り上がり、（木の廊下が長年の乾燥により変形していた）かなり左に傾いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;夜中にトイレに行くとき、部屋から出た途端、自然に体が斜めになって、あれよあれよという間にドドドドドと左の壁に激突。もう眠気も吹っ飛び、壁に手を支えながら歩いた思い出がある。多分古くて、相当家賃が安かったから、決めたのだろう。オンタリオ州の物価は、ケベックより20%ぐらいは何でも高いから、、、、。オット！！ガソリンは安かったかも。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人の胃袋を満たす為、そのキッチンに入ってみて驚いた。まあ、電気コンロ、冷蔵庫、マイクロウエーブオーブンは一応ある。しかし、キッチンテーブルは、反った床で壁の側がかなり低くなっており、完全に斜め。コーヒーなどを置くと、ツーッ！と自動的に動く。「オイオイオイ！！何もここまで倹約しなくても！！」と内心思ったが、地球人が自分で探し出してきたところだ。多分、学校に便利なところなんだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのマイクロウエーブオーブンは、本当に今でも忘れられない。中に温めるものを入れて、スイッチを回すと（といっても、つまみはとうの昔になくて、棒だけが出ている）、壁や辺りを揺らすような、物凄い轟音（オーバーじゃないよ！！）で「ガ～～～ッ！！！」と鳴り響く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;設定した時間の最後まで、凄まじい音が延々と家中に響き渡り、いきなりシ～～～ンと一瞬なってから、「チ～～～ン！！」と仏壇の鐘みたいな音が、人間を小ばかにしたように鳴って終わる。本当に印象深いオーブンだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今後、どこにどう行くか分からぬうちに、あまり家財道具を増やしてもと思い、取りあえず最低限の足りないものや、殺風景な部屋を多少温かくするために、飾り物や電気の笠などを購入し、少し居心地をよくしてから、私は台湾に戻った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人はここでも、2年間のコースを1年で終えると自分で宣言して、履修科目を増やし、毎日忙しくやっていた。相変わらず、地球人はこのオタワの大学でも、ホッケーチームの仲間の練習などに加わり、楽しんでもいた。さすがに、大学の正選手にすぐになれるほど、カナダの大学ホッケーチームは甘くなかった。この大学のチームの試合観戦は有料で、一般の人が切符を買って入る程、セミプロだったから、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともかく、地球人は、やるといったことは、自分で自分にプレッシャーをかけるので、私はこの頃はただ、慰問に行くと、もっぱら胃袋の管理と、趣味のお付き合いをしていただけ、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は18歳で、運転免許を取得し、すでにこの頃は、ポンコツ車を運転していたので、あちらこちらにドライブして、シネマにはよく行った。こうして、地球人のオタワでの、Presience courseは始まっていった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-8151082626756904762?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/10/blog-post_01.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-128641461985981870</guid><pubDate>Fri, 19 Dec 2008 23:33:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-20T11:30:27.093+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>３。地球人留学（中学、高校、秘話）</category><title>高校の卒業式と家族旅行</title><description>地球人はこの中学高校で、色々なことに挑戦し、5年の歳月を過ごした。そして、勉強でも、留年することもなく、全ての単位を無事取得して、卒業式を迎える日が近づいた。勿論、卒業式に参加するため、私は海を渡った。兄夫婦も、息子（地球人の弟）を伴い、日本から私と一緒にカナダに向かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;途中、まだ、卒業式までには間があったので、我々はまず、カナディアンロッキーに向かった。もう、この頃には、かなり旅なれていた兄は、カルガリーに着くとすぐ、レンタカーを借りて、バンフに向かった。ここでホテルに一泊し、カナディアンロッキーやコロンビア大氷原などを見物した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6月初旬のカナディアンロッキーは、瑞々しい緑と、雪を抱いた雄大な山々、石灰の混ざった綺麗なマリンブルーのレイクが、次から次へと現れ、息を呑むような美しさだった。道には、様々な動物が悠然と現れ、大自然を謳歌しており、車が近づいても恐れる様子もなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以前から、写真などではカナダの大自然を見ていた私も、本当に目の前の光景は、神秘的な美しさに満ち満ちており、感動の連続だった。出てきた動物は、鹿、熊、狐、アライグマ、リス、エルクなどなど、、、、。のんびりと車を避ける動物達を見て、別世界に迷い込んだ気持ちがした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カナディアンロッキーの旅を堪能し、我々はモントリオールに向かった。市内のホテルに宿をとり、地球人の卒業パーティに参加した。日本の卒業式とは全く違い、テーブルがセットされたホテルのディナーショーのようなスタイルで、卒業式が始まった。先生方も、奥さんやご主人を伴い、タキシードやロングドレスを身にまとい、優雅に現れた。教鞭をとっていた義弟夫婦も、勿論、正装して現れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;映画で見たとおり、男の子はタキシード又はダークスーツ、女の子はロングドレスやカクテルドレスで、それぞれのパートナーにエスコートされ、会場に入った。父兄たちも皆正装で、本当に華やかな雰囲気だ。バンドが入って、そこここに風船が揺らめき、テーブル番号がわかるようになっていた。学生達はまだ父兄とは別々に座っており、いよいよ、卒業式が始まった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;司会に促され、校長先生の挨拶など、型どおりの進行ぶりだった。しかし、ホテルの広い会場で、バンド付きという設定は、厳かな雰囲気とは程遠く、本当に自由で、楽しい雰囲気だった。いよいよ卒業証書の授与が始まった。勿論アルファベット順でAから始まる。地球人の姓はYで始まるので、まだまだだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一人一人名前を呼ばれた学生が中央のステージに上がり、校長先生から卒業証書を授与されている。厳しい淘汰の末、8クラスで始まったクラス編成は、5クラスにまで、減らされていた。会場の全ての人々は、無事、卒業まで頑張った学生に、卒業証書が手渡される度に、拍手と喝采を送り、お祝いした。かなりして、「そろそろ地球人の番では？？？」と思ってみていたら、案の定、名前が呼ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はその時の感動を、一生忘れないだろう。 司会者の読み上げるファーストネーム、(TETSU)という正しい発音の、甲高い声が響いた途端、地鳴りのような声援と、拍手と、喝采が、ひときわ高く会場を揺らした。参列した学生の殆どが、親しみの篭った目で地球人を見上げ、私達の方にまで目を向けて、大いに祝福してくれている。泣き虫の私は、思わずジ～～～ンとして、又、目頭をぬぐった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここまで漕ぎ着けるには、地球人なりの、大変な日日があっただろう。支えてきた私も、一体何度太平洋を越え、遥遥と通ったことか。教鞭をとっていた大学の、学期の合間に、突然心配になって、滞在わずか4日ぐらいで、往復したこともあった。台北から、24時間を越すフライトは、かなりきつく、子育ても、本当に、体力勝負だな、と何度も思ったほどだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;感傷に浸っているうちに、卒業式は無事終了し、ライトが薄暗くなり、ディナーが運ばれ始めた。ミラーボールも回り始め、バンド演奏が始まった。「ムードが出てきたな！！」と思った途端、それまで座っていた学生が、ほぼ一斉に動き始めた。「何が始まるんだろう？？」と見ていると、ダンスフロアーに次々とペアが現れ、踊り始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;程なく地球人が現れて、「Shall we dance!!」と私に手を差し伸べる。「エッ！！本当にやるの？？」と大いに照れたが、初めて息子のリードで、ダンスを踊った。欧米の学生は、卒業式の後の、最初のダンスは、男の子は母親と、女の子は父親と踊るのが慣わし。皆、楽しそうに踊っている。「こんな自由で伸び伸びとした中、随所に感動と思い出がちりばめられた卒業式もいいな！！」と心から思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;卒業式も無事済み、翌日、地球人も交え、我々はナイアガラへの日帰り旅行を敢行した。朝7時ごろの飛行機でトロントへ。そこですぐレンタカーを借り、ナイアガラへ。約3時間半ぐらいナイアガラで遊んで、又、午後の便（確か4時半ごろの便）でモントリオールに戻るという強行軍だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ナイアガラの滝は噂どおり、物凄い迫力だった。ドウドウとうなりをあげて落下する水流。舞い上がる水飛沫。木の葉のように渦の中をさ迷う、客船。あのマリリンモンローが（ゴメン。又古くて、、、）艶然と笑っていた映画、「ナイアガラ」の壮大さそのもの。私達は早速レインコートを着て、客船に乗ることにした。エレベーターでかなり下まで降り、夏だというのに肌寒い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;客船が滝の真下を通過するときには、カナディアンロッキーの山々の迫力とは、又、違った物凄さがあり、恐ろしい魔力で、滝壺に引き込まれるような、不安すら覚えた。本当に大自然の中の人間は、小さな小さな生き物に感じられ、崇高な美に感動した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;後日又、2度目に訪れた時には一泊し、ホテルの部屋から、ライトアップされたナイアガラを見て、又別の美しさに感動したが、やはりカナダ旅行では、一度は訪れる価値がある所だと思う。まあ、びしょびしょに濡れることがお嫌いな方には、乗船はお勧めしかねるけど、、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この時、どういうわけか、トロント空港への帰り道で、兄と地球人が焦り始めた。どうやら道を間違えたらしい。飛行機の時間は刻々とせまり、切符はもう買ってあるから、なるべくなら間に合わせたい。いつもはおっとりの地球人も、さすがにかなり緊張。空港に着いて、私は皆の切符を預かり、チェックインに向かい、地球人と兄はレンタカーを返しに、、、。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでにあと残り20分を切った頃、ようやく全員のチェックイン終了。二人が戻るのを、イライラしながら待って、慌しく走って遠くのボーディングゲートへ。我々が機内に入ると同時に、入り口がバタン！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸い国内線だから、これでよかったものの、危ない綱渡りで、飛行機の中では、全員グッタリ。席は勿論、全てばらばらに座らせられ、乗れただけでもラッキー！！地球人の卒業式を挟んだ家族旅行は、こうして、波乱のうちに幕を閉じた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-128641461985981870?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_20.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-7248405739449221599</guid><pubDate>Wed, 17 Dec 2008 21:50:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-19T11:49:03.743+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>３。地球人留学（中学、高校、秘話）</category><title>地球人の頑張り（アイスホッケー編）</title><description>毎年夏休みになると、急いで飛んで帰ってきた地球人が、次に目指す目標は、「卒業までに、アイスホッケーで学校の代表選手になり、格好いいユニフォーム姿を見せてやる！！」という、無謀に近い公約だった。すでに3年生を迎え、地球人はBクラス入りを果たしてはいたが、このクラスから上に行くのが大変。詰まりに詰まっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論、学校で、アイスホッケーの練習に参加している学生なら、当然、夢は学校の代表選手。正式な試合には、多くの応援団も駆けつけてくれる。そんな試合で、学校のユニフォームを身につけ、戦いたいと願う学生は、山ほどいた。地球人の日本の夏の特訓に、力が入ったことはいうまでもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このアイスホッケーで、学校の代表選手を目指す戦いでも、地球人は地元の子供との、約10年の空白の距離を埋めなければならなかった。義妹夫婦が絶対に無理といったのも、その後、地元のチビッコチームをたくさん見た私には、すぐ理解できた。皆、物凄く一生懸命で、上手い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;北海道や東北地方のチームと違い、地球人が毎年夏に参加した、東京のジュニアホッケーチームのレベルは、あまり高いとは言えなかった。しかし、個別に地球人に特訓をしてくれた、かつての6大学ホッケーチームの花形選手や、社会人ホッケーチームで鳴らした人々の滑りは華麗で、素人が見ても、本当に格好よかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな往年の名選手のお声がかりで、昔、名ゴールキーパーとして鳴らした人に、フォームや基本を教えてもらうことができた地球人は、本当にラッキーとしか言い様がない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;お礼に地球人は、彼達が望む、NHL（ナショナルホッケーリーグ。世界最高峰のプロホッケーのメジャーリーグ）の試合のビディオや、頼まれたホッケーグッズを買ってきてあげたりしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は、カナダに居るときは学校のアリーナで、日本では高田の馬場のアリーナで、夏冬すべての時間をホッケー漬けにして、頑張っていた。夏のアリーナには、子供から大人まで、関東ではかなり強い選手が所属していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;特に中学3年生ぐらいの年齢では、かなり有望な選手が居て、地球人は、大いに技を磨かせてもらった。一試合だけでもつかれるのに、地球人は年齢に関係なく、大人のチームでもゴールを守らせてもらい、指導を受けていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本では中学生ぐらいまでは、親が昔、プレーしていた人の子供達など、結構実力のある子供がたくさん居た。しかし、大抵中学3年ぐらいになると、「高校受験があるから、ホッケーは止めて塾に行きなさい！！」と親に言われて、一人、二人と有望選手がチームから姿を消していった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は、まだやりたくてやりたくて、ホッケーに未練たらたらの子供が、親に言われて仕方なく止めていく姿をみて、「日本の子供は可哀相だね！！やりたいこともやれなくて！！」とよく言っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブログは、地球人の、多言語習得に関する秘話が中心なので、これまで触れなかったが、地球人が9歳の時、彼の弟が生まれた。しかし、この弟は、跡継ぎの居ない私の兄の養子として、生後10ヶ月で日本に渡った。戸籍上は地球人のいとことなったわけだが、血のつながりは兄弟で、とても仲がいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この弟も、地球人の影響を受け、どうしてもホッケーがやりたいといい、幼稚園から始めた。当時の彼の憧れは、「お兄ちゃんが守っているゴールに、俺がシュートして入れてやる！！」という、勇ましいものだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼も中学からカナダに留学させたい、という兄の意向があり、それなら、地球人ほど言葉の基礎を持たぬ彼には、カナダの国民的スポーツ、アイスホッケーを、厳しく訓練しておくよう、兄に勧めた。留学後、カナダの子供達と、スポーツを通じ、すぐ仲間になれるからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで彼は、地球人が所属していた、高田の馬場のジュニアアイスホッケーチームに6歳から所属し、小学校高学年では、ついに、このチームの中心選手の一人として活躍するようになった。そして、全国大会にも参加し、北海道にも遠征した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その全国大会で、地球人の弟のチームは、見事、全国3位の銅メダルに輝き、この記録は「東京のジュニアアイスホッケーチーム小学生の部」の過去最高位として、未だに破られていない記録だと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何せ、北海道から東北地方の多くのチームは、けた違いに強く、当時の記録では、東京のジュニアアイスホッケーチームが全国大会の10位以内にはいるのは、奇跡に近いことだったのだから。兄夫婦もはるばる北海道まで遠征し、チーム関係者や選手達の父兄にまじって、応援に声を嗄らした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、その北海道、東北の強豪チームのいくつかを倒し、大健闘した東京チームの快挙は、当時の新聞でも取り上げられ、報道された。それは、ホッケー好きの兄夫婦の、貴重な思い出ファイルとして、今も大切に保管されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして彼は、外国からの招待チーム（ロシアやアメリカ）との親善試合にも、オール東京の選抜メンバーの一人として指名され、外国チームを迎えうった。ちなみに、留学したカナダの中学校では（兄とは違う英語教育の中学）、最初の年から学校の代表選手として、試合に臨むことができ、アイスホッケー体験では、兄よりずっと恵まれていた。幼稚園からの日本での厳しい訓練は、すぐにカナダで実を結んだのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小学校5年生の夏休みには、この弟もケベック留学を控え、地球人が当時在籍していた大学が主催した、3週間の、「ジュニアアイスホッケー特別サマーコース」に参加し、腕を磨いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その時には、フランス語や英語は苦手でも、彼は日本で鍛え上げた華麗な滑りで、地元の子供達にも、コーチにも、すぐに溶け込み、友達ができた。スポーツには、ほとんど世界の壁がなく、彼のホッケー経験は、こうして、友達作りに、大きな役割を果たしたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;兄弟で同じスポーツを楽しみ、高めあう姿を見るのは、親として最高の気分だ。数年後、そのアイスホッケー兄弟対決シーンは、横浜のアリーナに遠征した時、一度だけ実現した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アタッカーとしてシュートを放つ弟も、キーパーとしてゴールを守る兄も、真剣そのものの男の戦いだった。私には今でも鮮やかに眼に焼きついて離れない、感動的なシーンだった。 結果は何度もシュート、防衛の繰り返しで、まあ引き分けだったように思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、「弟の憧れ」というプレッシャーも受け、地球人のホッケー特訓には、益々力が入っていった。その甲斐あって、地球人がついに、学校代表の正選手に選ばれ、晴れて母校の名誉の為に、ゴールを守るようになったのは、公約の最後の年、5年生の時だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人は確かに、ヨチヨチ歩きのスケート練習から、猛特訓に耐え、宣言してから3年で、栄えある母校のユニフォームを身につけ、学校代表として試合に臨むことができた。私はその一年、地球人の努力と栄誉を称え、何度も太平洋を越えて、試合の応援に駆けつけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アリーナに居る東洋人は少なく、すぐに私は「地球人の母」として、チームでも有名になった。遠征試合の時には、選手と同じバスに乗せてもらい、選手に配られる、スパゲティなどのランチも、分けてもらって、すっかり皆と顔見知りになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やはり、自分の子供が出ている試合を見るのは、独特の興奮がある。特にゴールキーパーだった地球人は、パックを止めて当たり前、入れられればブーイングという、厳しいポジションだった為、相手チームの選手が、怒涛の勢いで地球人に迫り、シュートを放つ瞬間には、目を開けて見ていることが出来ず、何度も下を向いて祈った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、試合開始前とか、ピンチが迫ると、多くの味方の選手が地球人を激励しに集まり、こぶしとこぶしを合わせて、「頑張れよ！！」と励ましたり、何か言って力づけたりしているのを見て、「本当にスポーツっていいな！！」と、此方まで胸が温かくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人のフランス語の進歩に、正選手になる前から一緒に汗を流した、多くのホッケー仲間が、大きく貢献してくれたことを、私は信じて疑わない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なにしろ何度も言うように、アイスホッケーは、カナダの子供達の憧れのスポーツだ。国技といっても過言ではない。外国から来た留学生で、しかもスケートも覚束なかった地球人が、猛特訓を受け、自分たちのチームのゴールを守っていてくれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それだけで、地球人と他の選手の絆は深まり、いつも何か楽しそうにお喋りして、大きな声で笑っていた。地球人のアイスホッケーへの頑張りは、フランス語での学習への頑張りでもあり、大きな相乗効果をもたらしたものと、今でも私は確信している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人にとって、母校の代表選手のユニフォームを晴れて身につけ、チームメートとともに戦い抜き、時にはアメリカまで遠征したこの1年は、素晴らしい青春の1ページとして、深く胸に刻まれ、永遠に忘れることはないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今、このブログで初めて言うね！！　「学校代表のユニフォームを身につけ、誇らしげに、氷上で活き活きと躍動する、ゴールキーパーの華麗な動き、とっても格好良かったよ！！地球人ブラボー！！」　（マタマタ親ばかで失礼！！）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-7248405739449221599?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_18.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-1035064612083668630</guid><pubDate>Mon, 15 Dec 2008 19:01:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-16T04:46:10.670+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>３。地球人留学（中学、高校、秘話）</category><title>地球人の頑張り（勉強編）</title><description>中学一年の科目を、すべて順調にパスした地球人が、二年生からアイスホッケーに狂い始めたことは、すでにご紹介した。しかし、二年生から、地球人は勉強の面でも、親元や義妹一家から離れて学寮入りしたにもかかわらず、自分で自分にプレッシャーをかけ、実に頑張って、よい成績をあげるようになっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こう書くと、何だか親の自慢みたいで恥ずかしいが、そうではなく、実は地球人がここまで頑張れたのには、大きな原因があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、当時のこの学校の、特別なルールによるものであった。この学校には、前期に4回、後期に4回のテストがあり、年間の成績が発表されることは、すでに少し触れたと思う。しかし、それとは別に、この学校には、とても粋な計らいがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、普通クラスにはあったのかどうか分からないが、地球人が所属していた特別クラスには、間違いなくあった。前期の4回のテストと日常成績、及び、後期の3回目までのテストと日常成績が、十分満足の行く年間成績レベルに達していると認められる学生には、後期の4回目のテストを免除し、他の学生より、一週間以上早く夏休みが始められる、というシステムだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何しろ、地球人のブログを見ていただくとおわかりの通り、地球人には、実にやりたいことが多い。それは、昔も今も変わらない。従って、地球人は1日も早く日本に戻り、家族に会い、ホッケーの練習や、アルバイトがしたくてしたくてたまらなかったのである。そこで彼は、一心不乱に勉強し（？）、「絶対に最終試験免除の恩恵に預かるんだ！！」と心に決めて、頑張っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その頃、日本の我が家は、住み込みの手伝いは2人ぐらいで、あとはすべてアルバイトでまかなっていた。アルバイトをさがすのも、それ程難しくない時代だったが、アルバイトの従業員に関しては、ちょっと叱ると次の日から来なかったり、いきなり辞めたりで、当時、経営を任されていた兄夫婦の、頭痛の種だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、確実に夏休みには3ヶ月戻ってくる地球人を、夏の間のアルバイトとして、従業員の頭数に入れていた。地球人は、布団上げ、布団敷き、掃除、配膳などなど、下働きとして、実によく働いた。当時の兄夫婦は、「こいつはまだ中学生だけど、よっぽど変な大人より気がつくし、掃除なども真面目にやるから頼りがいがある！！」といって、重用していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに、外国人でも滞在する時には、通訳としても力を発揮していた。ともあれ、彼はこうして、我が家でアルバイトしたり、何か欲しいものがあって、お金がたりないときなどは、コンビニの夜班の時間給はかなり高いことを発見し、働いていた。そして、その合間には、ホッケーの練習と大好きな秋葉原見学に自転車で出かけるなど、日本でも行動的で、毎日忙しそうにしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;のちには、兄の友人から、お嬢さんにフランス語を教えてほしいなどと頼まれ、家庭教師までしていた。このように、プログラムが一杯のライフスタイルは、すでに地球人の小学校からの習慣で、色々な独立訓練を積んでいた地球人には、少しも辛いことではなく、むしろ充実した生活のように見えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして地球人は、毎年、最終試験免除の特権を確保するため、真面目に真面目に（？？？）勉強し、他の学生より、一足早く夏休みを迎え、それは高校を卒業する年まで続いていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頑張っている学生には、粋な計らいをするこのシステムが、果たして教育的に良いのか悪いのか、私にはわからないが、少なくとも、地球人とその家族には、本当に本当に、有り難い制度であった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-1035064612083668630?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_16.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-6511951339202284074</guid><pubDate>Sat, 13 Dec 2008 21:19:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-14T08:29:23.883+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>３。地球人留学（中学、高校、秘話）</category><title>地球人の親友</title><description>中学2年生になった頃、地球人に、生涯の友と呼べる親友ができた。彼の家は学校からオタワ寄りに30分ほど行ったところにあり、オンタリオ州にあった。彼は完全にフランス系の青年で、ちょっとベートーベンに似ている。地球人が初めて私に彼を紹介してくれたのは、学校の裏のスキー場に、地球人の滑りを見学に行ったときのことだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼も一緒に滑りに来ていて、ロッジの中で眺めていた私の元に地球人と一緒にやって来て、初対面の挨拶をした。笑顔のとても綺麗な、感じのよい青年で、おやつを一緒につまみながら、少しお喋りした。（勿論英語で）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、地球人と彼の仲は益々深まり、その年の夏休みに、彼は日本の家にやって来た。彼は日本語にも日本料理にも日本の生活習慣にも大いに興味を持っていて、我が家の皆と仲良くなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人も、大好きな彼の訪日に、毎日が楽しくて楽しくて、一緒にあちこち出かけていた。彼は、梅干も納豆も味噌汁も大好きで、和食が大のお気に入り。日本での生活は、言葉以外、全く問題なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;スポーツは、テニスがとても上手で町の代表選手だったが、勿論、カナダの子供として、スケートも楽しめ、よく地球人とホッケーの練習もしていた。地球人のブログのスライド写真に、確かホッケー姿の彼が出ていたような気がする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人もよく彼のご両親の家にお邪魔して、本当に可愛がってもらった。地球人には、その後もたくさんの友達ができたが、続けて付き合っている友達としては、彼が一番長いと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;二人は、よき友であり、よきライバルであり、お互いに刺激しつつ、色々なことに挑戦していった。彼が居なかったら、地球人が真剣にスペイン語習得に興味を持ったかどうかわからない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この親友は、若い時に多言語と異文化を吸収したいと願い、高校を卒業と同時にエクアドルに一年、語学留学した。エクアドルの公用語はスペイン語で、地球人は彼に会いにいって、3週間ほど、エクアドルに滞在した時、すっかりスペイン語に魅了され、大学2年の夏にスペインとドイツに短期語学留学した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;勿論スペインの大学では、スペイン語を、ドイツの大学ではドイツ語を学ぶ為だ。私は勿論大賛成で、送り出した。これは当時、地球人が勉強していた大学の交換留学制度に参加したもので、スペインの大学とドイツの大学で取得した単位は、そのまま、カナダの大学の公認単位として、数えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;親友の彼は、エクアドルから戻ると、やはり、地球人とともに学びたくて、同じ大学をめざし勉強しなおした。1年遅れで同じ大学にパスし、それからはモントリオールで、地球人と同じアパートをいつもシェアし、付き合いはいまだに続いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人の大学卒業後、一時完全に勉強を離れ、音楽中心に「夏休み半年充電期間」を一緒に我が家で過ごしたのも、彼ともう一人の友人だった。 二人で青春時代の喜びも、悩みも、苦しみも、シェアしてきたといえるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、「夏休み最後の湖畔コンサート」のメンバーとして、彼はギターで参加した。これも地球人の忘れられぬ思い出の一ページだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、子供に親の世界を押し付けるより、親が子供の世界に下りてゆく方が、とても楽しいと感じる。たとえば、アイスホッケーも、地球人に紹介されて、初めてこんなスポーツがあるんだと知ったほど、その面白さも含めて、未知の世界だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、すくなくとも地球人の周りの友達は、本当に色々な事が楽しめる多才な人が多かった。勉強ばかりの偏った教育があまり好きではなく、バランスのよい育成を心がけていた私は、地球人の周りの友人を見て、大いに安心した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「地球人の音楽教育」のところで出てきた、「キーボードを楽しんでいた友人」というのが彼で、ピアノ、ギター、ドラム、ビリヤード、ホッケー、スキー、ゴルフなど、彼と遊び、彼と競って楽しめることが多い地球人はラッキーだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いまだに地球人がカナダに戻ると、彼は必ずギターを抱えてやってくる。飲むと大声で歌を歌い、クラシックギターの腕前も、会うたびに上達しているように感じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供の時から、地球人の友人と一緒に楽しみながら会話すると、何だか私にも新しい世界が開ける気がする。これも私が、子育ての中で、いつも心がけていた楽しみ方のひとつだ。我が家には、地球人が旅行するたびに世界中から買ってきた、お土産の、名も知らぬ楽器が多い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;又、地球人が我が家に戻り、この親友がギターを抱えてやって来て、将来2人の子供達も色々な楽器で仲間に加わり、音楽を楽しめる日が来たら、どんなに賑やかで楽しい事だろうと、今から想像している&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、この親友は、その後もスペイン語を常用し、数年前に南米出身の女性と結婚した。そして、女の子の双子のベビーがうまれた。すでに１才8ヶ月の可愛い盛りで、とても幸せそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球人はその中の一人のゴッドファーザーとなっている。さてさて、地球人が本物のファーザーになるのは？？？その日を待ちかねる、今日この頃のテツママであるが、、、、。あ～～あ！！でも花嫁探しが先か！！残念！！&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-6511951339202284074?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_14.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-7576201942405594418</guid><pubDate>Thu, 11 Dec 2008 21:26:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-12T07:32:30.125+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>３。地球人留学（中学、高校、秘話）</category><title>多言語習得の効用</title><description>地球人の中国語はどうなったのであろうか。当時、この中学には、台湾からの留学生もいて、そのご両親は、私とも顔見知りだった。学校のすぐ側に住んでいて、台湾に居たときから知っていた、このご一家の家に、地球人はよく遊びにいっていたし、学校でも子供達と会うことが多かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、当然、北京語や台湾語も常用されていた。又、2年ぐらい上には、日本人の留学生も居た。しかし、東洋からの留学生で、英語教育をあまり受けずにこの学校に留学してきた学生は、一様にかなり苦戦していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;特に私が心配した、歴史、社会、作文、宗教などでは、語彙に問題があり、他校に転校したり、再履修を強いられる学生も多かった。私はやはり、英語教育で幼稚園と小学校を終えさせてから、留学させたことは、かなり地球人のフランス語習得に、役立ったことと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この多言語習得後に留学させたことには、もう一つの思いがけない効用があった。それは、「いじめ」の問題から、地球人が逃れられたことである。やはり、何処の国の学校でも、多かれ少なかれ集団生活をする以上、身分の上下や、いじめに近いことは起きてくる。この学校にも、眉をひそめる様な言動をする学生も多少だが居た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼たちは、大人しい子供を軽く威嚇したり、少し意地悪などをすることもあった。地球人も見るからに東洋人であり、目立つので、初めは標的になりそうになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、私が学校のアリーナに顔を出すと、地球人はすぐに日本語で私に話しかけ、台湾からの友達とは北京語や台湾語で話し、寮生とは、自然に英語で話している姿を目撃した学生達の間で、いつしか、「あいつはなんだか、かなりたくさんの言葉が話せて、スゴイらしいよ！！」という、評判が立ち始め、そのコワモテ学生達にも、一目置かれるようになっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コワモテ学生に多少意地悪をされかけていた学生の幾人かは、自然と地球人のまわりに集まり、助けを求めるようになった。自分の事では、喧嘩を好まぬ地球人も、ときどきコワモテ学生に、あまりイジメをしないよう注意したり、よく話し合いをもったりするようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すると、そうしたコワモテ学生達も、色々な悩みを抱えていて、その相談に乗っているうちに、すっかり彼達とも話が通じ、仲良しになった。地球人はこうして、どちらのグループにも属さず、自然と融和剤のような役割を果たすようになり、多言語習得経験から生まれた、一目置かれる存在感が、思わぬところで平和利用されていくようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やはり、何かひとつでも、自信を持たせてから海外留学に送りだすことは、知らず知らずのうちに、あまり他人に惑わされることなく、自分を見失わぬようになるばかりか、他人の痛みにまで思いを馳せる心の余裕が生まれてくることを知り、私はとても嬉しく思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかく、欧米、カナダの子供達は、自分で働きながら勉強するような独立心の強い子が多く、地球人もそんな良いところはすぐ取り入れ、自分の生活のペースをキチンと守る努力もし、どんな学生にも真っ直ぐな心で向かおうと心がけていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、これまでの、多言語習得と厳しい独立訓練の経験や失敗が確実に役に立ち、心身ともに頼もしく成長し続けている地球人の、楽しそうな留学生活を知り、心からホッとした。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-7576201942405594418?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_12.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-2214791217067556645.post-7744075644305669881</guid><pubDate>Wed, 10 Dec 2008 00:37:00 +0000</pubDate><atom:updated>2008-12-10T11:55:58.419+09:00</atom:updated><category domain='http://www.blogger.com/atom/ns#'>３。地球人留学（中学、高校、秘話）</category><title>自己管理能力の実践</title><description>寮生活を始めた地球人は、学校の授業や外の社会ではフランス語、寮では英語とバランスよく、両方常用するようになっていった。そして、入寮とともに、地球人は生活面でも、すべて自分でコントロールしていかなければならなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前もって地球人の金銭独立訓練はしてあったが、いよいよ実践するときが来たのだ。これまでは、やはり、何かと義妹夫婦の意見も強く、本格的な独立は入寮からと言える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;寮の消灯まえに済ませること、翌日の準備、支払いなどなど。勿論、すでに地球人名義のチェックを渡しておいたので、必要だと思われる文房具、教材、スポーツ用具など、自分で考え、自分で管理するよう言いおいてあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、その他に、まったく、後で親に報告する必要のない、「小遣い」を別に積み立てて置いた。すべてのカードや口座の通帳は地球人が保管していたので、私は普段見ることがなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この頃、「ねえ、ママ、冬に備えてスキーとスノーボードを買いたいんだけど、いいかなあ！！」と電話で連絡をしてきた。さすがにちょっと値がはるので、私にお伺いを立てたのだろう。あの環境で、欲しがるのは当然だと、勿論すぐに許可した。スポーツ大好き人間の地球人は、アイスホッケー以外にも、スキー、スノーボードにも大いに興味を持ち始めていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地元の人は、「アイスホッケーをしている人は、大体スキーもスノーボードも覚えが早く、すぐ上手になるよ！」と言うが、これらのスポーツはバランス感覚がとても大切で、相乗効果があるらしい。地球人もすぐ、両方ともかなりの腕前になっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このころ、私が注意していたことが二つある。それは、疾病はあまり心配しなかったが、怪我に対する保険である。何しろホッケーは、スティックを持って、猛スピードで、ぶつかり合う氷上の格闘技だ。特にゴール前の物凄いぶつかり合いを目にしたことがある人なら、私の気持ちは大いに分かってくれると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カナダの中学生は、スケートを履いて、防具をつけると、もうとても巨漢が多い。猛然とゴールにシュートし、ぶつかって来る巨漢を、ゴールキーパーは、20キロの防具を背負ったまま、相手にするのだ。練習でも試合を想定して、皆、かなり熱くなる。それに、スキーや、スノーボードもやりたいという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心配は、骨折や怪我。だから、私は、学校の強制保険以外にも毎年日本で保険を掛けていた。幸い、一度も使われることなく、すべて無駄になったが、こんな保険は無駄に成った方がいいに決まっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと、万が一、怪我をして病院に入院する時のことも考えておかなければならない。当然、すぐ飛んでゆくとしても、まず最初にデポジットをかなり病院に払う必要がある。勿論、義妹夫婦がなんとかしてくれるだろうが、できるだけ、迷惑を掛けたくない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、すでに地球人は中学一年から、銀行にはかなりよいお得意さんとなり、自由に預金を使える身分となったが、地球人は決して、無駄遣いはしなかった。次に彼の元を訪れた時、私は一応、銀行預金口座を調べてみた。なんと、「小遣いとして、好きなように使ってもいいよ！！」と渡した預金には、一銭も手をつけていないし、生活費も浪費などした様子は全然ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ねえ！！小遣いは自由に使ってもいいんだよ！！友達との付き合いもあるでしょ？？」と訊いた私に、地球人は、「ママも大変だから、お小遣いはいらないよ！！僕、もう、学校の側のイタリアンレストランでアルバイトしているし、店の料理は、何でも食べ放題なんだ。飲み物も、、、、。おばさんもおじさんも親切で、とってもよくしてくれるしさあ！！」と嬉しい事を言ってくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;早速、そのレストランのご主人夫婦にお土産を持って、お礼の挨拶にいった。先人曰く、「可愛い子には、旅させよ！！本当にその通りだ！！」と、目頭が熱くなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かくして、地球人は、留学2年目にして、早くも放課後、自分でアルバイトにも挑戦し、好きなものは自分で働きながら努力して手に入れ、勉強に、スポーツに、趣味にと、忙しい時間を過ごして行った。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2214791217067556645-7744075644305669881?l=tetsumama.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://tetsumama.blogspot.com/2008/12/blog-post_10.html</link><author>noreply@blogger.com (テツママ)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item></channel></rss>